一 王后帰還(四)


 お互いに身動きが取れずに困っていると、そこへ藍叡らんえいがやって来た。

「なんだ、着替えてもいないのか」

 髪も乱れたままの鈴雪りんせつの姿を見て呆れたように言う藍叡は、軍装から衣を改め、湯浴みも済ませたようで髪が濡れている。

 恵世けいせいは慌てて控えていた女官を呼び寄せ、髪だけでも整えようと指示を出した。


 女官達の慣れた手つきで解いた髪を手早く梳かれ、簡単に結い直してもらう。飾り紐の他に派手な櫛や簪を挿されそうになったが、身に着けている衣裳に合わないのでやんわりと断り、その姿で卓に着いて待っている藍叡の許へ向かった。

「湯浴みはせんのか」

 世話をしようと手を出す女官を下がらせ、手酌で杯に酒を注ぎながら、まわりに控える女官よりも質素な装いの鈴雪を見遣った。物は悪くないのだが、刺繍や飾りも少なく、少し裕福な平民の娘の装いにしか見えない。

「替えがありません」

 身一つで連れて来られたのだ。今身に着けている衣以外になにもない。

 この部屋は元の鈴雪の居室であるから、彼女の身の回りのものは多少残されている。衣裳もいくらか残されているだろうが、それが用意されたのは八年前のことで、今の彼女に着られるものがある筈もない。


「恵世、王后おうひの衣を手配しておけ。こんな采女げじょのようなものではなく、王后に相応しいものをな。それから、お前達は皆もう下がれ」

 手を振って追い払うように命じると、女官達は一様に叩頭し、衣擦れの音を響かせながら退室して行った。恵世は僅かに躊躇って鈴雪を見つめたが、王の言葉には従わなければならない。


 広い部屋の中には夫婦二人だけが残される。

「そこへ座って食え」

 杯を重ねながら、藍叡は自分の前の席を示す。鈴雪は僅かに躊躇ったが、諦めたように従い、示された席に腰を落ち着けた。

 そんなに食欲はなかったが、彼と会話をする気もあまりなかったので、黙っていてもいいように手近な料理に手を伸ばした。どれも高級な食材をふんだんに使い、手の込んだ料理ばかりだ。見慣れず食べ慣れないものばかりだったが、少しずつ口に運ぶ。

 鈴雪が食事をする様を眺めていた藍叡も、酒を飲む合間に箸を伸ばし始める。


「この八年、なにをしていた?」

 しばらく黙って食事を進めていたが、鈴雪の箸が止まったところを見て取り、藍叡が尋ねてきた。

 なにを、と言われると答えに困るのだが、と思いつつ、布で口許を拭った。

「普通に暮らしていました」

「機を織りながらか?」

「ええ、そうです」

 織っていた白絹は、神仏へ供える為のものだ。祈りを込めながら織り上げる。それを鈴雪は、八年の間に百反ほど仕上げて供えていた。

「仮にも国王の正后がすることか?」

 藍叡の言葉には嘲笑の色が混じる。その口調が鈴雪には不愉快だった。

「私が望んでその位を頂いたことはございません」

 答える口調に棘を滲ませると、今度は藍叡が表情に不快さを浮かべる。

「……あの泣いてばかりいた小娘が、随分な口を叩くようになったものだな」

「多少はものを知るようになりましたから」

 小さかったあの頃は、自分の置かれた環境のこともよく理解出来ず、住み慣れた御廟には戻れぬと言い聞かせられ、見知らぬ人々に囲まれ、不安と恐怖で泣くことしか出来なかった。けれど八年経った今は、自分が置かれている状況も、何故そうなったのかも理解出来ている。その上で、やはり藍叡のことを受け入れることは出来なかった。


 鈴雪は小さく溜め息を零した。

「私からもひとつ、伺ってもよろしいでしょうか?」

 藍叡はムッとした表情のまま「いいぞ」と答える。本当は気に入らないようだ。

「どうして私を連れ戻されたのですか? 本当にあの噂だけが理由ですか?」

 杯を空けた藍叡は「ふたつになっているぞ」と不機嫌そうに答えるが、そのことはあまり気にしているようではなかった。

「連れ戻したのは――頃合いと言う者があったからだ。あまり王后が後宮を空けたままにするのも外聞が悪いからな」


 表向き、鈴雪は肺を病んでいるということになっていた。空気のよい場所で育った者を急に都になど連れて来たので不調が出た為、療養の目的で離宮に移したというところだ。位置的には都の外れである離宮だが、王宮の周囲よりはずっと自然豊かで静かな地域だ。

 都に住むようになってからひと月も経たずに肺を病むとは、よほど空気が合わなかったのか、身体が弱かったのだろう、と臣下も民も大抵は納得したものだった。婚礼に参列し、大礼服を纏って女官に支えられながら歩いていた小さな姿を見ていた者達は、あの娘は元から弱かったのだろう、と妙に納得したようでもあった。


 しかし、もう八年である。いい加減、身体の方は都の気候に慣れただろうし、病も癒えた頃だろう、と誰もが思うような時期になっていた。それ故に、いつまでも戻らないのにはなにか戻れぬ事情があるのか、とおかしな勘繰りをする者がちらほら現れてきているのも事実。あの噂がいい例だ。

「お前が戻れば、噂の方も片付くとは思っている。……もう少し食え」

「いいえ、もう結構です」

「食わんなら飲め」

御酒ごしゅは頂きません」

「……つまらん娘だな」

 そう呟きながら、用意されていた酒がもうなくなっていることに気づき、舌打ちを零した。そんな藍叡の様子を見ていた鈴雪だったが、先程から落ち着かない妙な胸の動悸を鎮めようと、気づかれないように小さな深呼吸を繰り返していた。

 乱暴で強引な男だが、殴るなどの暴力を振るったことはない。それでも、八年前のあの夜、この部屋で押さえつけられて組み敷かれたのは、幼い鈴雪には相当な恐怖だった。


 その恐ろしい記憶のある部屋の中で、今は二人きりでいる。


 実際にはなにもなかった筈なのだ。絹の寝間着に着替えさせられ、暗い部屋の中で二人きりにされたことに恐くなり、泣きながら部屋の中を逃げ惑っていると、藍叡にはそれが腹立たしかったようで、太く逞しい腕に捕まえられて寝台に運ばれた。香の焚き染められた寝台で組み敷かれ、上から覆い被さられたことに更に恐怖が掻き立てられ、いやだ、いやだ、と小さな駄々っ子のように泣き叫んだ。

 その後、大きく舌打ちを零した藍叡は部屋を出て行き、代わりに恵世がやって来てお茶を淹れてくれ、鈴雪は泣きながら彼女の胸の中で眠りに就いた。


 あの夜、寝台の上でなにが行われようとしていたのか、当時は恐いばかりでわからなかったが、今の鈴雪は知っている。夫婦には必要なことであると理解しているし、藍叡がしようとしたことを否定するつもりはない。けれど、もう一度同じ状況に立たされたりしても、夫を拒絶しないという気持ちもない。


 黙り込んだ鈴雪の様子を、藍叡も静かに見つめる。

 改めてしっかりとその容貌を確かめるが、美しくなった、という感想以外出て来ないことに驚いた。まだ何処か少女めいたあどけなさを残すが、すっかりと美しい女人へと成長している。


 この後宮には、鈴雪を娶る前から寵を与えていた三人の側室と、六年前に迎えた一人がいた。四人の側室達は皆器量も家柄もいい者ばかりだが、彼女達の華やかさとは違った美しさ――仮に花に例えるのならば、側室達が牡丹や芍薬などの大振りで目立つ花だとするなら、朝露に濡れて静かに綻ぶ蓮の花がこの鈴雪の美しさだ。


 見つめられていることに気づいた鈴雪は、僅かに視線を向けるが、すぐに手許へと視線を戻した。

 藍叡は空になっても持ったままだった杯を卓に戻し、立ち上がる。

「邪魔をしたな。俺は部屋に戻る故、もう少し食っておけ。お前は少し痩せ過ぎだ」

 王命だ、と少し揶揄うような口調で告げると、身を翻す。

 湯浴みをしていたときには、今夜鈴雪を抱くべきか、と考えを巡らせていたが、興が殺がれてしまった。自室に戻って飲み直そう。


 部屋にひとり残された鈴雪は、飲み食いしただけで特になにを話すでもなかった藍叡の行動に、ぽかんと間の抜けた視線を送っていた。



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