一 王后帰還(二)
翌朝は、随行の武官三人だけを引き連れ、陽もまだ昇らぬ時間に王都を発った。
思い返せば八年前のあの日も、数人の随行員を連れての強行軍だった。
あの当時、即位してから五年以上が経つも、地方での小競り合いや宮廷内での血腥い政争が続き、更には二年続けての飢饉が起こり、王宮の内も外も非常に落ち着きがなかった。
治世が安定しないことを憂いた宰相の勧めもあり、五人の宮廷占者に占わせたところ、高貴な血筋の
側室は迎えていたが、未だ王后が空位だったこともあり、宮廷はすぐに行動を起こすことになる。
高貴な血筋といえば、王家に連なる家を示していると取れる。王家筋の妙齢の娘を一時的に出家させることも提案に上がったが、降嫁した公主の血縁が神女になっているという話を聞き、その娘へと白羽の矢を立てた。それが、
娘が神女となったのは不吉な託宣が下った故のことだったらしいが、その『王に害を為すが必要でもある』という言葉の意味する『必要』というのが今なのだと、渋る重臣達を――特に渋っていた父親である宋長官を説き伏せ、自ら王都から遠く離れた御廟にまで迎えに行った。
今と同じだな、と藍叡は僅かに苦笑する。随行の者達と馬を走らせながら、不吉な託宣を受けたのはいったいどんな娘なのか、と好奇心を抱えていた。これから夫婦として暮らしていくのだから、面倒な性格ではなく、十人並みの容姿であれば文句はないな、などと考えてはいたが、まさかそれが十を数えたばかりの幼い娘だったのは予想外だったが。
鈴雪はよく泣く娘だったが、大人しかったし、帰還を求める願い以外に余計なことを口にすることもなく、聡く分別のある娘だったのは幸いだった。それに、齢六十を過ぎても美しい銀蓮公主の血なのか、幼いながらも目鼻立ちがはっきりとした色の白い子供で、十年も経てば美姫と謳われるのは間違いないという顔立ちだったのも嬉しい誤算だ。容姿と性格に関して、当時の藍叡は概ね満足していた。
馬を走らせているうちに夜が明け、陽も随分と高くなってきた頃、離宮の姿が見えてきた。
竹林に囲われた湖の中に位置する小島に建てられた離宮は、五代前の王の時代、病弱だった公主を静かな環境に住まわせる為に造られたものだと記録されている。公主の死後は避暑などで時折利用される以外はほとんど使われることはなく、整備と管理だけがされている状態だった。
出入りの為の橋は架かっているが、馬で踏み荒らすには強度が心許ない風情だった為、藍叡は馬を繋いで随行員をその場に待たせると、ひとりで離宮へと向かった。
外門はおろか中門も不用心にも開け放たれていて、見張りもなく、誰に咎められることもなく前庭へと辿り着く。荒れた様子はないが、貴人が住まう屋敷にしては閑散としている上に緊張感の欠片もない。
呆れながら建物の中へ入ると、そこにはさすがに女官の姿があり、彼女は藍叡の姿を見て小さく悲鳴を上げた。簡易武装を纏った大柄な男が誰だかわからなかったらしく、彼女は「無礼者! ここをどなたの御座所と心得る!」ときつい口調で言ったが、明るい場所に一歩踏み出してやるとすぐに相手を悟ったらしく、青褪めて拝跪した。
「主上とは気づかず、ご無礼を申し上げました」
震える声で詫びてくる女官へ、よい、とひとこと告げて視線を奥に向ける。
「
「はい、鈴雪様は納戸に」
「納戸?」
予想外の居所を伝えられたので少々面食らった。納戸などでなにをしているというのか。
場所は何処だ、と短く尋ねると、彼女は案内の為に立ち上がった。
女官について歩き始めてから、人の気配が想像以上に希薄であることに気づく。部屋数は確か五つほどしかなく広くはない離宮だが、それにしても少なすぎるように感じる。ここに置いたのは何人の女官と護衛だったか、と思い出そうとするが、護衛の人数しか思い浮かばなかった。たった一人の王后だというのに、その程度にしか関心を抱いて来なかった自分に少々愕然とした。
しばらくすると、トン、カララ、トン、カララ、と耳馴染みのない音が聞こえてきた。軽やかに一定の調子を繋いでいるそれに、藍叡は眉根を寄せた。
「あれは、なんの音だ?」
先導する女官に尋ねると、彼女は笑顔で振り返って「機織りの音でございます」と答えた。
何故そんなものが聞こえてくるのだ、と疑問が首を擡げると、女官の歩みが停まる。
「こちらでございます」
立ち止まったところで叩頭し、彼女はひとつの扉を示す。先程の音はまだ聞こえていた。機織りの音はこの中から聞こえているのではないか、と思いながら、扉に手をかける。
納戸といっても掃除が行き届き、広めにとった採光窓のお陰で暗さはなく、ただの狭い部屋のような場所だった。
その採光窓の下へひとりの娘が座り、複雑な形をした木製の機械を操っていた。トン、カララ、と彼女の手許で軽やかな調べが刻まれる。
扉が開いたことには気づいているだろうに、彼女は手許の作業に没頭しているようだった。
「
黙ったまま娘の様子をしばらく眺めていると、手許の作業を止めずに彼女は口を開いた。
優しく響く声音は、藍叡は初めて耳にするものに思えた。自分が聞き知っていたあのか細く幼い声ではなかったのが予想外だった。
「鈴雪」
確かめるように、その名を呼ぶ。藍叡がつけた名だ。
はっ、と娘の手が止まった。
彼女は怪訝そうな空気を湛えながら、躊躇うようにゆっくりと、入口で突っ立つ藍叡を振り返る。
藍叡を見つめてきたのは、もう幼い少女ではなかった。当たり前のことだが、そのことに少なからず驚愕した。
折れそうなほどの首の細さは相変わらずだったが、その上に乗る顔の輪郭はほっそりとし、柔らかく膨らんでいた頬の丸みはもう見当たらない。片手で悠々と抱えられた小さな身体はすらりと伸びて娘らしい丸みを帯び、質素な衣裳に包まれている。
まるで見知らぬ娘は双眸を眇め、美しい珊瑚色の唇を開いた。
「――…王……様……?」
疑念のたっぷりと含まれた声音で、藍叡の存在を確かめる。その口調は幼いときのままだったが、しっとりとした大人の女声だった。
ああ、と短く頷き、こちらも疑念を抱きながら歩みを進め、窓際の娘の許まで近づいた。
「八年ぶりだな、鈴雪」
彼女があの幼かった王后であるかどうかを確かめるように、その名を呼びかける。
鈴雪は藍叡の顔を見上げ、それから困惑したように視線を彷徨わせると、僅かに俯いて小さく「そうですね」と答えた。
二人の会話はそれで終わってしまい、さやさやと庭木の葉擦れの音と鳥の鳴き声が微かに聞こえ、納戸の中を沈黙が満たす。
「なにかご用でしょうか?」
しばらくしてから、鈴雪が静かに口を開いた。沈黙を破ったその声には拒絶の色が滲んでいて、彼女が藍叡の訪問を快く思っていないことが伝わってくる。
その態度に僅かに苛立ち、藍叡は妻との間に僅かに残っていた距離をつかつかと大股で歩み寄り、その顎に手をかけて上向かせた。
幼い頃から目立って大きかった瞳は未だに健在で、重たげな長い睫毛の下でそのぱっちりとした双眸を零れんばかりに見開き、彼女は藍叡を見上げる。黒曜石のようなそれに自分の姿が映り込んでいることを見止めると、藍叡は用件を告げた。
「後宮に戻れ。これは王命だ」
何故、と鈴雪は思った。今まで放っておいたのに、急にどうしたということなのだろう。
そこでふと、ある考えに思い至る。
「……あの噂ですか」
見上げていた藍叡の眉間が僅かに動いた。
やはり、と溜め息が零れそうになる。顎にかかっていた無遠慮な手にそっと触れ、それをゆっくりと外した。
「恐ろしい呪詛を施す女など、捨て置けばよいではないですか」
婚儀のあと八年もの間この離宮に放置して、一度たりとも顔を見せることも、機嫌を伺うこともなかった関係だというのに、なにを今更――と鈴雪は迷惑そうに柳眉を歪め、今度こそはっきりと溜め息を零した。
「王様は都に、私はこちら……今まで通りでよろしいではないですか。そちらの方が、心安らかにいられましょう」
溜め息に続いて呟かれたのは、先程よりもはっきりとした拒絶だった。
その態度に藍叡は、これはあの泣いてばかりいた娘なのか、と驚くと同時に、生意気な反抗を示す口調に軽く苛立ちを募らせる。
言葉よりも早く、藍叡の手は鈴雪の襟元へと延びていて、彼女が驚きに表情を歪める隙を与えぬまま、乱暴に引き寄せて立ち上がらせていた。
「王命だと言った。貴様は王に逆らうのか、鈴雪」
乱れた襟の下から、白い肌と下着を押し上げて丸みを帯びる乳房が覗いた。その肌が怒りの為か薄桃色に紅潮する。
「逆らうのがお気に召さないのならば、お手討ちになられて構いません。どうぞ」
拒絶する鈴雪の声はぴんと張った糸のようなまっすぐさがあり、己の意志の強さを毅然と伝えていた。
あの弱々しく幼かった少女が発したとは思えないその言葉に、藍叡は再び双眸を瞠る。それと同時に強い怒りが湧き上がり、揺さ振るようにして乱暴に引き寄せ、強引に肩へと担ぎ上げた。八年前のあの日は片腕でも抱き上げられるほどだったが、さすがにそれはもう出来なかった。
農夫の担ぐ米俵のような体勢にされた鈴雪は驚き、その場で藻掻くが、苛立ちを隠さない夫はそのまま歩き出す。
「離してください! 何処へ連れて行くのですか!?」
藍叡はなにも言わなかった。
あの日と同じだ、と鈴雪は思った。生まれてからの十余年を暮らしていた御廟から連れ出された日も、彼はなにも言わず、小さな鈴雪を引きずって行って罪人のように箱馬車に閉じ込めたのだ。
蘇った記憶に身が震える。けれど、自分はもうあの頃のように、わけもわからないまま連れて行かれるだけのような、無力な幼い子供ではない。
「誰かっ!」
鈴雪は声を張り上げる。自分の力で抵抗することは出来ずとも、助けを呼ぶくらいの気概は持ち合わせている。
「誰か来てちょうだい!」
嘗て聞いたことのない主人の大きな声に驚いた女官達が駆けつけて来るが、恐ろしい表情の王が歩いて来る姿を目にすると、その場で拝跪するしかなかった。
「王后は連れて行く。お前達は明日までに荷物をまとめ、ここを引き払う手筈を整えよ。その後、後宮へ戻り、引き続き王后に仕えよ」
藍叡は集まって来た女官達に命じると、立ち止まることもなく、そのまま離宮を後にした。
降ろせ、と騒ぐ妻の声を無視して橋を渡りきると、待っていた武官の一人に離宮を引き払う為の人手を集めるように指示を出し、担いでいた鈴雪を自分の馬へと乗せ、自らもすぐに飛び乗って手綱を引いた。
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