03「眼に映るもの」
「……いい加減出てきたらどうだ、シオン」
悠里の姿が見えなくなってから少し大きめで怒気を含んだ声で呼びかける。
「つまんない。いつから気づいていたの?」
気の後ろから現れたシオンは「はぁ~」と深いため息をついた。視線を下にして落ちている石を蹴るような仕草をしてつまんないとアピールしてくる。
あれで隠れているつもりだったのだろうか。ちらちらと木の陰から俺たちの様子を伺っていた。俺から見える位置で。悠里も気づいていたんじゃないだろうか。
「事故の話をするくらいからいただろ?」
「そうだけど、そんなにわかりやすいかなぁ」
あれでわからないほうが逆におかしい。となるとやっぱ悠里も気づいていたんだろう。本当に用件のみ果たしに来たみたいだ。
「それにしてもお前ら付き合い、長いんだな。全然知らなかった」
「そりゃ知らなくて当然。キョウジには何も言ってなかった。言ったところで仕方のないことだし、事故のことを思い出させないための努力を潰すつもりもなかったから」
優しい表情をするシオン。彼女は彼女なりに考えてくれていたのはわかっている。
「まぁその気遣いには感謝する。でな、ちょっと聞きたいんだがいいか?」
「いいわよ」
余裕に満ちた表情からして何を質問されるかがわかっているみたいだ。あの流れからして同然の疑問だから、当たり前といえばそうなる。
「あの悠里の眼はなんだ?」
俺の中の知識では説明がつかない。しかし、シオンなら知っているはず。
「そうね……眼には色々存在するでしょ? 中世のヨーロッパにあった『不現の瞳』とか、心を読める『写し見の眼』とか特異的な力を持つもの。幽霊とか神とかそういう普通には見えないものを視る眼とか」
「ああ、邪眼とか心眼とかは聞いたことある」
今この世界にあるかないか、使える人間がいるかどうかは別として眼にそういうものがあるのは本やネットで得た程度はあった。
「眼は見えなくてもいいものは見ないようにできている。それを超えて視たり、力を得てしまう人間はもちろんいる。種類はたくさんあるけど、もしそれらすべてを使える眼があるとすれば?」
「ありえないだろ。そんなもの」
あってたまるかと思うが、確信めいた言い方と真剣な表情で冗談でもなんでもないことがすぐに伝わってくる。だが、そうだと認めたくもなった。
「『神の眼』」
ぽつりと小さく放った言葉なのに大きく響いて聞こえた。
「通常、神の眼は『神なる視点』と理解されるの。キョウジはそれを知っているよね」
シオンが確か数年前にした話だ。神なる視点は簡単に言うと、街を作るゲームのように世界を上から見た視点のこと。天上から見守る存在としての視点を神なる視点と呼ぶ。
「そんなものは本当に神の間でしか言われないし、人間には宇宙でも行かない限り見えない視点。だから人間から見た『神の眼』はね、世界のあらゆるものを視ることができて、思えばあらゆる力を行使できる瞳のことを言うの」
すべてを見通す眼。あの世もこの世も見てしまい、幽霊どころか精霊とかそういうものも捉えて視てしまう眼。
「でも本当のことを言えば、ユウリの眼は『神の眼』じゃない。そんなもの存在しないもの。この世界にはね」
まるでこの世界以外には存在しているかもしれない、という含みをもたせた言い方だ。
シオンの言いたいことはわかる。もしそんな眼があれば世界を征服するとか夢見たいなこともできるのだ。『ありとあらゆる力を持ち、すべてを視る眼』なのだから。
「でもあの眼が特別なのは言うまでもない」
「そうだろうな」
「あれは彼女がそれぞれの視点に眼のチャンネルを自動的に合わせているだけだから。幻惑を見せたり、物を壊す線が視えたりはしない」
「なるほどな、そういうのに特化した眼か」
視える対象にピントを合わせる眼。
「今はね。だから人に合わせれば、その人の少し前の行動が視えることもある」
きちんと合わせればそんなことも可能になる眼。今は、と言ったのが少し気になる。
それにしてもその眼に名前が存在するのか、しないのか。そこはわからない。とにかく特別な眼であることは言うまでもない。
恭二はふとあのときの悠里の行動を思い出すが、今はその辺に置いておく。
「やっぱり委員長がそうなったのは」
「うん、きっかけはあたしを視たから」
「ま、そうだろうな」
おそらく空間が歪んでいたのか、隙間を見るように悠里はシオンを見つけ、視てしまったのだろう。そうでなければ後天的に身につかない。
「だからかシオンが見えたのか。てっきり神音の当主の資格保持者だけだと思っていたんだが、そんな裏技があったなんてな」
不思議だった矢部悠里の行動も今となれば色々と納得できる。
「ちなみにキョウジとユウリでは見ている原理が違う」
「そうなのか?」
視えているなら同じと思っている部分があったので気づけば少し驚いた声をあげていた。
「視えているから話せるのか、話せるから視えるのか。そういう違い」
「なるほどな」
そう言われると直感的に理解できる。
「もっと早く話していればよかったかな?」
「いや、そんなことない」
それでもいつかは聞くことになったのだろう。あそこで出会っている以上、交わらない運命ではなかった。先輩もそう、悠里もそう。
どうやら俺は視なければならないらしい。理想を映した夢より覚めて、現実を。
五年前の八月二十一日。俺とあいつは海老名市のショッピングモールに行くことになっていた。今日は二人ではなく、親も一緒である。それは別に構わないことだ。
海での事件で一時はギクシャクした俺たち。引力のように惹かれあう心は止めることはできず、あいつからの告白で恋人として付き合うようになっていた。親も公認なのでよくネタにされて親父とかにもからかわれる。
このときに気づかなかったが、俺は彼女と付き合い始めてから性格がまるくなっていた。以前の上根恭二なら親父の言葉でも怒っていただろう。やめろよ~と追い回すような平和的な雰囲気はできなかったはずだ。
約束の時間が迫っているというのに俺とあいつは島を遊びまわっていた。夏休みであることもあったが、そうじゃなくても遊び倒していた。俺たちは宿題を七月中に終わらせている。そこそこ勉強ができる二人が集まればすぐにできてしまうのだ。
あいつは俺に「なにがそこそこよ」とキレ気味にどれだけ自分の頭がいいのかを語ってくれた。しかし、今の俺にはこの少女と一緒にいられるだけで他はどうでもよかった。
初めて人を好きになったということで浮かれている俺は周りなんて見えていなかった。俺とあいつ、それだけで世界は充分だと思っていた。
俺が世界の中心で、俺が物語の主人公で、世界は俺のためにあるんだとさえ感じていたのだ。
世界は変わらない。世界は誰のためにあるわけでもない。誰かのために世界があるわけじゃないと知らなかった俺は傲慢にこの世界を生きていた。
すべてはまだ気づかないまま、知らないまま、運命の時間へと歩いていく。
何も知らずにいた俺は本当に幸せだった。今の俺から見てもそう思う。好きな人のそばにいて、好きだという気持ちに酔っている自分に酔いしれて。
『知らないことは罪である。しかし、同時に幸せである』
自分達がこうして恋愛に溺れている時、毎日起こる争いで傷ついている人がいる。食べられるということの大事さを知らない俺たちは、砂漠の大地で食べることですら叶わない人の食べたい執念を知らない。それを知らないでいると幸せだ。
知ってしまうと何かをする度にそれを思い、心を痛めてしまう優しい人もいるから。
「ねぇ、恭ちゃん」
海岸沿いのコンクリート塀の上に立ったまま、笑顔で顔だけを向けてくる。
「これからもずっと一緒だよね」
「はぁ……何言ってやがる。当たり前だ。俺がずっとそばでお前を守り続けてやるさ」
今更何を聞いているんだとため息をついてから言ってやった。
「それを約束する。病気になったら治るまで看病してやるし、何かを思い出せない時は俺が思い出すまでそばにいてやる」
「ありがと」
満面の笑みを浮かべて塀から飛び降りた彼女はその立ち上がる勢いで俺の唇を奪う。
「……お前な」
見た目以上に積極的な奴だ、と言おうとしたが彼女は微笑んだままで俺の隣を通り抜けていく。
「行こ、お父さんたちが待ってる」
確かに出発の時間が迫っていた。一瞬呆気に取られたが「やれやれ」とつぶやいてから先に行く彼女を追って走りだす。
「なんとか間に合ったね」
車に乗り込み、海老名市へと向かう。
夏峰橋へと差し掛かる。時刻は八月二十一日午後四時三十分。
事故まであと、八分。
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