二 後宮のこと(一)
王后が八年ぶりに王宮に戻って来たことは、国王自らが迎えに行ったという報と共に、すぐに廷臣達の間に広まった。この様子だと、十日もしない内に民の間にも広まるだろう。
慣例では朝議に王后も列席するものだとされていたが、戻って来たばかりで疲れているだろう、と王が告げ、この日は今まで通りに国王一人で臣下の奏上を受けていた。
王は相変わらずの仏頂面で頷き返していて、平静と変わらない。王后を迎えに行ったことなどなかったかのようだ。
それに対して、廷臣達の幾人かは少々落ち着きのない様子を見せている。
三度の流産の果てに、これ以上は母体に害があるだろうと言われている
度重なる流産や死産を経験し、心身ともに疲弊している四人の側室達に対し、帰還したばかりの王后は年齢も若く健康で、生娘でもある。子を産む可能性は、藍叡の妻達の中で最も高いだろう。そのことに楊家と黄家の者達は不安を抱いているのだ。
それを見ると、
これは、寧家の胆の太さを賞するべきか、それとも裏があると警戒すべきか――藍叡は奏上に対して裁可の声を返しつつ、考えを巡らせた。
寝台ではなく長椅子の上で丸まって寝ていた
「あんなところでお休みになられて、お身体を壊されても知りませんよ」
少し怒ったような口調で小言を言いながら、恵世は洗われた鈴雪の髪に香油を塗り込んでいく。両手は別の女官達によって手入れされていた。
「そうですね……気をつけます」
肩と首に重たい痛みがあるので素直に謝った。気をつけていたつもりなのだが、甘かったようだ。
鈴雪が何故そんなことをしたのか理由に気づいている恵世は、それ以上小言を言うようなことはせず、静かな笑みを向けた。
「お部屋に戻られたら、
「ありがとう。気を遣わせてごめんなさい」
「鈴雪様のご健康をお支えするのが
まだ少し湿り気の帯びる髪をゆるく纏められ、湯冷めしないように羽織り物を着せかけられたので、頷いて立ち上がる。
「あら、先客がいらしたのね」
恵世に促されて歩き出した先で、聞き慣れない女の声が響いた。
声がした方へ目を向けると、十人程の女官達を引き連れた女が一人立っている。
目を奪われるような美しさで、とても華やかな女だった。年の頃は二十代の半ばかもう少し上くらいのようだが、凝った刺繍の施された重そうな衣裳を身に纏い、その細い首がよく重さに堪えていられるな、と感心するような量の簪が艶やかな黒髪を飾りたてている。なんとも煌びやかな女性だった。
「場所をお間違えではありませんか、
いったい誰なんだろう、と女を不躾にならない程度に見つめていると、恵世の硬い声が響く。ハッと見ると、その声と同じくらいに硬い表情が女を睨むように見つめている。
寧貴妃と呼ばれた女は、長い金色の付け爪で優雅に口許を覆い隠し、くつくつと忍び笑いを零した。
「ごめんあそばせ? 今日は朝から随分と暑いから、汗を流そうと思っただけなの」
「それならば尚のこと、場所をお間違えです。こちらは
恵世の言葉は何処か冷ややかだった。
その言葉に、寧貴妃の目許からスッと笑みが消える。従っていた女官達の表情にも、大変な侮辱を受けたと言わんばかりのものが浮かぶ。
「王后……私も主上の
笑わない目で寧貴妃は言った。その声は柔らかく、耳触りのいいものに聞こえたのだが、鈴雪は彼女からの悪意を逆にしっかりと感じ取った。お前が王后を名乗るのは相応しくない、私の方が相応しい――彼女は言外にそれを匂わせ、鈴雪を馬鹿にしているのだ。
屁理屈を宣うな、といきり立とうとする恵世を制し、鈴雪は一歩進み出た。
「ごめんなさい、お名前がわからないのだけれど……」
にっこりと笑みを浮かべながら、鈴雪は悪意を向ける女に向き合った。
「まあ、とんだご無礼を……。寧
女は
「菖香殿……寧貴妃とお呼びする方が正式ですわね」
「どうぞお好きなようにお呼びくださいませ」
離宮にいる間に、鈴雪はいろいろと学んだ。自分の置かれている環境のことで抗いようがないのならば、それをよく知り、上手く生き抜かなければならない、と教育係でもあった侍女の
寧貴妃菖香は、藍叡の寵が一番厚い
つまり、彼女は二十年近くも藍叡の側室として存在し、権勢を握り、事実上の後宮の主人であるわけだ。
そんな彼女が、王后になりたいと思っていなかったわけがない。
同じ王の后ではあるが、正室と側室では、天と地ほどの隔たりがある。正室には出来て、側室には出来ないことがいくつも後宮典範で定められている。
それでも、王后がいない間は随分と融通が利いていたところがあるのだろう。この浴場についても、普段から使っていたに違いない。規則だろうがなんだろうが、彼女に逆らえる者はいなかった筈だ。
しかし、鈴雪は帰って来た。国王の唯一人の正室であり、後宮の女達を本来束ねるべき立場の后が。
鈴雪は背筋を伸ばして顎を引き、拱手の姿勢の寧貴妃を見下ろした。
「寧貴妃、長く留守にしていたことを詫びます。私はこの後宮のことに疎い故、あなた方妃嬪に伺わなければならないことが沢山あります。明日にでも時間を作って頂きたく思いますが、如何か?」
その鈴雪の言葉に、恵世は驚いた。口調は丁寧で柔らかくあったが、明らかに目下の者に対する言葉だったからだ。
驚いたのは寧貴妃も同様だったらしく、長い睫毛に縁取られた双眸を怪訝そうに向けてきた。その視線を鈴雪は鷹揚とした笑みで受け止める。
「難しいことではありますまい。何処かいい場所はありますか、恵世?」
「あ、はい……そうですね。東区画にある千琳亭などは如何でしょうか? 今の時期なら百合が咲いていると思いました」
「そう。では、そちらに致しましょう。寧貴妃、構いませんか?」
「……異論ございません」
「よかった。他の方々にも伝えておいてくださるかしら? そこのあなた」
鈴雪は寧貴妃のすぐ後ろに従っていた女官に声をかける。他の女官達よりも見目好い衣裳を纏っているので、恐らく寧貴妃の一番にお気に入りなのだろう。
自分のことだろうか、と女官は驚いた顔をした。そうよ、とにっこり微笑みかけ、
「あなたが責任を持って、他の方へ言伝ておいてくださいね」
口調はあくまでも丁寧に、けれどはっきりとした命令を下した。
自分の主人以外から命じられて面白くないだろう女官は、隠しもせずに不服そうな表情を浮かべ、まだ拱手の姿勢のままの寧貴妃を横目で見遣った。
「寧貴妃のお顔に泥を塗るようなことはなさいませんよね?」
微笑みを崩さぬまま付け加えると、女官は表情を引き攣らせる。
行きましょう、と鈴雪は自分の女官達に声をかけ、拱手の姿勢のままの寧貴妃の横をすり抜けて行った。
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