第7章:烏丸総合病院

彼はマリアから聞いた病院に到着した。

そこは彼女たちが住む建造物に少し似ていた。ただし、建物は5階まであり、入り口にはすでに多くの亡者がうろついている。

マリア曰く、空気感染が始まったころに患者が多く収容され、治療が試みられたらしい。その効果がなかったことは言うまでもない。誰も医薬品を取りにいけない現況を考えるなら医者たちの努力は逆効果だったとさえいえるかもしれない。


病院の手前に薬局もあるが、そこは今は行っても無駄だとマリアは言った。

そのとおりだった。

通りがかりなので彼も少し見てきたが、そこに商品は一切なく、金庫も何もかも奪い尽くされていた。文明崩壊が始まった時に略奪の標的にされたらしい。


「にしても数がすごいな……」


彼は思わずつぶやいた。

病院も薬局と同じく貴重な医薬品を欲してどこかのグループが忍び込んだ後という可能性も考えたが、見ただけでそれはないと確信できた。

あまりにも亡者の数が多い。

1階は建物の外だけでも百体を超え、窓の中にもうろつく亡者が確認できる。


(さて、どうやって進む?)


彼は入り口からの侵入をすでにあきらめている。

煙の要塞を使おうにも亡者が多すぎて通り抜ける隙間もないくらいだ。彼にとって唯一見込みのある侵入経路は病院まで続く歩道の雨避けだった。跳躍して屋根に上って進み、そこから2階の窓を開けて侵入する。鍵がかけてあるなら念力の出番だ。

これで行こうと彼は思った。


しかし、考えるのと実際にやるのは雲泥の差だった。

雨除けに登ると小さくぎしりという音がした。すぐに壊れるような外観ではないが、元より人が通る場所ではないので魔法で重量を減らしても崩れない保証はない。


(頼むから壊れるなよ……)


彼は一歩進むと足元の強度を確かめてゆっくり体重を移し、また1歩進むと足元を確かめる遅々とした動きで進んで行った。


「ぎゃ……くきき……」

「ししし……うひひ……」


次第に足元に増えていく亡者たち。

彼は芋虫のようにのろのろと進み、30分以上かけてようやく病院の入り口上部まで到達した。


2階の窓の鍵を念力で開ける。

簡単だと思ったことだが金具には裏に補助鍵があり、それを下ろさないと鍵自体も開けられない仕組みになっていることに彼が気づくまで5分以上の時間を要した。

彼は自分の頭の悪さが嫌になりつつ窓を開けると近くをうろつく亡者に声をかけた。


「おーい……」


小さな声に亡者は反応した。


「しゃぎあしし……」


亡者は窓の方へ近寄ってきた。

まだ彼を獲物とみなしておらず、この状態を彼は注意状態と呼ぶことにした。音を出したり動くものが人間や生物だとみなすと追跡状態になり、声を出して追いかける。この声が他の亡者を呼び集めるのが厄介なところだ。


彼は少し待ってその亡者が動き出すと窓から侵入した。

二階の廊下はあちこちの壁や床に黒い染みがついており、この病院の最後を物語っている。


ついに病院内へ入ったが、ここからが問題だと彼は思った。

マリアが言うには病院の医薬品は薬剤科と薬剤倉庫にあり、どちらもおそらく1階にある。しかし、どこの階にあろうと彼には関係なかった。少量の薬を持ち帰るのではなく、病院を丸ごと占拠してしまおうと考えているからだ。


(まずはこの階から始めるか)


彼が病室の一つを開けてみると予想外の光景にぎょっとした。


「ぎ……はききき……」


ベッドの上に一体の亡者が拘束されていた。

手足は白く太い帯でしっかりと縛り付けられ、首から上だけがカクカクと動いている。

ベッドの脇に設置された棚には花瓶が置かれ、干乾びた花が挿さっていた。

花も亡者も何年も前からこのままなのだろう。


(この亡者はあとで使えるな……)


彼はゆっくりとドアを閉め、隣の部屋を調べてみる。

こちらは誰もいなかった。といっても、ベッドについた大量の黒い染みを見れば誰かがいたことは明白だ。その誰かはこの階をうろつく亡者のどれかだろう。


それでも彼にとってはじゅうぶんに目的を果たせる部屋だった。

彼は病室の窓を全開にするとその手前にベッドを移動させ、さらに手前には備え付けの棚を横倒しにしたり毛布を折りたたんで重ねることで窓までの緩い階段を作り上げた。


「おーい!」


彼は大きい声で廊下の亡者たちを呼び寄せると自分を煙の隠れ蓑に包みつつ、煙の一部を動物の形にして窓の外で動かした。コマリが好きなネコという生物だ。



「しきききき、かくあああああ」


最初に部屋に入ってきた亡者はすぐに空中の獲物に気づいた。

緩い階段を渡って外の動物に手を伸ばし、そして―――落下した。

ぐしゃ、という重く湿った音が鳴った。


彼は作戦どおりになったことに喜ぶよりも拍子抜けした。

2階の亡者たちは仲間の追跡音を聞きつけてさらに集まり、ふわふわと宙を動くネコを掴もうとして地上へ落下してゆく。しばらくして誰も来なくなると彼は2階を見回り、本当に亡者がいなくなったことを確認した。


こんなに上手くいっていいのかと思いながらも彼は3階から上でも同じことを繰り返し、上階の亡者たちを排除してしまった。

彼が落ちた亡者を確認すると2、3階から落ちた亡者たちは片足を引きずるか這って移動していたが、4階以上の高さから落ちた亡者はわずかに手足を動かすのみだ。


(成功するように願ってたが、ここまで上手くいくとは……)


彼は2階以上の亡者相手ならほとんど無敵になった気がした。

しかし、1階だけは同じ方法が使えない。

そのために別の作戦を用意しているがその前に病室にいた亡者で実験をすることにした。


彼は病室へ行くと亡者の両腕の拘束だけを外してやった。

上体だけが起き上がり、うめきながら動こうとするが下半身はベッドから動かない。


「しぎしゃしゃ……」


(さて、ちょっと可哀想だが……)


彼は雑貨店から持ってきたハンマーを背嚢から取り出すと亡者の頭を目掛けてそれを振り下ろした。

大きくはないが重く湿った音が鳴った。

亡者は一瞬体を震わせたが、怒るわけでも悲鳴を上げるわけでもなく動き続けている。


(おいおい、頭が凹んでるんだぞ。これくらいじゃ死なないのか……。ということはやっぱり狙うべきはここか?)


彼は次に亡者の後頭部より少し下、頚椎をめがけてハンマーを振り下ろした。

電気が流れたように亡者の体が大きく震え、上半身がベッドへ倒れる。

彼はじっと観察したが亡者はもう起き上がってこなかった。


(やはり首だな。頭はよほど潰さないと駄目だろうけど、首ならもっと簡単に殺せる)


彼は次に2階の病室から1枚のシーツを取ると魔法で火をつけ、病室で見つけた金属の容器に入れた。勢いよくは燃えないが灰色の煙がもくもくと上がり始め、彼は同じものをいくつか作って1階へ運んだ。煙は病院中へ広がっていくが、彼だけは念力で煙を避けられる。今までやっていた煙衣の逆である。

外の亡者はどうするかと彼が見てみると煙が上がっていく空を何匹かがじっと見ていた。ちょっと面白いなと彼は思った。


しばらくすると彼は階段を下りた。

周囲の空気は灰色がかっており、その中で咳き込むことも目をこすることもしない者たちがのろのろと動いている。彼は一匹の背後から忍び寄り、そっと狙いを定める。亡者は腰が曲がり、頭が下がっているので頚椎が狙いやすい。そこをめがけてハンマーを思い切り振り下ろす。重い音が鳴り、亡者は崩れ落ちた。

その音で他の亡者たちは反応したが、視界を塞がれているので集まってくることはない。


(さて、ここからが重労働だぞ……)


そこからは彼が生涯で最も活発に働いた時間といえた。

院内の亡者の首をすべて砕き回るのだ。本当ならサキのように頭と胴を切り離す方が確実であると彼もわかっているが、道具と体力的な理由から同じことはできなかった。1階の院内にいる亡者を何十匹も撲殺し、ガラス製の大扉が割れた正面玄関に長椅子をいくつも積み上げ、雑貨店から持ってきたテープでそれらを固定して防柵とした。

最後に全ての窓にシーツを吊るして覆いをし、病院の占領は完了した。


(お、終わった……)


彼はその場に座り込みたかったが、まだやることがあった。念のために殺した亡者たちを引きずって2つの部屋に集めるとそこに鍵をかけた。外をうろついている亡者まで始末するつもりはない。あれらを始末してしまったらいずれ人間のグループが略奪しに来るからだ。不安もあるが、人間避けの護衛としてうろつかせておこうと思った。


医薬品が置かれている場所はすぐに見つかった。

大量にあるそれらの中からマリアにもらった容器と同じものを探し当てると背嚢に入れる。ついでに軽そうな薬剤を何種類か回収しておく。どれに需要や価値があるのかわからず、いずれマリアから聞き出す必要があるだろう。


「あー、疲れた」


彼は床に座り込んで休憩することにした。

おそらく昼を過ぎており、腹も空いているがあの保存食を開ける道具がない。代わりに院内の売店に飴があったので表面を磨いて一つを舐めた。甘い味が口内に広がる。周囲にある無数の血痕さえ無視すれば安らかな時間といえるだろう。


(さて、どうするかな……)


彼は今まで先送りにしていた問題を解決しなければならなかった。

物資を手に入れたがどうやって彼女たちと安全に取引するかだ。命を救ってくれた相手ではあるが、希少な物資を前にいつまでも対等な取引を続けるとは限らない。欲がなくても病気の仲間を助けるためなら奪い取ってでも、と考えるのが人間だ。

彼はじっくり考える。

考えて、考えて、そして気づいたら眠っていた。


目が覚めた瞬間、彼はまだ自分が生きているか心配になった。体と周囲を見回し、寝る前と何も変わっていないことに安堵する。一体でも亡者が忍び込んでいたらと思うとぞっとした。しばらく運動らしい運動をしなかった後で急に屋根を飛び回り、病院で亡者を撲殺するという仕事の連続で疲れがたまっていたのだろう。

病み上がりの体を甘く見ていた自分を彼は叱った。


外は夕焼け色に染まっており、気温も下がってきている。

ここで夜を明かそうか彼は迷った。病院内にベッドや着るものはあるし、お菓子の類を食べれば腹は満たせる。しかし、あちこちに血痕があり、亡者がすぐ傍でうろつく建物でこれ以上寝たいとは思わなかった。

彼は病院を出てどこかで一泊することにした。

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