二 後宮のこと(二)
「――…驚きました、
浴場を出て回廊を少し進んだところで、
恵世の中でも、鈴雪という娘は八年前の十一歳の少女で、弱々しい印象しかなかった。家に帰らせてくれ、と泣いていたあの小さな少女が、自分よりも年上の
鈴雪は少し照れくさそうな笑みを浮かべ、肩を竦めた。
「本当は、ああいうことはあまりしたくないんです。でも、後宮で生き抜く為には、泣いてばかりではいけないと教えられました」
「
今日の午後には離宮の片づけを終えて追い付いてくるだろう侍女の名を出され、鈴雪は頷いた。
玉柚は恵世の姉の娘で、鈴雪が王宮を離れるとき、恵世が是非にと同行させた女官だ。当時はまだ二十代の半ばほどの若さだったが、十数年に渡り女官長を務めた恵世が仕込んだだけあり、礼儀作法から後宮での暮らし方や仕来りなど、不本意ながらも
彼女はまず、気の弱い鈴雪に言った。何代か前の王の時代、王后は名家生まれのそれは見事な美女だったが、生来大人しく、争いごとを好まぬ性格だった故、支配欲と権力欲に塗れた側室達に謀られ、若くして命を落とすこととなった――そうならないよう、鈴雪は望まずとも強くならねばならない、と。
後宮から出ている間に武器となる知識と所作を身に着け、いつか戻ったときに、側室達を自力で抑え込まなければならない、と言い聞かせられた八年間を思い出し、鈴雪は微かに苦笑した。
「上手く出来ていたでしょうか?」
「ええ、もちろんでございます。ご正室らしいお言葉と振る舞いでいらっしゃいましたよ」
それならばよかった。
年上の人達に対して、命令を下すというのは未だに慣れない。相手が
側室は鈴雪よりも格下だ。それ故に侮られてはならぬ、と玉柚には散々言われ、言葉遣いなども直されてきた成果だが、彼女がいたら恐らく合格点はもらえなかっただろう。
「玉柚達が戻ったら、明日のことを話し合わなければいけませんね」
「はい。対策を練りましょう」
笑い合いながら居室へ戻り、着替えをしていると、
あとは髪を纏めるだけなのだが、と少し困ったように見つめると、彼は「いい。支度を続けろ」と素っ気なく零し、面倒臭そうに重たい冠を外すと、適当に腰を落ち着けた。
どうしよう、と思わず恵世と顔を見合わせるが、王本人からの許可は出ているので叱られることはないので、そのまま支度を続けることにする。だが、相手は一国の君主である。あまり待たせるわけにもいかないので、最低限の体裁を整える形で手早く纏め上げ、手間のかかる簪の数も少なく仕上げた。王の用向きを伺ったあと、きちんと結い直せばいい。
「お待たせ致しまして、申し訳ありません。なにかご用でしょうか?」
柿色を基調にした地味な色合いの衣裳を纏った姿に、藍叡は微かに眉を寄せた。さすがに昨日着ていたものほど質素ではないが、一国の王后の装いとしては控えめ過ぎる。上級女官の装いの方が華美かも知れない。急遽用意したものとはいえそんな様子で、きちんと誂えた着替えは離宮から運んでいるとは言っても、鈴雪の性格からするとこれと大差ないに決まっている。
急がせたとはいえ髪型も地味で、昨日会ったときのものと大差がない。腰のあたりまで黒々と伸びた髪が美しいというのに、簡単に編んで丸めたところに飾り気のない簪が二本ほど挿さるだけで、あまりにも地味だ。商家の女主人の方が派手なくらいだろう。
「
自分の指示で仕立てるべきだな、と判断しつつ、訪れた本題にようやく入ると、鈴雪は小首を傾げる。
「お茶席でも設けようとお声かけさせて頂いただけですが」
やり合ったなどと大袈裟だ、と言わんばかりの口調に、藍叡は溜め息を零した。
そんなことだろうとは思っていたのだ。
寧貴妃は藍叡が退屈しないでいいと思うくらいに弁は立つ方なのだが、その彼女がまだ若い鈴雪に負かされて、朝議の間から下がったところに文句を言いに来たのだから、藍叡は目の前の王后を意外な気分で見つめていた。
「昨日から、お前には驚かされてばかりいる」
「はい?」
恵世が淹れてくれたお茶を差し出すと、藍叡が苦笑しながら呟く。
「……やはり、お前を手離すのではなかったな」
小さく零された言葉に、鈴雪はますます怪訝な目を向けた。
藍叡は茶碗の中身をひと息に飲み干すと、すぐに「馳走になった」と立ち上がった。もう出て行くつもりらしい。
いったいなにをしに来たのだろう、と鈴雪が困惑していると、ふいと顔を覗き込まれる。
「鈴雪」
「なんでしょう?」
いきなり目線が近くなったので驚いて仰け反りかかるが、手首を掴まれて引き寄せられる。その仕種はいつもと違って痛みを感じるような乱暴さではなくて、それがまた鈴雪を困惑させた。
「生みの親に会いたいと思うか?」
まったく予想していなかった言葉が飛んできて、鈴雪はきょとんと目の前の王の顔を見つめ返した。
「いえ、特には……」
血の繋がった両親が存命であり、大臣のひとりであることは知っているが、思い出もなければ顔も記憶にないので、他人のように思えて特に会いたいと思うこともない。どちらかというと、御廟で育ててくれた神女達にもう一度会いたいと思う。
「生みの親でもか?」
「ええ、はい……そうですね」
何故そんなことを問うのだろう、と鈴雪は首を傾げた。
「えぇと……、こう申しては薄情かと思いますけれど、お顔も覚えておりませんし、会ったとしても、どう接すればいいのかわかりません。そのような気疲れは父母も同様でしょうし、敢えて会いたいとは思えないのです」
その答えに藍叡は満足だった。
寧貴妃はもちろんだが、
その点、鈴雪は親族に権力を与えることもないだろうし、愚かしい企みをするつもりもなさそうなので、安心する。両親に興味もないようなので確実だ。
「恵世」
怪訝そうにしている鈴雪から身を離すと、藍叡は控えていた女官を呼びつける。
「今宵の伽を命じる。磨いておけ」
恵世は拱手しつつも、驚きを隠せない。
周囲から他の女官達の嬉しげなさざめき声も上がり始めるが、事態が飲み込めないのか、鈴雪は戸惑ったようにきょとんとしている。そんな妻へ藍叡が手を伸ばすと、彼の指先は鈴雪の髪結い紐を掴み、それをひと息に解き去った。挿していた簪が床に落ちて涼やかな音を立てる。
「もっと違う結い方にしろ。お前に合わぬ」
驚いている鈴雪にそう告げると、今度こそ出て行った。
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