第12章:入院生活

「ほら、体拭くから脱いで」


アイにそう言われて彼は少し躊躇した。


「なに?恥ずかしがってんの?」

「いや、そうじゃない。なんで急に甲斐甲斐しくするんだ?」


豹変したといってもいいアイの看護に彼は不安なものを感じた。

別人じゃないかとさえ思った。


「等価な取引をしてるだけ」


彼女は憮然とした表情で言った。

彼が服を脱ぐとぬるま湯で温めたタオルで体を拭き始める。


「あんたのおかげで病院丸ごと手に入れたようなもんだからね」

「ちゃんと薬は手に入ったんだな?音沙汰がないからすごく心配したぞ」

「サクラコたちがリュック一杯に持って帰ったけど、正直、これからが大変よ。一度で持って帰れる量なんて知れてるでしょ?何回も往復してもらわなきゃいけない」

「あの2人以外はどうした?お前らも遠征に行ってるんだろ?」


コマリが遠征に同行して漫画を持ち帰るという話を彼は覚えていた。


「変な場所を渡らなきゃ病院に入れないんでしょ?忍者みたいに動けるのはあの2人くらいよ。ああ、あんたもできるんだっけ?落ちたけど」

「そういうことか。ところで、そろそろ教えてくれ。物資を持っていても信用のない人間はどのグループも仲間に入れないってお前は最初に言ったよな?どうして俺を加入させた?」


彼は柔軟な考え方ができるアイに感心しているが、逆の立場なら大量の薬と引き換えでも仲間にはしない。寝首をかかれるからだ。時間はかかるが少量ずつ安全に取引する。


「病院の薬まるごと手に入るなんて誰が想像するの?そのくらいのリスクは背負うでしょ。まあ、もう一ついえば未来を考えて」

「未来?」


背中を拭くアイに彼は振り返って聞いた。


「このグループって未来がないの。人数はじわじわ増えて、物資はじわじわ減ってる。ガソリンも歩いて行ける場所はほぼ取り尽くしたし、食料も今は芋の栽培が上手くいってるけど、病気で枯れたら一気にやばくなると思う。人数が増える理由はわかる?」

「妊婦を助けるからだろ」

「そう。あのゴミどもがどんどん女を孕ませて捨てるから。でも、あいつらがいなくても薬や燃料がいずれ枯渇するのは一緒なの。電気やエネルギーを自給自足して文明を維持しないと根本的には解決しない」


さすがリーダーだな、と彼は思った。


「文明を維持してる地域が必ずあると私は思うの。世界に亡者があふれたといってもあちこちで人間は生き残ってるでしょ?産油国もそうだし、水力や太陽光のエネルギーで電気を賄える地域だってある。そこに加えてもらえば今よりマシで将来性のある生活ができると思わない?」

「まったく同感だ」


彼はアイの賢明さに感心するばかりだ。

だが、自分を仲間にした理由はまだ見えてこない。


「その場所を見つけなきゃいけないの。本来ならもっと他のグループと助け合って基盤を強化して、滅んでない文明社会をさっさと見つけて繋がりを持つべきでしょ?一人より百人。百人より国家の方が丈夫なのはわかりきってる」

「確かに」

「でも、今はお互いを信用してないから協力できない。他のグループに大きな貸しでも作れたら協力体制を敷けるんじゃないかってずっと思ってた」


アイは彼の足の裏を拭き始める。

彼は急に自分が偉くなった気がしたが、自制する。いい加減懲りるべきだと。


「そこであの病院ってわけか?」

「そう。あんたがあの亡者の巣から薬を取れるようにしてくれた。病院の物資を独占できれば他のグループに薬を分けて協力体制を敷けると思ったの。独占するから協力できるってのは変な話だけど」

「なるほどな」


彼はようやく納得できた。

彼女は本当にリーダーに向いている。サクラコも賢いが、こういう考えを聞いて彼女にリーダーの座を任せたのかもしれない。


「私はてっきりあんたが亡者に襲われない方法でも見つけたかと思ったの。でも、テヅカの話を聞く限り、あんたも襲われるんでしょ?」

「残念ながらな」

「じゃあ、見当もつかない。あんたに超能力でもあれば話は単純なんだけど。ああ、聞き出す気はないから安心して。今後の予定を言っておくと、私らは病院の物資を集めて他のグループと協力する。そしてゴミどもの大掃除をしようと思ってるの」


アイの顔があのにたにた笑いに近づいた。

復讐か、と彼は思ったがアイは先回りする。


「ああ、復讐じゃなくて将来のためね。お互いが信用できないって現状はあいつらのせいでもあるの。あいつらが暴れるから私らを含めてどこも殺気立ってしまう。だから排除して今より交渉しやすい雰囲気を作るの」

「全員で武装して襲撃するってことか?」

「一気にやるか段階的にやるかは未定だけど」


アイは楽しそうに言った。


「……結局、何をするにしてもリスクは避けられない。あんたが裏切るリスクもあるし、他の仲間が裏切るリスクもある。私が自分を裏切るリスクだってね。正直に言うと、あんたは信用できないし、したくない。でも、信用する。どうしてか?こんな機会は二度と来ないから。信用すべきだから信用するの。あんたが悪魔だとしても私はかまわない」

「俺が悪魔、か……」


彼にとってなかなか面白い表現だった。

なるほど。たった一人だけ魔法が使え、世界の支配者になりたい人間。

それは悪魔なのかもしれない。


アイは体を拭き終わると顔を近づけた。


「病院を占領した方法を教える気があれば言ってね。見返りに毎晩抱かせてあげる」


彼女は頬に口づけすると部屋を出て行った。

ひょっとすると俺よりも悪魔らしいんじゃないかと彼は思った。




次の看護当番はコマリだった。

アイの時は感じなかったが、自分よりずっと若い少女に体を拭かれるとなぜか彼は老人になった気がした。


「ねーねー、アリー君。あの缶詰とクッキー交換してくれる?」

「あれか?」


彼は背嚢に入れた最後の缶詰を見た。

雑貨店の倉庫にはまだあるし、グループに加入した今ではさほど重要なものではない。しかし、おそらくまだ保存が利く食料を腐敗するものと交換したいと思わなかった。


「クッキーと交換するのはちょっとな」

「だよねー」


コマリはしょげた。

テヅカから分けてもらった(といってよいか微妙だが)果物がよほど美味しかったのだろう。このグループは砂糖にいくらか都合がつくので料理に使っているし、芋もそれなりに甘かったが、あのシロップ漬けはよほど美味らしい。


「あれってそんなにおいしいのか?」

「うん!甘い!砂糖そのまま舐めた時くらい甘い!」


そう言われると美食家でない彼も興味はわいてくる。

マリアが消化によいものを食べろと言っているので今は無理だが、治ったら開けようかと思い始めた。


コマリは指を1本上げた。


「アリー君、1回でどう?」

「どうって?」

「1回抱いていいから。怪我が治った後で」

「そういうのはいい」


彼は即答した。

武器と違って後に残るものがない。それに、もしもサクラコあたりが言ってきたら一考したかもしれないが、子供と女の中間あたりのコマリに興味が持てなかった。


「ちぇー。残念だなー。あっ!そういえばオサム君のことなんだけど」

「オサム?」


テヅカのことだと彼は一瞬わからなかった。

サクラコとコマリにとってテヅカといえばオサムなのだろうか。

あの男は1日の食事で気が変わり、滞在を延長していた。


「あいつって頭がちょっとおかしいの?」

「おかしい?」


あいつの荷物に入っていた猥褻本でも見ただろうかと彼は思った。

どんな趣味があろうととやかく言う気はないが、荷物を調べられた時に彼女たちにじろじろと見られて性癖を知られたのなら少しだけ同情する。


「ここの女性はみんな僕を避けるってあいつが言うから理由を話したの。そしたら泣き出して倉庫に閉じこもっちゃった」

「ああ、そういうことか」


やけに無邪気な男だと彼は思ったが、陰惨な話にも慣れていないのだろう。また、魔法使いのように肉体は魂の器に過ぎないという考えも持っていない。ちょっとした大人の階段を上ったわけだ。


「別に珍しい話でもないのにねー。私だって孕まされたことあるし」

「そうだったのか?」


彼はそう言いつつも驚かない。

この6人は涼しい顔をしながら人を殺せる。生まれつきならべつとして、殺意や闘争心が育つ特殊な環境にいたということだ。


「そー。私とお母さんって一緒に奴隷してたの。同じ時期に孕んで、どっちもお腹が大きくなったから一緒に捨てられたんだけど、お母さんはすぐに子供産んで死んじゃって、私も子供産んだから略奪者やりながら両方とも育てようとしたんだけど、どっちも病気で死んじゃった。ははは」


コマリは笑って言った。


「リーダーたちにもうちょっと早く会ってたら皆生きてたかもねー」

「その話もテヅカにしたか?」

「うん」

「それは刺激が強かったかもな」


彼はテヅカの状態が少し心配になったが、自分にできることはないので放っておこうと思った。

しかし、その時、ドアがノックされて渦中の男の声がした。


「アリーさん、ちょっといいかい?」

「ああ」


彼が部屋に招くとテヅカはコマリを見てぎょっとした。


「オサム君、目が赤いよー。どうしたのー?」

「何か用か?」

「ちょっと二人で話があるんだけど……」

「あー、私を仲間はずれにするんだ。へー」


コマリは頬を膨らませ、やや冷たい目になった。

まだ危険な状態ではないが注意しろと彼はテヅカに言いたかった。

お前はまだ取引で保護されているが、その後の命はまったく保証されてないのだと。


「コマリ、体拭くのはもういいから二人にしてくれ」

「ぶーぶー」


コマリは不満を言いながらも出て行った。


「それで、話って何だ?ああ、そこの椅子に座れよ」

「ありがとう。僕はさ、今まで自分がすごく不幸だと思ってたんだ」


テヅカは座ると何かを語り始めた。


「そう思ってた自分が恥ずかしいよ。僕はよっぽど恵まれていたんだ」


彼には話の向かう先がわからなかったが、とりあえず喋らせようと思った。

どうせ治癒魔法をかける以外にすることはない。


「僕が仲間に見捨てられた話はしただろ?あの後、一人で亡者を避けながら民家に入って食べ物を探した時は本当に惨めだと思ったよ。枯れた花を齧ってみたり。亡者にならなかった人で僕より不幸な人間なんていないと信じてた。でも、違うんだ。ここにいる人たちは……」


テヅカは赤い目から涙を流し始めた。


「話を聞いて僕はあの子の顔をまともに見られなかった。僕は彼女たちと話す資格がないんだ。あんな目にあった人たちがいるのに僕は自分のことばかり……」


悲壮と同情に酔っているなと彼は思った。

それは別にいいが、相変わらず何を言いたいのかわからない。


「テヅカ、泣いてる所で悪いが俺に何をしてほしいんだ?」

「ぼ、ぼくはね、あのひどだちのぢがらになりだいんだ」


泣きながら喋るのでわかりにくい。

しかし、力になりたいと言ってることは彼にもわかった。


「落ち着いてから話せ。えーと、つまりここの仕事を手伝わせてほしいってことか?」

「……う、うん」


それはアイに頼めよと彼は思った。

しかし、おそらくすでに頼んだのだろうと察する。


「アイに頼んだけど断られたんだな?」

「そうなんだ……信用できないって」

「まあ、俺も最初はそうだったからな」


今も信用できないと言われたが、と彼は心の中でつぶやく。


「頼むよ……僕に何かさせてくれ。君のことで手伝えることはないかい?」

「ない」

「即答しないでくれ……君は歩けないだろ?代わりに僕がなんでも取ってくるよ。街のどこへでも行く」

「どこへでもか……」


彼は少し考えていることがあった。

雑貨店の倉庫にある缶詰だ。

コマリの反応で気づいたが、食料の中でも甘い缶詰は価値が高いらしい。

あれだけの量があれば他のグループとけっこういい取引ができるのでは。

彼は銃の次にほしいものがあった。


「テヅカ、ある雑貨店の倉庫に缶詰がけっこうある。それを持てるだけ持ってアマギリ教ってグループへ行くことはできるか?」

「アマギリ教?」


テヅカが知らないようなので彼はそのグループについて軽く話した。


「そんなグループがあるんだ……。あれ?雑貨店の倉庫って鍵はかけてないの?」

「かけてる。そこが大問題なんだが……」


彼はその店内で一体の亡者が鍵束をぶらさげているのを見た。

おそらく倉庫の鍵だ。今まで誰も鍵を奪わなかったのはおそらく亡者と戦うリスクに見合う物資があるか不明だったからだろう。


「亡者を殺して奪うしかないってこと?アリーさんはなんで倉庫の中身を知ってるの?」


テヅカは心底怯えていた。

彼も本当なら念力で倉庫を開けてやりたいが、今は歩くこともできない。


「どうして知ってるかは言えない。とにかくお前に頼みたい仕事は倉庫の缶詰を手に入れてアマギリ教に行って、物資と引き換えにしばらく泊めてもらうことだ。価値が高いからおそらく応じると思う。そして奴らがどんなグループなのか探ってほしいんだ。宗教団体だから可能なら入信して情報を集めてほしい」

「せ、潜入捜査ってやつかい?」

「ああ」


彼がそう言うとテヅカはますます不安そうな顔をした。


「アマギリ教自体は危険な連中じゃない……らしい」

「らしい、じゃ困るよ!君はここの人たちも優しいって言ったよね!」

「そういえばそうだったな」


彼は苦笑する。


「そいつらと戦うつもりはない。ただ、内情を知っておきたいんだ。どんな考えを持ってて、教主はどんな人間なのか」


彼にはぼんやりとした計画があった。

上手くいけばアマギリ教は協力体制ではなく自分とアイの指揮下に置けるかもしれない。

奇策か愚策かはわからないが、試す価値はあると彼は思っている。


「目的を聞いてもいいかい?」

「駄目だ。むこうにばれたら困るからな。それでもこの仕事をやるか?なあ、お前がなんでもするって言うから俺も言ったが、引き受けなくていいぞ?正直、危険すぎる。お前は命の恩人だし、俺の頼みごとで死んだら後味が悪い」


これでテヅカは怖気づくと彼は信じていた。

同情や悲壮の酔いも覚めると。

しかし、当人がしばらく悩んで「やるよ」と言ったので驚いた。


「ここの人たちのためになるんだろ?それならやるよ」

「本気か?」

「ここでご飯を恵んでもらうだけなんて耐えられない。誰かの役に立ちたいんだ」

「……なあ、なんでそこまでする?お前に何の見返りがある?」

「理由や理屈はないよ。悲しい話を聞いたら理屈抜きに泣いちゃうだろう?それと一緒だよ」


彼女たちの体験を聞いて涙を流さずにはいられない。

テヅカはそういう人間らしい。

彼にマリアの言葉がよみがえった。

彼女がどんな目にあったか話したとき、あなたは彼女のことより薬の話をしました。そんな人は絶対に信用しません。


「ああ、別に聖人を気取ろうってわけじゃないんだ」


テヅカは言った。


「僕だって欲はあるし、死ぬのも怖い。正直に言うと、他の浮浪者から食べ物を奪おうかって仲間と話したことがあるんだ。僕らは一番不幸だから少しくらい許されるんじゃないかって。でも、ここの人たちを見たらそんな事は死んでもできないよ」

「そうか」

「僕だって格好いい所を見せたいんだ」

「あいつらにか?」

「いや、他の誰かじゃなくて自分に」


彼はなんとなく眩しいものを感じた。

運動能力はなく、役立つ技術も持たず、はっきりいえば無能だ。

人の世で輝ける機会などやってこないだろう。

だが、そんな男が屋根から落ちた自分を救ったし、今は妙にきらきらしている。


「なあ、そこの缶詰やるよ」


これから死ぬかもしれない男に彼は餞別を渡したくなった。


「いいのかい?」

「無料で仕事をやらせるって嫌いなんだ」

「じゃあ、コマリちゃんにあげてくれ」


その時、ドアが勢いよく開いた。


「缶詰くれるのー!?」

「おい、盗み聞きはよくないぞ」


やけに素直に出て行ったと思ったが、やはり彼女もアイの側近を務めるだけはあるなと彼は感心した。


「ちょーだいちょーだい!」

「ああ、いいよ」


テヅカは缶詰を渡した。

すぐに開けるのかと思ったが、コマリはそれを持って出て行こうとする。

彼がどこへ行くのか聞いてみると今度は他の人にあげると言い、彼女は去った。


「いい子だね」

「いや、あいつはいい子というか……」

「ああ、もちろん怖い子なのは知ってる。僕が助けを呼びにここへ来たときに『嘘だったら足の先からゆっくり切り刻む』って脅されたからね。あの子は本気だった」


テヅカは目を押さえた。


「あの子は狂ってるよ。でも、そうしないと生きられなかったんだ。残酷すぎる」


テヅカはそう言ってまた泣き始めた。




彼が心配していたサキは意外にも献身的な看護をしていた。

場違いな純白のマフラーとコートを身につけて現れたが、それらをベッドに置くと袖をまくって彼の体を拭いてくれる。だが、彼女はポツリと言った。


「しよっか?」

「俺を半身不随にする気か」

「やっぱり駄目?」


彼の背中から明るい声がした。


「子供なら心配しないで。ちゃんと気をつけてるから。今の世界で子供産むなんて命がけだもの。ねえ、そういうわけで1回しない?」

「マリアに言われただろ。俺は動いたらまずいんだよ」

「私だけ動けば大丈夫よ。ちょっと揺れるだけ」

「やめろ」

「もー、体が疼いちゃうわ。もう一人は倉庫の鍵をリーダーが持ってるから寝込みを襲えないし」


もう一人とはテヅカしかいない。

あいつが倉庫で寝るように言われたのはそれも理由なのかも、と彼は思った。

アイならそれくらいの計算はしてそうだ。それがテヅカにとって幸か不幸かは本人に聞いてみないとわからない。


「私って血と男の快楽がクスリの快楽と繋がってるのよ」


彼女は腕を拭きながら言った。


「クスリ欲しさに殺しの命令受けたって言ったでしょ?男に自分を抱かせて油断したところをグサっとやるわけ。それが一番殺しやすくて。そのあとに報酬でクスリをもらえたから自然と『ヤレばキメられる』って体が覚えちゃったの。ああ、殺しは我慢できるから安心して。ねえ、麻薬とか経験ある?」

「ない」

「でしょうね。あの感覚って一度味わうと忘れられないわよ。その状態でイクと最高に気持ちいいの。二人でドロドロに溶けていくって感じかしら。ああもう。話してたらまた……」


サキは片手で自分の股間を押さえた。

頼むから他所でやってくれと彼は言いたかった。隣でそんな事をされたらさすがに欲求不満がたまる。


「ねえ、あのテヅカって男はどこにいるの?」

「あいつは用事があって出て行ったぞ」

「えー!」


サキは悲鳴に近い声をあげた。

彼が雑貨店とアマギリ教の場所を地図で教えるとテヅカはすぐに出発してしまった。今生の別れになるかもしれなかったが、お互いに何も言わなかった。


「じゃあ、なおさら貴方に頑張ってもらわなきゃ。ねえ、体が揺れなければいいのよね?だったらこう……」


彼女の手が体の下のほうへ伸びてゆく。


「おい」

「体を拭いてるだけよ。これなら殺す衝動は出ないし、いいでしょ?」


サキは妥協案を出し、なんだかんだと言っても殺人衝動さえなければよい女だと思っていた彼はそれを受け入れた。それから彼女は何度か病室に長居することになった。




「昼食を持ってきました」


キョウコはノックをして礼儀正しく入ってきた。

ただ、その服装に彼は少し面食らう。

奇妙というほどではないが今まで見たことのない格好だ。


「それは何なのか聞いていいか?」

「ああ、これはメイド服っていうやつです。サキさんが遊びで拾ってきたのを借りました。どうです?」

「よくわからん」


彼は思ったことをそのまま言った。


「ああ、そういえば俺が最初に髪を洗えたりしたのはお前のおかげなんだよな?言うのが遅れたけどありがとな」

「いいえ、良い人と思われたかっただけですから。騙されました?」

「いいや」


ただ慈悲深い女がここにいるわけがない。

彼はキョウコを少し観察するうちに彼女が相手によって口調や態度を変えていると気づいた。アイには敬意を、仲間には友情を、初対面だった彼には礼儀正しさを見せて良い人間を演じている。


「私、相手から好かれようとする癖があるんです。他のグループに潜り込んで物資や情報を盗んでたことがあったので」


小柄で幼く見えるキョウコなら相手も油断しやすいだろう。

テヅカはこの女から教えを請うべきだったなと彼は思った。


「アイに命令されたわけじゃないんだろ?」

「もちろんです。ええと、元々私は両親が空気感染でいなくなって別のグループに弟と保護されていたんです。ああ、保護といってもほとんど奴隷でしたけどね。弟がいない所でよく犯されましたし、避妊薬をくれるだけ最悪よりマシってだけです。そこで弟の安全と引き換えに他のグループを騙してものを盗んでいたんですが、ここに来たらリーダーとサクラコちゃんにすぐ見破られました」

「相手が悪かったな」

「はい」


キョウコは苦笑した


「そこでリーダーから二重スパイになれって提案されました。うまくいけば弟も保護してあげると」


アイがどんな顔をして勧誘したか彼は容易に想像できた。


「裏切らなくても二つの間をコウモリみたいに渡って好きなときに乗り換えればいいと言われて、私もそのつもりでした。でも……」


彼女の顔から表情がなくなった。


「むこうの住処が亡者に襲われたんです。私が行った時には全滅してて弟も人間でなくなってました。その時はいっそ弟の仲間になろうかと思いましたけど、サクラコちゃんが『楽にしてあげた方がいい』って。私、自分でやりました」


キョウコは遠い目をした。


「因果応報っていうんでしょうね。人を騙したら報いを受けるって。でも、むこうの住処にはおかしなことがあったんです。バリケードの一部が大きく壊されてて、あれはどう考えても亡者にできる仕事じゃありません。誰かがダンプカーか何かで突入して、亡者を中に放ったんです」

「あの危ない連中か?」


彼はダンプカーの意味がわからなかったが、察しはついた。

キョウコは頷いた。その目がギラギラと燃え始める。


「大きな乗り物なんてあいつらしか持ってません。私がここに潜り込む前にやつらと取引で揉めていると言ってました。あいつらと揉めないグループなんてないですけど」

「襲撃されたわけか」

「間違いなく」


キョウコは手を自分の腰より少し上に上げた。


「弟はまだこのくらいの背だったんです。きっと怖かったし、痛かったでしょう。首を齧られていましたから。最後に私のことを呼んだと思います。『お姉ちゃん助けて』って。そんな夢を見るんです。……さて」


彼女は目の炎をいくらか静めてから彼を見た。


「私は素性を話しましたけど、だからといって貴方も話せとは言いません。記憶がないのはいくらか本当みたいですけど、貴方は何かを隠してる。病院の件もそうですが、とても大きな秘密がありますよね?」

「さあな」

「でも、あなたが大きなリスクを背負ってあの病院を明け渡してくれたことはわかります。用済みでポイと捨てられる危険もあったのに。そこにグループの一人として本当に感謝してます」

「そりゃどうも」

「いつか本当のことを話してくれたら嬉しいです。ところで、この当番制の看護は一種の面談でもあることに気づいてますか?」

「は?」


どういうことだと彼は聞いた。


「貴方が新メンバーになったから一人ずつ話をして意見や方向性の違いを確認しておけということです。リーダーは部下のことをいろいろ考えていますよ」

「なるほど……」


彼はアイに拍手を送りたくなった。

同時に取引でリーダーの座を要求しなくてよかったとも思う。こんなにいろんなことを考えて計画を立てるなど自分には無理だ。


「そのリーダーが貴方を信用する以上、私は従います。全てを話さなくても文句は言いません。でも、何かする時に一声かけてくれると非常に助かります。テヅカさんを潜入させたこととか」


彼女は不満顔で部屋を去った。




「あーーー、疲れた」


サクラコは彼の隣で肩をコキコキと鳴らした。

病院からの物資の運搬でかなり疲労したらしい。

キョウコが同じ様子を見せなかったのは性格の違いだろう。


「大変そうだな。何回運んだ?」


彼はスープを飲みながら聞いた。

数種の野草を細かく刻んで芋と煮込んだものらしい。


「今日は7回。もう終わりだけど、先は長いわよ」

「大変だな」

「薬剤科と薬剤倉庫にあんなに薬があるなんて思わなかったわ。あなたが動けたら是非参加してほしいんだけど、都合のいいときに骨を折ったものね。まさかわざと?」

「お前も屋根から落ちてみるか?」

「冗談よ。ねえ、同じサブリーダーになったわけだし、友好を深めましょうよ。飲みながらお話しない?」


サクラコは持っていた袋から瓶を取り出した。

透明な液体が入っている。これが例の密造酒らしい。


「やめておく。怪我に響く」

「ちょっとくらい平気じゃない?まあ、無理には勧めないけど」


彼女は瓶に口をつけた。


「うーん、最高。砂糖だけじゃ味気なかったけど、コマリのシロップで割って大正解」

「は?ああ、あの缶詰か」

「そそ。缶詰なんてよく見つけたわね」

「まあな」

「雑貨店だっけ?その場所教えてほしいなあ」


彼女は上目遣いで彼を見る。

取引を持ちかけている目だ。サキが妖艶な魔女ならサクラコは気高き女王のような魅力があり、倉庫丸ごとを渡すのは論外といいつつも誘惑を感じる彼だったが、この取引は不可能だった。


「テヅカが鍵を持ってるはずだ。今、その店で死んでなければな」

「ああ、そうなの?じゃあ、彼が生きて戻ることを祈りましょう」


サクラコは瓶を天井に向けて目を閉じた。


「なあ、俺が持ってきてなんだが、ああいう缶詰って本当に食べて大丈夫なのか?」

「缶の状態にもよるけど、匂いと味が問題なければ平気よ。賞味期限を4,5年過ぎていようが今じゃ誰も気にしないわ」

「そうなのか」


これから缶詰を見つけたときの参考にしようと彼は思った。

まだまだ開かずの部屋はあるはずで、念力を使えばおよその鍵は開けられる。マリアたちが手間をかけて料理を作ってくれるのはありがたいが、食材の少ないこの地で得られる料理は非常に少ないと感じていた。今、食べている野草のスープも決して美味しいとはいいがたい。


「ちょっと昔の話を聞いてくれる?」


サクラコはふと語り始めた。


「私ね、以前は他のグループでリーダーをやってたの。世界がこうなる前から銃持ってたし、それなりに頭も回るから出会った人をまとめて小さな組織を立てたのよ。自惚れてた気はないけど、それなりに上手くやってたわ」


彼女は酒を飲みながら遠い目をして話す。

少し酔っている風だがどうせ演技だろうと彼は思った。


「でも、やっぱり自惚れてたのよ。西にゴミどもの巣があるのは知ってるでしょう?」

「あの高い建物のことだな」

「ええ。あそこと争いになったの。遠征に行った二人がむこうと物資の奪い合いになって、お互いが大怪我したわ。ゴミどもはその後で別の遠征係一人を人質に取って、アジトの目の前に連れてきたの。その人を処刑するか、若い女を一人差し出すか、どっちか選べって」

「まさか差し出したのか?」

「出さないほうが正解よね。わかってた。でも、私は見捨てられなかった」


彼女は自嘲した。


「仲間は家族同然だったから。私が奴隷になっても殺されはしない。従順に従う振りをして逃げ出す自信があったの」

「理屈はそうだが、それじゃ舐められるだろう?」

「そう。一度舐められたら終わりよ。1ヵ月後に私がいたグループは崩壊したって聞いたわ。ああ、言っておくけどゴミの巣から抜け出すこと自体はすぐにできたのよ?従順な振りをしたら簡単に騙せた」

「すぐに逃げたならグループに戻ればいいだろう?」


そうしない理由が彼にはわからなかった。

判断は間違えたが、失敗を次に活かせばいい。


「え?ああ、犯されたくらいで私の尊厳は失われないってこと?ならありがとう。でも、尊厳と威厳は違うわ。私と人質を交換したらゴミどもは仲間が見てる前で私にいろんなことをしたのよ。リーダーとしての威厳が消えるようなことをね。詳しく聞きたい?」

「いいや」


聞いたら殺されると彼は思った

彼女は猛獣が笑うような顔をしていたからだ。


「あの時は人質を見捨てるべきだった。私は感情で動いた後に理屈を作って自分を騙したの。リーダー失格よ」

「だから今はアイに従ってるわけか」

「ええ。あの子は皆からリーダーって呼ばれるでしょう?名前で呼ばせないの。友達になるといざという時に見捨てられないから。いつも私たちを気遣うけど、グループ全体のためなら見捨てるわ。それができるからリーダーに相応しいの」


彼女の目がとろんとしてきた。


「つまりー、あれこれと言ったけどー、リーダーとは距離感が大事ってことよー」

「酔ってるのか?」


演技が過剰だと彼は思った。


(ここまで下手だと逆に本当に酔ってる可能性もあるか?いや、そう思わせるのが狙いか……?)


「私としてはー、一番長い付き合いだからー、あの子の孤独を癒してあげたいけどー、難しいのよねー」


サクラコはベッドに上半身を預けると大きなあくびをした。

そして「寝る」とだけ言ってそのまま動かなくなった。


彼は狙いが何なのかわからないまま待ったが、何も起きないので自分の食事を済ませると怪我の治癒に集中した。

1時間ほど経つとアイが部屋に入ってくるなりため息をつき、自分より背の高い彼女を背負って出て行った。


「は?本当に寝てたのか?」




彼はアイたち5人から交代で看護されたが、あれだけ面倒を見るといっていたマリアが一度も現れないことについていろいろな理由を想像した。

薬の仕分けで忙しいのか。

誰かが急病になったのか。


(ああ、きっとあの赤ん坊の看護で忙しいんだな……)


彼はあの小さな目を思い出した。

薬が手に入ったとはいえ、まだ赤ん坊だ。危険な状態を脱するには時間がかかるのだろう。あの視線にはなぜか不思議な力を感じたのでもう一度会いたいと思っている。もう一度会えばあの不思議な感覚の正体がわかるのでは。


やっとマリアが現れた時、そう来たかと彼は苦笑した。


「すみません。風邪を引いてしまったようです」


口と鼻を布で覆ったマリアは鼻声で言った。


「お前が病気になるってこのグループ最大の危機じゃないか?」

「……そうですね」


彼女は笑わなかった。

表情は見えないが、何かあったなと彼は直感した。

誰かが死に掛けているなら彼女がここへ来ると思えない。

ならば可能性はひとつだ。


「誰か……死んだのか?」

「……はい」


抑揚もなく義務的な、しかし重い言葉だった。

彼はその先を聞きたくなかったが、口が先に動いた。


「誰だ?」

「……あの時に会って頂いた赤ちゃんが天に召されました」


薬は投与できたが間に合わなかったというマリアの声が続く。


そうか、と彼は言えなかった。

以前にそれで叱られたことがあるからではなく、奇妙な喪失感が彼を襲っていた。

自分の中の何かがぷつんと切れた感覚。

あの神秘的な体験で神々の警告を意識したが、赤ん坊が死んだなら自分に罰が来るのか。しかしその兆候はない。


(あれ?俺は何を期待したんだろう?)


神々の干渉が気のせいなら喜ぶべきことのはずだ。

しかし、全く嬉しくない。

何を言えばいいのかわからない。

ただ、少し目が痛い。

目の前の景色がゆがんだ。


「あ……」


マリアが彼を見て泣き出した。


「どうした?」


彼は聞いたが答えは返ってこない。

頬が痒いので手でぬぐってみると濡れていた。


「貴方も泣いてくれるんですね……良かった……」


彼女は顔を押さえて泣き続ける。


彼はどうして自分が泣くのか考えてみた。

ひょっとしたら自分は神々の警告に怯えたのではなく、相手にしてもらえたと思って嬉しかったのだろうか。罰でも何でもいいから超自然界の存在に語りかけてほしかったのだろうか。その時に神々になぜ自分を生んだのか聞きたかったとか。

あるいは神々とは関係なく、赤ん坊という存在に愛情や哀れみをかける心が自分にもあるのだろうか。しかし体は魂の器に過ぎないはずだ。自分はそれを知っている。


「わからない……」

「どうしたんですか?」

「ええと、なんでお前は泣いてるんだ?」

「貴方が泣いてくれるからです」


よくわからない答えだった。


「なあ、なんで俺は泣いてるんだと思う?」

「理屈なんてありません。悲しいから泣くんです」


テヅカもそんなことを言っていたなと彼は思い出す。


「貴方はそういう人間じゃないと思ってました。でも……私が間違ってました」


口は見えないが彼女は微笑んだらしい。

その目に見つめられると彼は奇妙な安心感を覚えた。

これも理屈ではない。

あの赤ん坊が死んで、よくわからないけど涙が出る。

彼女が微笑むとよくわからないけど嬉しい。


(どうして嬉しいんだ?俺は早くこの世界の王になりたいのに。あれ?どうして王になりたいんだっけ?)


彼は天井を見上げた。


好き放題に振舞いたかったのか。

嫌いなやつを足蹴にしたかったのか。

美味しいものや綺麗な女を手に入れたかったのか。

どれも当たっているが、一番欲しいものではない気がする。

言葉で言えない「なにか」だ。

世界の支配者になればそれが手に入ると思った。


「あの子は死んじゃったのか……」


彼は自分に起きていることを確かめるために聞いた。


「はい。もういません」


それを聞いて目からまた涙が出たことで彼は確信する。

やはり悲しい。

あの赤ん坊が死んで自分は悲しんでいる。間違いなかった。

あの小さい目が自分を見ることはもうない。

助かったならいずれ喋ったり歩いたりしたはずなのに。

絶対にやってこない未来を想像すると更に悲しくなった。

彼は泣き続け、マリアもその隣で一緒に泣いた。

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