第1章:生きる死者
雨が降りそうな灰色の空が広がっている。
彼は舗装された地面に横たわった自分を認識し、転移したのだと気づいた。
起き上がると周りを見渡す。白や灰色の建築物がいくつも並んでおり、草木はどこにも見えない。あの悪魔は山や平原ではなく都市に転移させたらしい。
人を探す手間が省けるので助かると彼は思った。
「これが魔法のない世界か……低いな」
彼がまず注目したのは建築物の高さだ。
1階建てや2階建てが多く、たまに3階以上の建てもあるが、空を突き抜けるような建物は一つもない。魔法使いの世界では精霊と契約して建築材料の重さや強度を変え、住宅を樹木のように縦横に伸ばして雲の高さまで伸ばすことができた。
魔法が使えない世界ではこれが普通なのだろう。
「さて、魔法は……。よし、使えるな」
彼は指先に小さな火を灯すことで魔法が使用できることを確認した。
普通の魔法使いなら子供でも拳くらいの大きさの火球を生み出せるが、彼にはこれが精一杯だった。
炎の魔法だけが格段に不得意な魔法使いなら他にもいた。しかし、彼は本当に何もかも最弱だった。水を創り出す魔法はほんの数滴。風も一瞬の微風が吹くだけ。念力は小石くらいの重さの物体を動かすのが精一杯。
空を飛ぶこともできない。
幻術を生み出すこともできない。
自分や他者の肉体活性を促進する治癒魔法は特に不得意だった。
(でも、ここなら俺が世界一の魔法使いだ……)
彼はにやりと笑う。
どんな性格かもわからない悪魔を召喚し、寿命の半分を捧げて別の世界に来た。やつの気分次第では重力が5倍強い世界や氷河期の世界に送られてあっという間に死ぬ可能性もあったが、今のところ問題はない。魔法使いの世界とかなり環境の似た世界に転移させてくれたらしい。
悪魔のくせに親切じゃないかと彼は褒めたくなった。
(……でも、人間はどこにいるんだ?ここは人間の居住区だろ?)
彼は周囲に住民が見当たらず、物音もしない不自然さにやっと気づいた。
窓にはガラスが多くはめられ、魔法の写生にも劣らぬ写実的な絵があちこちに貼られている見る限り文明はかなり発達している。しかし、肝心の人間がいない。
まるで廃墟だ。
(何かの理由で放棄されたのか?それとも治安の悪い貧民街なのか?)
彼は落ちこぼれ魔法使いなりの肉体活性魔法で身体を強化した。
筋力が1割ほど増すという情けない効果しかないが、使わないよりマシだ。
「これは……なんだ?」
大きな道には奇妙な「箱」がいくつも放置されており、彼は用途がわからなかった。
座席や車輪が4個ついていることから人や物を運搬するものだと推測できる。似たようなものなら魔法使いの世界にもあり、召喚した生物に牽かせるのだが、魔法が発達してない時代では家畜に牽かせていたと習った。
(この世界でも家畜を使うのか?いや、そんな感じには見えない……)
「箱」にはいくつかドアがついており、そのうち一つはガラスが割られている。後部には小さな穴がついており、そこから微かに油の匂いがした。
あちこちに放置されているどの「箱」もドアが破壊され、穴の蓋が開いていることは共通している。
(中にあった油を誰かが採取した?何のために?よくわからないな……ん?)
その時、「カン」と金属が鳴る音が彼の耳に聞こえた。
空耳かと思ったがまた聞こえた。
周囲を歩くと一軒の建物の中からもう一度鳴った。
彼はガラス製のドアを押して中へ入ってみた。
そこは魔法使いの世界では奇抜とみなされる衣服が無数に陳列されており、服の販売店であろうことは彼にもわかった。
(店員はいないのか?)
彼は陳列棚の迷路を歩き、さきほどの音の発生を探す。
風で何かが揺れたのだろうか。あるいは動物でもいるのか。
棚を右に曲がり、左に曲がり、奇妙な服をいくつも見ているとふと「この世界では自分の格好は異常なのだろうな」と思い始めた。植物の繊維を編んだ赤茶色のローブであるが、この店にそんな服は一着もない。
(せっかくだから着てみるか……)
彼は近くにかけてあった上着や脚絆をその場で試着してみることにした。
今、この世界は春か秋らしく、自分の服では少し寒いと思っていたのでサイズの合ったものを何着か試し、問題を解決した。
なお、彼はこの世界の現金など持っていないし、持っていても払う気はない。ごく短時間なら催眠魔法を使えるので店員を操って勝手に持っていくつもりだ。
(寿命が半分しかないんだ。この世界で唯一の魔法使いなんだから好き勝手に生きさせてもらうぞ……)
彼がそう思っているとまた「カン」という金属の音が聞こえた。
そして「ぎし」という奇妙な声も。
やはり人がいるじゃないかと思って彼がそちらへ行く。
店の奥に「それ」はいた。
老人のように背を曲げ、両腕をだらんと垂らして壁のほうを向いている。
おそらく女性だ。
彼女の足元にポールハンガーが倒れており、それが足に当たってまた「カン」と音が鳴った。
「なあ、あんたは店員か?」
彼は深く考えずに声をかけた。
指にはめている魔法具がお互いの脳に干渉して翻訳してくれるので言語の違いは問題ないはずだと。
「それ」は彼のほうを振り向いた。
白く濁った目とだらしなく開いた口。
何を噛んだのか、赤黒く染まったその口から音が出た。
「ぎしゅしゅふしゅえししし」
逃げないと死ぬ。
彼は考える前に生存本能から逃げた。
走る。走る。走る。
陳列棚の迷路を全力で駆け抜け、自分がやってきた入り口を目指す。
「それ」が追いかけてきていることは振り返らなくてもわかった。
足音と言語通訳されない意味不明の鳴き声が追ってきているからだ。
「ぎぃぎししああぅああああ」
(なんだよこいつは!?)
彼は転移先がろくでもない世界なら今度こそ死のうと思っていたが、あれに殺されるのは御免だった。少しも楽に死ねる予感がしない。
彼は屋外に飛び出すと通路を全力で走った。
「ぎぎぎぎぁああうあ」
鳴き声と走る音はぴったりと後ろからついてきた。彼は魔法なしでも運動能力が低い方だった。魔法による身体強化で能力が1割ほど上がっていてこれだ。魔法が使えなければすでに追いつかれているだろう。
(どうする!?どこかの建物に逃げ込むか!?)
彼はすぐに却下した。
すでに息が切れかけているし、ほかの建物に同じ生物がいたら終わりだ。
かといって、走り続ければすぐに体力が尽きる。
空を飛べたらと彼は願う。
元の世界では誰でも使える魔法だ。体や物にかかる重力を制御する魔法で体重をゼロにし、念力で自分自身を動かす。才能があれば10歳で習得できる初歩魔法だが、彼は16歳の成人式でも使えず、周囲からは同情と哀れみの目で見られた。
いっそ罵られたほうがマシだと彼は思った。
(……こいつ、跳躍力できるのか?できないことを祈るしかない!)
彼は息を切らしながら周囲を見渡し、車輪のついた「箱」の中で最も大きいものを見つけると地面を強く蹴った。魔法で自分の体重をゼロにはできないが、半分程度に減らし、身長の倍くらいの高さまで跳躍できる。
もちろん相手に同じ跳躍力があればここで彼の命は終わりだ。
大きな箱の上に飛び乗れた彼は下でバンバンと箱の壁面を叩く生き物を見てほっとする。この高さまでは跳べず、よじ登る知恵もないらしい。
「ぎしゃぎあああぅああああ」
「何を言ってるかわからんぞ……」
彼が毒づくと別の声がした。
「ぎいいいいひひひひっ」
「がああぅえああああ」
ほかの建物から同じ生き物たちが飛び出てきたのだ。
彼の逃走劇は始まったばかりだった。
(4……5……6匹か)
彼は箱の下に集まってきた生き物たちをモドキと勝手に名づけた。
人間もどきだ。
計6匹のモドキは駄々っ子のように箱をバンバンと叩くが、それ以外には何もしない。箱の両脇に付属している鏡の部分を持ってよじ登ろうともしないし、誰かが踏み台になって別の個体を上らせようとする気配もない。知能は高くないようだ。
だが、このままじっとしているわけにもいかない。
彼は棒か何かで上から奴らを殴りつけたかったが、武器になるようなものは一つも持っていない。何かを投げて注意を引くこともできない。
「催眠は効くか……?」
彼は催眠の魔眼を試してみた。
普通の魔法使いはこの魔法で動物や召喚生物を長時間使役できる。同じ人間ならどうかというと魔力の小さい相手ならば可能だが、それは悪魔召喚と同じレベルの禁忌にされている。人間に催眠をかけた者は最低でも5年は思想強制所に入れられ、以後の人生にも重い罰則が科せられる。
「効いてない……か」
どのモドキにも催眠の魔眼は効果がなかった。
彼の催眠魔法は動物相手なら数秒間有効のはずだが、6体とも効かないのだから個体差がどうこうではなく種族として効果がないと考えるしかない。
それはなぜか。
生きていないからだと彼は考えた。
魔法使いの世界でも自動人形のように生命を持たない物体は催眠がかからない。モドキはどれも肌に血の気がなく、一部は腐敗している。彼らは動く死者なのだ。
モドキたちを見ると肩や首、あるいは顔に傷を負っているタイプと無傷のタイプがいるのに彼は気づいた。怪我をしてそこから病原菌が侵入するなら後者はなぜ発症したのか。空気感染するのか。
彼は必死に考えたが、やがてすべての空想を放棄した。
正常な人間を見つけてこの世界の状況を聞くしかない。
彼は周囲の建造物の位置を確認した。
モドキに跳躍力はない。建造物の上に避難し、そこから屋上を飛んで移動すればおそらく安全にこの街から出られるだろう。しかし、彼が今乗っている「箱」は海の小島のように孤立しており、周囲の建造物へ一度の跳躍で移れる距離ではない。一度地面に降りて走り、走る必要がある。
しかし、モドキたちはけっこう速い。集まってくるときに気づいたことだが、走る速度は個体差がある。男のモドキにはすぐ追いつかれるだろう。
(何か方法はないか?)
彼は救いを求めるように周囲を見回したが利用できるものはない。
自分の体と服、あとは魔法で火をつけることくらいだ。
(こいつらに火をつけたら燃えるか?無理だよな……いや、待て。煙だ!)
彼は上着を脱ぐと魔法で小さな炎を出して近づけた。
勢いよくは燃えないが、黒い煙が出てくる。
彼は念力でその煙を集め、空中で操作した。
小石ほどの重さしか動かせない世界最弱の念力だが、煙なら操れる。
(普通の魔法使いならこんなの空を飛んで終わりなのに……)
彼は自分の才能のなさにうんざりしながら煙をモドキたちの方へ送り出し、彼らを包む。この煙幕で彼らの視覚を塞いだのではないかと期待した。
彼は助走をつけて「箱」から飛び降り、煙幕を振り返った。
モドキは煙の中から出てこない。
よし、と彼は心の中で叫んで走り出した。
(俺の知恵も捨てたもんじゃないな!)
彼は自分を褒め、最も近い建物に向かう。
その時、不運なことが起きた。
強風が吹いたのだ。
彼はわかっていても振り返らずにはいられなかった。
煙幕はかき消え、モドキたちは箱の上からいなくなった人間を探している。
一匹が彼を見つけた。
「ぎししいくくくおおああ」
その声に言語の意味があるのか、残りのモドキたちも彼に気づいた。
彼は生涯最速と断言できる速さで走る。
複数の呻き声が徐々に近づき、1体の声が真後ろまで接近した。
背中に指が当たるのを感じた。
彼は単純に怖かった。
この世界でも最弱の人間として終わるくらいなら死のうと思っていたが、こいつらに捕まったら楽に死ねないと確信している。そんな死に方をするために寿命の半分を悪魔に差し出したわけではない。
彼は用途不明の青い建物に向かって走り、地面を蹴って雨除けの上に跳び上がる。そこからさらに真上にまた跳んだ。屋根の縁に手をかけ、そのまま体を屋上に引き上げることに成功した。
屋上にモドキが大勢いた。彼はそんな光景を一瞬想像したが、幸いにもそんな事実はなかった。下からは意味不明なうめき声がいくつも聞こえてくる。彼は見下ろすことなどせず、すぐに隣の建物に飛び移り、そこから5件ほど建物を移動した。恐怖がそうさせた。
自分と同じ跳躍力を持つモドキが屋根を走ってくることなどない。そう自分に言い聞かせるのにしばらく時間がかかったが、彼はようやく一軒の屋根の上で落ち着きを取り戻した。屋根に上がるときに肘を打ったが少し腫れているだけだ
「死ぬかと思った……」
彼は手の上に小さな水球を作り出してのどを潤した。がぶ飲みしたいくらいだったが、彼の魔法では少しずつしか水を創れない。それでも何度か繰り返すと喉の渇きは止まった。この魔法があるかぎり水に不自由はしない。
しかし、食べ物は別だ。
彼は空腹を感じ始め、食料を探す必要に迫られた。
食料はどこかの建物に残っているのだろうかと彼は考える。
生鮮食品はすべて腐っているだろうが、塩漬けにしたり乾燥させた保存食がどこかにあると思いたかった。
だが、食料を探す前にすべきことがあった。
モドキの習性を調べることだ。やつらは人間の姿を見ただけで襲い掛かってくるのか。それとも音や動きに反応して襲ってくるのか。どの建物を探索するにしろモドキたちの回避法を見つける必要があった。
彼は足を滑らせないように気をつけながら屋根を飛び移り、モドキを探す。
そして一体の女モドキが民家の入り口に立っているのを発見した。
その真上に移動すると再び服の一部を燃やして煙を作り、それを真下にいるモドキの前でゆっくり動かして反応を見た。
「ぐ……ぎ……ぐえ……」
反応はしている。
しかし、少し目で追いかけた後に興味を失った。
彼はこれを意外に思った。
次は煙を動物の形にして動かしてみる。
「ぎしゃうあああえおおお」
(おお、反応した!)
モドキは空中の獲物を捕らえようとし、空気をつかむ空しい動作を繰り返す。
彼はそれを見ながらモドキの習性を考える。
動くものならなんでも襲い掛かるわけではなく、生物かどうかを目で確認している。しかし、それなら自分を襲ってきたのに仲間を襲わないのはなぜか。人間と同族と区別する何かがあるのでは。
(匂いか?)
彼はシャツの一部を千切ってモドキのそばに落としてみた。
案の定、そいつは強い興味を示し、その布を噛みながら周囲を探り始めた。
(匂いと姿の両方を誤魔化せば襲ってこない……か?)
彼は一度試すことにした。
モドキから少し離れた場所に下りると煙で自分の体を覆い、目の部分だけ煙を薄くしてぎりぎりの視界を確保する。
この状態なら姿は見えないし、煙の匂いで誤魔化せるのでは。
彼はそう期待した。
「……おい」
小さい声で呼ぶとモドキはすぐに振り向いた。
やはり音には敏感に反応する。
彼は襲い掛かってくる場合に備えていつでも跳躍できる体勢をとる。
「し……ぎしゃ……」
モドキは煙の要塞を見る。
彼は自分の心臓が高鳴る音を聞きながら相手を観察する。
少し動いてみるとモドキは目で追った。
(落ち着け。まだ襲ってくるわけじゃない……)
彼はいつでも高い場所へ避難できるよう身構えつつ、じりじりと横へ移動する。
モドキのそばを横切ってみるが襲ってくる様子はない。
ここで彼は煙の要塞から手を外に出してみた。
少ししてモドキが鼻をスンと鳴らした。
「しぎしゃえくえええええ」
モドキは走り出し、彼は即座に屋根の上へ避難した。
それから彼は数匹のモドキで似た実験をして確信した。
煙の要塞から体を出さない限り、そして音を立てない限りモドキは襲ってこない。
彼はモドキ対策に自信を持ち、保存食が置いてありそうな店を探すことにした。
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