第6話「あの日の約束」

01「あの日の約束」

 わたしは救護室の近くを通り過ぎると走り出した。服に着替えない。そんなことをしていたら、恭ちゃんに追いつかれる。走っていると履いていたサンダルが何度も脱げそうになった。それでも走り続けた。


 目的の場所に行く前に通ることになった上根家で自分が部屋として使っていたところまでいき、身近にあった上着を掴み取る。それを上から羽織って庭へと出て行く。

 森の入り口に立ち、深くまで広がる緑を見つめる。恭ちゃんがいつも神様と会っていた場所。ここならきっと会えるはずだ。


 自分の体を改めて見る。五年前と何も変わらない。五年も経ったというのに。妹だったわたしはそれを気にしながらも疑問に思わなかった。お兄ちゃんがいてくれるなら別にいいと思っていたのは妹のわたしも彼に恋をしていたのだろう。


 藤崎穂乃華としての記憶と妹として過ごした五年間の記憶が今のわたしにある。そして思い出したのだ。あのとき、わたしが恭ちゃんに救われた時のことを。


 その時だけ止音という神様を見た気がする。意識が朦朧とし、目がかすんでいてはっきりとわからなかったけど、銀髪の少女であることはなんとなくわかった。


 森の中へと一歩踏み出した。


「止音! いるんでしょ! シオン!」


 神様は恭ちゃんのように神音の血を引くものじゃないと見えないし、声を聞くこともできない。それを知っていたとしてもわたしにはそうするしかなかった。


「止音、お願い……姿を見せて」


 がくりと膝を落としたわたしは空を見上げた。そうしないと溢れてきたものが頬に流れてしまいそうだったから。


「泣かなくてもここにいるわよ、ホノカ」


「えっ? なんで」


 木に寄りかかる銀髪の少女がいたのだ。初めて見る神はわたしと変わらない小さな少女だった。それなのに何か偉そうだ。


「さて、なんででしょうね。それよりもあたしに用事があるんでしょ?」


「あ……あの、お願いがあるんです。神様であるあなたに」


「聞きましょう」


 ゆっくりとわたしへと歩いてきた神様は目の前で立ち止まる。わたしは立ち上がってお願いした。


「わたしの時間を動かしてください。恭ちゃんが捧げたものを返してあげてほしいんです」


「願いの解呪、か。まぁできるわ。あなたに強い願いがあれば」


「あります」


「いいの? あなたは死ぬかもしれないよ」


「いいんです。覚悟はできています」


 あの時の痛みをまた味わうのは怖い。痛くて、苦しくて、力が入らなくて。抜けていく何かが自分の命であると本能的に知り、これが死んでいくことと悟ったあの瞬間を。


「いい目をしてるわ。さすがあのキョウジが惚れた女ね」


 ふふっと微笑む彼女は初対面だというのに馴れ馴れしい。


「止音、茶化さないでほしいの」


「茶化してなんかない。ただの時間稼ぎよ。あなた、自分が助かることをまったく考えてないんだもの。ちょっとくらい可能性を広げようかと」


「別に助かろうとは思ってない。本当なら五年前になくなっていた命だもの。ここまで延命できただけで幸せなの」


「嘘が下手なのね」


「わたし、嘘なんて――」


「そんなに震えているのに? 死ぬという恐怖に、失いたくない人を置いて逝ってしまうことが悔しいと思っているのに。違うというの? その震えはそうじゃない、と」


 言われて気づく。自分の膝がガクガクと震え、立っているのがやっとのことに。


「あたしとしてもこれでいいのかは迷ってる。いつかこういう日が来ることも予想はしてた。だから、もう一度聞くわ。本当にいいのね?」


「はい……!」


「わかった」


 神様の気持ちを自分が決定してしまった。その感覚、感触のようなものが感じられた。


「クロノスに属する神の名、止音を以って。この者の願いよって、かの者の願いの解呪とせん」


 全身の力が抜けていき、よろよろと後ろに下がり、木にぶつかってしまう。


 もう後戻りはできない。今になって止まったままで良かったんじゃないか、と思う。


「さぁ始まるわよ。夏の終わりがね」


 島の温度が急激に下がっていく。吐く息が白くなり、空からは雪が降り始めた。


「あ、あ……」


 徐々に力が入らなくなってくる。あと十分で負っていた傷が再現される。そのことを考えただけなのに、立ち上がれない。


「そこにいるといいわ。きっとあなたの恋人が助けてくれるから」


 わたしの恋人、恭ちゃん。せっかくの再会だったのに素っ気無かったな。自分のしてしまったことを後悔する。


 彼なら助けてくれる。そう信じている。だってわたしの耳に、


「穂乃華!」


 今一番聞きたい人の声が届いた。






 混乱しながらも俺は上根邸、自分の家の近くまで来ていたことに驚いていた。雪が降り出した瞬間に冷静さを取り戻した俺は携帯電話で連絡をとりながら森へと入っていく。


 海パンで裸足という状態で森に入ったために枝で肌が切れたり、足の裏に刺さったりと痛みを感じながらも奥へと進む。


 走っている俺の口から出る息は白く、寒さが身を刺すように痛い。


「穂乃華!」


 木によりかかる彼女はガクガクと膝を震わせ、恐怖に怯える瞳で訴える。


「恭ちゃん、わたし死にたくない! やっぱり怖いよ!」


「大丈夫だ」


 駆け寄った俺は彼女を抱きしめる。体は冷え切っているが触れ合っている肌が温かさを持ち始める。


「意外と早かったわね。まぁ、その様子だとちゃんと手は打ったのね」


 冷静な止音の声を聞いて、彼女がいることに気づく。そうか、穂乃華ばかり見ていたからそばにいたのに視界に入らなかった。


「ああ、当たり前だろ。五年で色々やってきたんだからな。ほら行くぞ、穂乃華。時間がない」


 手を引っ張って歩き出そうとするが彼女の異変に気づく。腰が抜けているのだ。


「仕方ねぇなぁ」


 彼女をお姫様抱っこで抱き上げて森の外を目指す。


「わっ、あ……恭ちゃん」


 最初は驚いたものの安心した表情を見せる。


「がんばりなさい。ホノカ」


「止音?」


 穂乃華と止音が会話している。それは通常ありえないこと。もし本当にそうなら、止音は俺たちのために……


 いや、今は穂乃華のことを優先しよう。


「恭ちゃん、わたし……生きていられるかな」


「俺が助けてやる。五年前とは違う。神に頼らず、救ってみせる」


 そのためにすでに電話して救急車を呼んでいるのだ。あと三分もすれば家に到着するだろう。傷が再現されるリミットまであと五分はあるはずだ。すでに左頬の傷は開いている。


「ごめんね。わたし、恭ちゃんに迷惑ばかりかけて」


 涙をぬぐう彼女を抱えながら森の入り口を抜ける。


「迷惑だなんて思ったことない。俺にとってお前は心から大切な存在だ。すべてを変えてくれた。俺すら気づかないところで支えてくれた。その恩返しさ」


「恭ちゃん……ありがとう」


 笑顔になった穂乃華。俺もつられて微笑む。


 が、彼女の体はビクンっと大きくはねた。落としそうになったが、なんとか堪えた。


「ごほっ! が、かはっ、はっ! は……」


 口から血を吐き出し、左のわき腹に深い傷が現れ、頭からも血が流れる。内臓もかなりのダメージを受けているはずだ。彼女が羽織っていた上着は真っ赤に染まっている。


「くそっ! 早い……」


 止音から時間を詳しく聞いていたはずだったのに。もしかしたら神であるあいつも少し時間を遅く見積もっていたんじゃないだろうか。俺たちについていたとはいえ、すべてが正確であるとは限らない。


「きょ、う……ちゃ……ん」


 ヒューヒューと吸う息が苦しそうだ。肺に何らかの損傷があるのかもしれない。


「しゃべんな! もうしゃべんな!」


 門を出るとちょうどやってきた救急車に乗せる。


 穂乃華の状態に動揺することのない救急隊員は的確な指示と処置をしていく。俺も付き添いで乗り込み、酸素マスクを口にかぶせられた彼女の手を握る。


 ここから海老名市の病院までは隊員たちの話を聞くと八分程度らしい。


「助かりますか!」


「我々はそんな助かるかどうかなんて考えません。絶対に助ける、それだけです。助からないなんて信じない。命をあきらめない。それが我々です。それにあなたが作ったこのシステムですでに何度も救ってきていますから」


 なんと心強い言葉だろう。なんとしてでも救うという決意がビンビンと伝わってくる。


 五年前はあの事故では救急車すら入ることができなかった。今は違う。今ならきっと穂乃華を救える。


 それに俺のせいで彼女に辛い決断をさせてしまった。死の恐怖をまた味あわせる結果になった。それをきちんと謝ろう。そうできると信じている。


 あんなにも止まっていた日々の中で迷っていたのに、動き出してみればあっさりと心は決まっていた。


 動いてしまえば穂乃華は助からないかもしれない。そんな後ろ向きな考えから動いてしまうと助けることしか考えなくなっていた。


 こうなったのは必然かもしれない。けど、誰が悪いわけでもない。そもそも悪いわけではない。彼女は苦しいけど、痛いけど、俺にできることは励ますことくらいだから。


「がんばれ、穂乃華」


 ぎゅっともう片方の手を重ね、両手で彼女の手を包んだ。


 助かりますようにと神に祈りながら。

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