一 王后帰還(三)
馬が駆け出すと
「降ろして!」
悲鳴を上げる鈴雪は身を捩るが、幼い頃に怯えていた屈強な軍馬は未だに恐いのか、激しく暴れることはなかった。それ故に、藍叡はその細腰をしっかりと掻き抱き、逃げ出せないように更に馬を駆り立てる。
しかし、大人二人乗りの馬は、暑さも手伝ってか程なくして疲労を見せ、途中で休息を挟むことを余儀なくされた。
そこでようやく馬から降ろされた鈴雪だったが、膝が笑うように震え、力なくその場にへたり込んだ。逃げ出そうと思っても出来ない
その様子を、馬に水を与えながら藍叡が眺めていた。
出会った頃の面影がないわけではない。すぐに潤む大きな瞳は健在だし、名に雪という字を使うことを思いついた白い肌もそのままだ。
ただ、あの幼かった少女からは想像もつかないほど美しく育っていたので、戸惑いを感じている面もある。泣いてばかりいた少女は、自分の意思もはっきりと言う娘になっていた。あの幼かった弱々しい少女はもういないのだと思うと、胸の奥に僅かな喪失感が
半刻ほど休んだ後、藍叡は鈴雪の許へ手を差し出す。
「行くぞ」
彼女はその手を見つめ、諦めのような表情を浮かべ、ほっそりとした手を重ねた。
「もう暴れたりしませんから、少しゆっくり進めてください」
鞍に乗せようとすると、鈴雪が疲れ切った声で零した。わかった、と頷くと、明らかにホッとしたような表情を浮かべ、言葉通りに大人しく騎乗する。その様が可愛らしいと思えた自分に、藍叡は心中で苦笑した。
王都に入ったのは夕闇が濃くなる頃だった。
懐かしくも忌まわしい記憶に彩られた繁華街の喧騒を横目に、一行は王城を目指す。
あの日と同じように城門を潜り、最奥に位置する後宮の前門の前まで辿り着くと、やはり同じように出迎えの人々が控えていた。
叩頭した女官達の中に見知った姿を見つけ、鈴雪は僅かに緊張を解いた。
「
その名前を確かめるように呼ぶと、顔を上げた彼女は双眸を眇めた。その顔は記憶にあったよりも老けていたが、他は変わっていないようだった。
「お懐かしゅうございます。お戻りをお待ちしておりました」
目尻に皺を刻みながら、恵世は嬉しそうに微笑んだ。彼女は八年前、御廟から連れ出されて後宮に封じられた鈴雪の世話係をしてくれていた、当時の女官長だ。
「ありがとう。恵世は息災でしたか?」
「はい。三年前に官職は退いていたのですが、鈴雪様がお戻りになられると、主上がお呼びくださったのです」
鈴雪は驚き、藍叡を振り返った。
「見知った者がいた方が、お前も馴染むだろう」
こちらを見ずに素っ気なく告げるが、彼の心遣いが感じられて少しだけ嬉しくなった。
以前もそうだ。乱暴で強引で、鈴雪の声などに耳を貸さない男だが、時折優しい素振りを見せる。それ故に、勝手で恐ろしい男だとはわかっていても、本当は酷い人ではないのだと思おうとしてしまう。
「あとで部屋に行く。それまで休んでいろ」
藍叡はそれだけ告げると、踵を返して立ち去ってしまう。その後ろ姿を見送っていた鈴雪も、恵世に促されてその場を後にした。
鈴雪が訪れるよりも何百年も前から存在していたその建物は、たった八年離れていたくらいでは変わらない。ひと月ばかりを過ごしたその巨大な牢獄は、あの頃と変わらぬ姿で鈴雪を出迎えてみせた。
物陰から感じる視線を受け流しながらいくつもの回廊を渡り、奥まった広い部屋に通されると、鈴雪は急に胸が苦しくなる。それは歴代の王后の部屋であり、八年前、婚儀のあとに連れて来られた部屋だったのだ。
忘れようとしていた記憶が――美しい部屋の中で訪れた恐ろしい初夜の記憶が思い起こされ、手足が竦む。
「……鈴雪様?」
扉から奥に入れないで立ち竦んでいる鈴雪の姿に気づいた恵世が、怪訝そうに振り返る。部屋の中を整えていた女官達も立ち止まり、八年ぶりに戻って来た後宮の主の姿を見遣った。
「誰か、そこの衝立をそちらに移動させて。早く」
青褪めた鈴雪の顔にハッとして、恵世は慌てて指示を出す。
言われた女官達は作業の手を止め、すぐに衝立を移動させた。美しい細工の施された衝立は寝台の前へと移動し、鈴雪の目からその存在を覆い隠してくれた。
もう八年も昔のことだ。とうに薄れていると思っていた記憶だったが、恐怖というものは存外に根深かったらしい。
「鈴雪様、大丈夫ですか? お気を確かに」
硬直して震えている手を取り、恵世は心配そうな目を向ける。その目を見て、鈴雪は静かに息を吐き出し、強張っていた全身から力を抜いた。
「配慮が足りずに申し訳ございません。お許しください」
恵世は鈴雪がこの部屋に対してどのような思いを抱いていたのか、すぐに気づいた。部屋を移るべきではないだろうか、と考えたが、ここは歴代の王后が居室として使っていたもので、鈴雪がここに住まうのは必然だった。
震えている鈴雪の手を引いてゆっくりと部屋の中へと促すと、だいぶ背の伸びた身体を支えながら腰を下ろすように促し、恵世はまわりの女官に茶の支度を指示する。
青褪めて短く浅い呼吸を繰り返している鈴雪は、全身が汗でびっしょりと濡れていた。手拭いを取り出し、額に玉のように浮いているそれを優しく拭うと、彼女は細く息を吐き出し、そっと微笑んだ。
「ありがとう」
礼を告げて微笑む顔は、まだ幼かった彼女と同じものだった。その様に恵世は胸が詰まるように感じて、両の目を潤ませる。
「大きくなられましたね。こちらにいらしたときは、私の胸の高さよりもお小さくていらしたのに」
「はい。でも、まだ恵世よりも小さいみたいですね」
「私は人より少ぅし大きいのです」
涙を拭って微笑んだ恵世は、懐かしむように鈴雪の顔を見つめる。
「それに、とてもお美しくなられました。幼い頃も整ったお顔立ちをしていらっしゃいましたが、その頃よりも更にお美しい」
「世辞だとわかっていますが、嬉しいです。ありがとう」
照れたように微笑んだ顔は本当に綺麗だった。そしてその笑顔から、まだ幾分青褪めてはいるが、鈴雪が落ち着きを取り戻したことを悟る。
「失礼致します」
声がかかったので茶の支度が出来たのかと振り返ると、そこにいたのは大膳処に詰める女官達だった。
「夕餉をお運びしました。よろしいでしょうか」
「ええ……鈴雪様、如何なさいますか?」
配膳しようとする女官の言葉に、恵世は主人の意向を仰ぐ。食事時であることは確かなので「お願いします」との答えが返ったので、その通りに伝えた。
しかし、卓の上に並べられていく料理は、どう見ても品数が多かった。鈴雪が一人で食べきれるものではない。
「多くはありませんか?」
怪訝に思って仕切っている者に尋ねると、いいえ、と彼女は答えた。
「主上もこちらでお召し上がりになると仰せつかりましたので、お運びしました。お二人のお食事ですから、多いことはないかと」
驚いたのは鈴雪だ。何故一緒に食事をしなければならないのか。しかしそのことを告げるわけにもいかずに困ってしまい、恵世の袖を引いた。
恵世は鈴雪がなにを伝えようとしているのか気づいたようだが、王が指示したことなら従わないわけにはいかない。
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