第5章:情報収集
日が傾き、空気が冷えてくるまで彼はひたすら木の実を割った。
そろそろ風邪を引きそうだという頃合になってアイとマリアがやってきた。
アイは夕食を持っており、隣にいるマリアは白い箱と彼の荷物を奪ったエリという女が持っていた照明器具と似たものを持っている。
「今日はもう終わりでいいよ。へえ、結構やってるじゃん。慣れた?」
「いや、すごく疲れた。しかも寒い」
彼は辛い作業だったことを強く主張する。
怠けこそしないが、容易い仕事だと思われて仕事を増やされては困る。
「上着を脱いでください。肩のガーゼを替えますから」
「ああ、それであんたもいるのか。頼む」
「医療用の物資は少ないんだから感謝してよ」
「わかってる」
(医薬品や医療器具を手に入れたら他の物資と取引できるな)
彼はそう思いつつ、寒さと痛みをこらえて上半身裸になった。
包帯が解かれ、マリアが傷の様子を見る。
「あれ?」
「どうした?」
「いえ、炎症がけっこう治まってて驚いたんです」
「そう?普通と同じじゃない?」
アイが横から口を挟む。
「若いほど治りは早いといいますけど、本当に早いです。指や腕に痺れはありますか?」
「いや、ない」
「よかった。神経に異常はありませんね。骨にも当たっていなかったし、運がいいです」
「そうか……」
運が良かったら誰かに銃で撃たれたりしないと彼は思いつつ、治りが早い理由を考えた。必死になることで治癒魔法が強くなったのだろうか。
「ねえ、あんたって何歳なの?」
「俺は……」
彼は少し悩んだ。
この世界の1年は元の世界では何年なのか。それがわからないと正確な年齢など答えられるわけがない。
仕方ないので適当に答えることに決めた。
「25歳だ」
「へえ、思ったより若いですね」
「外国人って年齢わからないよね」
話は膨らむこともなくそこで終わった。
彼はせっかくなので自分を撃った奴らについて情報を得ようと思った。
「なあ、アイ」
「いきなり呼び捨て?」
「え?ああ、そうか……」
彼はアイたちが誰かの名前を呼ぶ時にこの世界独特の敬称があるのに気づいていた。どういう意味かはっきり知らないが、その一つを思い出して使ってみることにした。
「アイちゃん」
「はあ?」
彼女は苛立ちを露わにした。
この敬称は相応しくないらしい。
「……アイくん」
「舐めてる?アイさん、でしょ」
「ああ、そうなのか。なあ、アイさん。俺を撃った連中について質問してもいいか?」
「ってことはあんたはやっぱり余所から来たんだ?」
「まあな。俺を撃った連中はどういう所に出没するんだ?危険地帯を教えてくれ」
「ああ、それならちょうどいい目印があるよ。ここから西側にかなり高いビルがあるでしょ?そこに武器を持ったゴミとクズが集まって拠点を作ってるの」
「あそこから半径500メートルくらいは誰も近づきませんよ。範囲外でも運が悪いと遠出した連中と遭遇しますけど」
「500メートルってどのくらいだ?」
彼は一瞬迷ったが聞くことにした。
長さの単位を知らないことを奇妙に思われるかもしれないが、これを間違えると命にかかわるので放置するわけにいかなかった。
「ああ、メートルわかりませんか?米国だとヤードでしたっけ。どれくらいでしょう?」
「えーと……歩数でいえば千歩くらいじゃない?1歩が50センチとして千歩でちょうど5万センチだから」
彼はアイの発言でセンチとメートルの間隔をなんとなくつかんだ。
あの高い建物の千歩以内は危険地帯ということだ。
(そこには絶対に行くべきじゃないな。いや、銃とやらを持っているなら奪い取ることもできるか?危険すぎるが、他に入手方法がわからないし……)
彼は二人から銃に関する情報を聞き出したかったが、この話は非常にデリケートであると思い知ったので躊躇した。
「あのビル、でかいから目立つよね。近づけたら喜んで火をつけるんだけど。あーあ、逃げる前にやっとけばよかった」
「そこにいたのか?」
彼女から話したことなので彼はつい聞いてしまった。
そういえば男を痛めつけている時に妹がどうとか言ってた気がする。
その瞬間、アイはにやあっと笑った。
あの時の顔だ。
「あるよ。詳しく聞きたい?」
「……いいや」
彼は目を潰されたくないし、顎も砕かれたくなかった。
「あっそ。でも、ほんと誰かが燃やしてくれないかな。あんたが出来たら私を百回抱いていいよ?」
「リーダー、たった百回ですか?私なら一万回でもいいですよ」
「もー、最低それくらいはするって意味だって」
アイとマリアはけらけらと笑う。
彼は他のグループについて聞き出したかったが、処置が終わるまで黙ることにした。
昼間の一件により、彼女たちは機嫌が良さそうな時が一番危ないと学んだからだ。
「じゃあ、あとでお湯とタオル持ってくるから体拭いたら寝てね」
「え?今日はここで寝るのか?」
「昨日は容態が急変するかもってマリアが言うから特別待遇にしたの。文句ある?」
「……いいや、感謝してる」
二人は微笑んでドアを閉めた。
「おお、体を拭くだけでもさっぱりするもんだな……」
彼は意外な心地よさに思わず声を上げた。
アイたちが持ってきたお湯で湿らせたタオルを使って体をこするとその部分がじんわりと温もり、お湯に浸かっているような感触が一瞬得られる。ただし、すぐに冷えてくるので急いで全身を拭いて服を着なければならなかった。
陽は完全に沈み、照明はお湯と一緒に渡された小さな照明器具だけ。
彼はそれを少しいじって遊んだが、すぐに飽きて寝ることにした。
「今日は縄で縛られてないだけマシか」
昨日は部屋が暖かかったが手足を縛られていた。
今日は寒いが手足は縛られていない。
彼はどちらがよい状況か考えたが、馬鹿馬鹿しくなってすぐに眠りに落ちた。
眠ってどれくらい経ったのかわからない。
がちゃりという音で目が覚めた。
彼はもう朝かと思ったが外はまだ暗い。
照明器具を持った誰かが入り口に立っていた。
「だれだ?」
「ふふふふ、だれだと思う?」
彼は全身に鳥肌が立った。
声の主はあの快楽殺人者だった。
「たしか……サキだったか?」
「覚えててくれたんだ?ありがと」
部屋に入った彼女は扉を閉めると近づいてきた。
唇に紅をさし、服も昼間に見たものと別の赤いものだった。
赤。血の色だ。
「何をしに来た?」
殺しに来た。
それ以外の用があるとは思えない。
襲いかかってきたら催眠の魔法でなんと命じるべきかを彼は考える。
「あれ?なんか勘違いしてる?ただの夜這いよ」
「……は?」
「ここって女ばかりでしょ。退屈だから遊んで」
彼女は素早く彼の毛布の中にもぐりこんだ。
目の前に顔が現れ、花のような香りがした。
「お前、男に興味があったのか?」
「失礼ね。私さあ、一度クスリ漬けにされてそれと引き換えに男どもを誘惑して殺せって命じられてたの。で、ある日に飼い主を殺してクスリは手に入れたんだけど、それも使い切ってブラブラしてたらリーダーに拾われたって感じ。今でも体が疼くのよ。でもクスリがないでしょ?だから男か血で酔ってるの」
彼にはそれが本当か確かめようがない。
だが、妙に真実味があった。
「で、今から思い切り抱いてほしいんだけど、その前に相談があるの」
「なんだ?」
「このグループ、一緒に裏切らない?」
サキはにたりと笑った。
「……お前、何か企んでるのか?」
彼は香水の匂いを感じながら慎重に考える。
実は彼女こそアイたちが警戒している別グループの工作員だったのだろうか。もしもこれが裏切りの勧誘なら話に乗るべきか。
(いや、アイに密告して点数を稼ぐという手もあるんじゃないか?一応、ここの連中には借りがあるしな……)
彼は他人の命に興味を持ったことはないが、自分を救ってくれた人間を裏切るというのは気分が良いものではなかった。
「だって、ここじゃクスリもらえないんだもの。どこか手に入るグループを知らない?あなたの知ってるグループにここを襲わせちゃおうよ」
「は?お前が計画を立ててるんじゃないのか?」
「全然。あなたが考えてるんじゃないの?武器を置いてる場所とか教えるから仲間に入れて」
彼は相手にするのが馬鹿らしくなった。
頭が悪く、長いものに巻かれたいだけの女だ。何の利益もない。
顔と体こそなかなか良く、一時の快楽を得るだけなら彼も歓迎する。
だが、こんな話に飛びつくほど愚かではない。
「断る」
彼はきっぱりと言った。
「本当に?」
「ああ、俺は恩をあだで返すつもりはない」
「……残念ねえ」
彼女は心底そういう顔をし、次に入り口を振り返った。
「だってさ、リーダー」
「うん、聞こえてた」
彼がぎょっとして上体を起こすのと同時にアイが現れた。
試されていたと彼は理解する。
「餌に食いつくかと思ったんだけど、そう上手くいかないか」
「お前なあ……」
彼は話に乗らなくて本当によかったと思った。
思えば、この世界に来てから一歩間違えば死ぬような目に会うことが多すぎる。
「残念だわ。せっかくやれると思ったのに」
サキはそう言うと急に服を脱ぎ始めた。
「え?」
「ちょっと、サキ?あんた何やってんの?」
アイとアリーは困惑する。
「体が疼いてるのは本当だもの。静めてもらわなきゃ」
彼女はそう言うと下着姿になってアリーに抱きついた。
唇を強く重ねる。
「勘弁してよ、サキ……私、帰りたいんだけど」
「見張りは必ず二人一組でしょ。そこで見てたらいいわ。あなたも溜まってるわよね?1年分くらい出してあげる」
サキは目が血走り、恍惚とした表情としている。
その髪の毛を後ろからアイがぎゅうと引っ張った。
「痛い痛い痛い!何するのよ!」
「帰るわよ。ほら」
「1回だけだから!すぐに済むから!」
彼は駄々っ子を連れ帰るようにサキを引っ張ってゆくアイを眺め、少しだけ損をした気分になった。
それを見抜いたのか、アイは彼を見て言った。
「あんた、気をつけなさいよ。サキは抱かれてる最中に興奮して相手を殺す癖があるの。前に1回あったから」
「はあ!?」
「大丈夫よ!今度は我慢するから!イクだけで済ませるから!」
彼はアイに加勢してサキを追い出し、自分から硬い扉を閉めて眠りについた。
小さな窓から朝日が差して彼は目を覚ました。
右腕を少し動かしてみると小さな痛みがするが、徐々に良くなっているのがわかった
昨晩は傷が開くのではないかと思うほどの出来事が起きたが、無事だったらしい。
彼は昼食にありつくために木の実割りを始めた。
昼ごろになるとアイとコマリが食事を運び、再び情報収集の機会が来た。
「なあ、昨日聞きそびれたんだが、この周辺で話が通じるグループって他にどこがある?俺が物資を手に入れたとして交渉しやすいところを知りたいんだが」
「まともねえ……。どこも約束を守る保証はないよ。油断したら狩られる。私らはその前提で取引してるから」
「でも、アマギリさんの所はけっこう優しくないかなー?」
コマリが言った。
「あそこ?問題は起こさないけどちょっとね……」
「どんなグループだ?」
彼は二人の意見が分かれるグループに興味を覚えた。
「50人くらいのグループなんだけど、そこのリーダーがアマギリ教って宗教を開いて皆を入信させてるの。ああいうのって苦手なんだよね」
「宗教、か」
魔法使いの世界では職業以上に就いて当たり前のものだ。
魔法がない世界で神や宗教がどういう認識か彼は興味を覚えた。
「仕方ないんじゃないかなー?こんな世界になったら神様に頼りたくなる人もいるって。意味ないけど」
「でもさ、みんな同じ衣装を着てて怖くない?」
お前たちのほうが怖いという言葉を彼は飲み込む。
「えー、そう?団結力が生まれそうじゃん。うちらも対抗して赤い服とかで統一したら楽しそー。ああ、でもサキちゃんは一人だけ仲間はずれになっちゃうか」
「あいつはブランドものに命かけてるからね。人が物資を回収してる横で高い服や下着をとりまくるのはいい加減やめてほしいんだけど」
アイがちらりとアリーを見る。
サキの服や下着へのこだわりは彼も昨晩によく知った。
あの女性はアイにとって一つの悩みの種なのだなと彼は思いつつ、アマギリ教についてさらに聞いてみることにする。
「その宗教家は何ができるんだ?特別な力でもあるのか?」
「亡者現象は神の審判だとか言ってんの」
「神の審判か……。お前たちは信じてないわけだよな?」
「当たり前でしょ」
「神様なんていないもんね」
二人は呆れたように言った。
神々と交信できない世界なのだからそれが普通だろうと彼も思う。もっとも彼も最弱の魔法使いだったために精霊や神々との交信はできなかった。
彼はエリが言っていたことを思い出した。
「たしか細菌兵器って考えが主流なんだろう?自然の病気って説もあるが」
「そうだよ。どこの国が流したのかはもうわからないけど」
「南極の氷が解けたせいで菌が出てきたとか言ってた学者さんもいたよねー。あの人、生きてるのかなー?」
「死んでるんじゃない?地球微生物学の専門家なんて需要ないから。文明が残ってる地域なら生き残ってるかもね」
「文明が崩壊してない所ってどこかにあるのか?」
重要なことなので彼は聞いてみた。
「あったら皆そこに向かってるでしょ?亡者のせいで燃料が運べないから日本みたいな国は電気使えなくて終わり。ああ、でも太陽光発電所や水力発電所のある小規模な町なら維持してるかもね。私も家族とそういう場所を目指してたんだけどさあ……」
"さあ"の部分でアイの口元が少しニヤける。
良くない兆候だと彼は思った。
これがあのにたにた笑いになったら危険信号だ。
だが、電気や発電所という言葉は彼にとってとても有益だった。
この世界の文明は電気で維持されており、それを得るためには特別な設備が必要らしい。神々と契約することでエネルギーを生み出せないとは不便なことだと彼は思う。
「救助船や飛行機を待ってた頃もあったけど、結局来なかったねー」
「生き残った国も自分たちで精一杯なんだと思う。空気感染で3割が亡者になったでしょ?そこから周りが噛まれて6、7割以上。世界に50億人以上の化物がいるってことでしょ。あっ、もう食べ終わった?じゃあ、作業再開して」
「いや、もっとちょっと話を聞かせてくれないか?」
彼は真剣に興味があった。
この世界の基礎情報は聞くだけも非常に面白い。
「面倒だし、見返りがないでしょ?」
「アリー君、どんぐりクッキー美味しかった?」
「えっ、あの実から作ってたのか?」
「そーだよ」
あの木の実がそこそこ美味しかったことに彼は驚いた。
だが、その驚きを最後に昼休みは終了した。
単純労働に打ち込むと時間の経過は思ったより早い。
あっというまに夕飯の頃合になった。
それなのに誰も来ないという事態は彼にとって死活問題だった。
少し遅れているだけかと思ったが、いくら待っても来ない。
うっかり忘れているのか、なんらかの理由で彼女たちの機嫌を損ねて夕飯抜きになったのか。
彼は金属の扉を叩いてみる
「おーい、誰か!」
返事はない。
待つしかないと思ったがすぐに単純な解決法を思いついた。
念力でこの鍵を外せないか。
当たり前のことを今まで思いつかなかったのは魔法使いの世界に魔法封じが存在し、どんな鍵にもそれが使われているからだ。念力で鍵を開るという発想がない。
しかし、勝手に部屋を出たら殺すという最初の警告を彼は忘れていない。
彼が扉の前で逡巡しているといきなり鍵が開いてアイとマリアが現れた。
「うおおおっ!」
「何?鍵開けて逃げようとしてた?」
扉を開けたアイが疑惑の目を向けてくる。
「違う!遅いから心配になったんだよ」
「一食抜いたくらいで死なないって」
「すみません。妊婦さんの容態が悪くなったので」
「ああ、そういうことか」
妊婦がいる理由はすでに聞いている。
彼はマリアの目が少し赤いことに気づいた。
何かまずいことがあったのだろう。
その件は聞かないほうが身のためだと思った。
しかし、彼女はガーゼを交換している最中にぽつりと言った。
「妊婦さん、死んじゃったんです。赤ん坊も助かりませんでした」
「そうか」
「それだけですか?」
「え?」
「そうか、で終わりですか?」
マリアの声には怒りがあった。
彼の後ろにいるので表情はわからないが機嫌が悪いらしい。
理由がわからず彼は困り果てた。
しかし、珍しくアイの助けが入った。
「マリア、こいつに八つ当たりしても仕方ないでしょ?」
「八つ当たりじゃありません。この人は……」
そこで声は止まり、鼻をすする音が聞こえた。
少し間が空く。
「えっとね、あんたを治療した時に痛み止めの薬を使ったんだけど、それって最後の一本だったの。それがあってもあの人は助からなかっただろうけど、せめて苦痛を和らげてあげたかったわけ」
「そういうことか……」
彼は自分が当事者であることがわかり、慰めの慎重に言葉を選ぶ。
薬を使うと決めたのは俺じゃないという本音は封じた。
「それは悪かった。すまない」
「……いいえ、薬を使ったのは私ですから。急に怒ってすみません」
マリアは理性を取り戻したらしく、彼は安堵した。
「……あの人の人生はなんだったんでしょうね」
マリアはまたつぶやいた。
「いきなり拉致されてゴミどもに嬲り者にされて、何ヶ月も売春させられた挙句にお腹が大きくなったら裸で放り出されたんです。腹が縮んだらまた来いって言われて。彼女、その通りにしようとしてたんです。あいつらに逆らったらまた酷いことをされると信じてたから」
「あいつらが来たら皆殺しにしてやるって教え込まなきゃここから逃げ出してただろうね」
「はい。ここは安全だとやっと信じてくれたのに。なんでこんな目に……」
「薬は他のグループと取引できないのか?」
「できたら苦労しないでしょ」
アイが呆れて言った。
「どこも薬はぎりぎりまで手放さないの。回収しようにも病院は亡者がうようよいるし」
「病院か……」
彼は少し考えた。
医薬品のような希少品はほかの物資と取引できるし、自分が必要とすることも大いにありうる。入手するためにその場所を知っておいた方が良いだろう。
「この近くの病院ってどこにあるか教えてくれるか?」
「え?あんた、薬とってきてくれるの?」
「ん……?ああ、無理じゃなさそうなら……」
彼は質問の意図をやや誤解されたことに気づいたが、そのままにした。
「無理無理。死ぬって」
「いいから教えてくれ。教えてもそっちの損にはならないだろう?」
「面倒くさいし」
「東に山が見えますよね?その手前に川が流れていて、それを上がっていくと烏丸総合病院って大きい建物があります」
「カラスマ……病院か」
「マリア、本気にしてどうすんの?」
アイは苦笑したが、彼女は構わず話を続けた。
「あなたに使った薬はアセトアミノフェンです。容器にアセリオ静注液って書いてるはずです」
「悪い。文字は読めないんだ」
「ああ、漢字は難しいですからね。明日、容器を渡します。ああ、でも、薬ならなんでもいいから欲しいのが本音です」
「ちょっと、マリア。どうしたの?」
「これくらい別にいいじゃないですか。でも、アリーさん。あなたが無駄死にしたら使った薬が無駄になることは忘れないでください」
「わかった」
この女に信用されればこれからの身の安全が高まると彼は算段した。
だが、ガーゼの交換が終わると彼女は背中を向けて言った。
「薬を手に入れたら信用されるなんて思わないでくださいね」
「え?」
「彼女がどんな目にあったか話したとき、あなたは彼女のことより薬の話をしました。そんな人は絶対に信用しません」
「……そうか」
「はい」
「私は涙流そうと信じないけどね」
二人が出て行き、硬い音を立てて鍵が閉まった。
彼は思った。
他人の不幸を嘆く。
きっと彼女たちにとってはそれが普通なんだろう。
だが、自分にとってはこれが普通だ。
誰も俺の不幸を嘆かなかった。
だから俺も他人の不幸を嘆かない。
それの何が悪いんだ。
元の世界でそうやって生きることを学んだのだ。
彼はタオルで体を拭く時間になってアイとコマリに連れ出された。
建設中の浴場が完成して今日からそこを使わせてくれるなどとは思えず、聞かずにはいられなかった。
「なあ、俺は何かまずい事をしたか?何の罰を受けるんだ?」
「何を勘違いしてるの?髪の毛洗わせてあげるから外に連れて行くだけ。正直、ここまでサービスする必要ないと思うけど、それじゃ可哀想だって言う子がいてさ」
彼はほっとした。
彼女たちが何も言わないのは心臓に悪すぎる。
「マリアが言ってくれたのか?」
「違うよー。キョウコちゃんがそう言ってたの」
「キョウコ?」
コマリに言われて彼は誰だろうかと考える。
あの6人の残りだろうか。アイ、コマリ、マリア、サキの4人とはもう話をしたが、残りの2人は最初の話し合い以来見ていない。
「あの子が言わなきゃ食事ももっと貧相になってたから感謝しなさい」
「そうだったのか。その子はどこにいるんだ?」
「今は遠くに出かけてる」
物資の調達だろうかと彼は推測する。
キョウコという人物はよほど情け深いのか、それとも打算があって自分の待遇を良くしているのか。その人物の性格と狙いがわからず、彼は少し気になった。
バケツが置かれた場所まで歩くと彼は謎の容器を渡された。
「これは?」
「シャンプー。他に何に見えるの?」
「洗髪剤か。どおりで苦いわけだ……」
「はあ?」
「いや、なんでもない」
彼はこの世界に来て初めて口にしたものが洗髪用の液体だったことを知った。
それに苦笑しながらバケツのぬるま湯で髪をぬらすと洗髪剤をべたべたとつけてゆく。
「ちょっと、そんなに使わなくていいでしょ」
「え?」
「それすごーく泡立つからちょっとでいいんだよ」
アイたちに言われて髪の毛をこするともこもこと大量の泡が出始めた。
「うおお、こんなに泡立つのか」
「あははは、羊みたいになってるー!」
「無駄使いしないでよ。あんた、髪長いけど丸坊主にしたらいいんじゃない?」
「坊主はちょっとなあ」
そういえば最初に入った店にも似たような容器がたくさんあったことを彼は思い出す。食料と違って洗髪剤にはあまり需要がないのだろう。
「時間もかかるでしょ。私たちだって短くしてるんだから」
「サキも髪が長いだろう?」
「あいつは……まあ、ああいう性格だから」
「サキちゃんはほんとシャワーが長いよねー」
「もう少し気を使ってほしいよね。シャワー室は順番なんだから」
正式な浴場があることとやはり不公平な扱いを受けていたことを彼は知った。
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