第3話「夢と理想と現実と」

01「溺愛と愛」

 冬休みとは短いものだ。たった二週間ほどの休みでは休んだ気にならない。いっそのこと一月いっぱい休みにしてくれればいいのに。


 自室の床で突っ伏し、妹にかかと落としされたみぞおちをさすりながら思った。相変わらずやることに関してはためらい、やったあとは謝ってばかり。無理なことを頼んでいるのはわかっている。俺だって毎朝これはきついし、正直な気持ちを言うと嫌だ。


「でも、やらなきゃな」


 何度も自分に言い聞かせる。迷わないために、起点であることを忘れないために。夢からはいつか覚めなきゃならない。日は昇り、夜はまた明けていく。


 そのとき、俺がちゃんと正しく進めるように。


「行くか」


 制服に着替えて朝食を済ませたあと、家を出た。年を明けても真夏なのは変わらず、暑さばかりが身にしみる。


 そういえば、あいつは暑いのが好きだった。


 行動的な彼女は家で暇をつぶす俺を連れ出しては島のあらゆるところに連れて行かれた。夏峰山で紙飛行機を飛ばしたり、海岸で泳いだり、海老名市で買い物したり、ほとんど毎日遊んでいた。


 そうしているうちに俺は彼女に好きだと言うようになっていった。思ったことを口に出すタイプの俺だから自分的には本気だった。ま、冗談だと思われていたけど。


 それでも最初の頃は顔を真っ赤にしていた。あまり言うもんじゃないと気づいたのは彼女の反応が薄くなったから。あれは失敗したと思った。


「子供だったなぁ、俺」


「どうしたの? お兄ちゃん」


 隣を見ると不思議そうに妹が見上げていた。思わず口から出ていたみたいだ。かと言って取り繕うようなことはしない。


「ああ、ちょっと卑猥なことを思い出して、俺も子供だったなと若気の至りを悔いていた」


「うぁ~美夏なんかに言ったら『セクハラだぁ~』って殴られるくらいヤバイ発言」


 あはは~と笑顔でごまかしながら徐々に俺と距離を開いていく。言っている本人も身に危険を感じているらしい。しまった、俺としたことが。


「あー我が妹よ。そこまで引くようなことはしたことないぞ。ただ海岸に落ちていたそういう類の本をさほど仲もよくない友達の机に忍ばせただけだ」


「どうなったの?」


「見つけた瞬間、椅子ごと後ろにこけた。ウブだったなぁ、あいつ」


「ほん~とにひどいよね、お兄ちゃんって」


 未だに張り付いた笑顔をしたままだが、距離だけは戻してくれた。特にプラスになるようなことを言ってないのに、妹の好意に少し涙が出そうになった。


「あ、な、なんで目じりをぬぐってるの? ほの、悪い子とした?」


 俺が愛しのマイシスターに感動しているのを勘違いして心配してくれた優しい少女は不安そうな目をして上目遣いで見てくる。それはもう生まれたばかりの震える小鹿のように。


 ああ、可愛い!


「ボク、今ものすごい光景を目にしている気がする」


 その柑橘類と思われる少女の声に気づいた俺たちは後ろに立つ人物に視線を向ける。まるでこの世界の終わりを見ましたといわんばかりの驚きの表情だ。


「それはどういうことだ、蜜柑よ」


「だって穂乃が先輩を泣かしているなんて、天と地がひっくり返るよりありえないじゃないですか。シスコンのダメな兄についに愛想をつかせたんですね。そうですよね~、穂乃は勉強もトップクラス、運動は何をやらせてもそつなくこなします。弱点はもう身長だけだからね。何をやらせてもダメな人のお世話にはもう嫌になったから本当のことを言ってしまって、先輩はショックを受けて泣き出したってことですね!」


 もはや蜜柑と呼ばれたことにツッコミを入れる余裕さえないようだ。壮絶な勘違いをしているが、そのあとの例えにはちょっとムカっと来た。


「身長は関係ないでしょ。美夏はちょっとほののこと見くびっている。大人ですよ、ほの。お望みならここで服をすべて脱いでアピールするもん!」


 そして、いきなり自分のブラウスのボタンをはずし始めた。


「だぁあーーー! 待った、待った!」


「ごめん! 穂乃、ごめん! ボクが悪かったから!」


 俺と蜜柑は暴走する妹を必死に止める。なんとか思いとどまってくれたが、表情は不満そうで口をとがらせ、無言になってしまう。


 我が妹は身長のことだけじゃなく、バカにされたりするとこんな風にやけになって暴走してしまうのだ。本人が何かと口うるさい性格なので反動なのかもしれない。


「それにお兄ちゃんをダメとか言わないで」


「おぉ……」


 妹の言葉にまた感動してしまう。前かがみで手の甲で涙をぬぐう。


「本当のことだから言ったらお兄ちゃんが可哀想でしょ」


 後ろから槍で心臓を貫かれたような衝撃を受けて、そのまま前に倒れこむ。熱いアスファルトの上でじりじりと焼かれる感覚に襲われているが、動きたくない。


 俺に対する妹の愛はありませんでした。


「ここまでダメージを受ける先輩も見たことないですよ」


 チョンチョンっと背中を指でつつく蜜柑。そんなことするくらいなら少しくらい労われよ、おい。


「どうしたの? ほの、お兄ちゃんに悪いこと言った?」


「いや、言ってない。言ってない」


 腕だけを動かしてぶんぶんと振って否定する。素直すぎる妹は厳しいことも、その人の痛いところをつくような言葉も平気で言う。そこに悪気がないので、責めるわけにも行かず、俺としても扱いきれないのが現状である。


 親友の蜜柑でもダメだし、誰も掌握することはできない存在なのだ。ある意味、俺より危険な人物だと思ったほうがいい。


「あのぉ、そろそろ学園に行かないと遅刻しますよ」


「そうだな、そうだよな」


 ゆっくりとした動きで体を立たせていく。ポンプでふくらまされるように徐々に立ち直っていくように。


「じゃ行こ、二人とも」


 先頭を切って歩く妹を追って俺と蜜柑も歩き出す。


 顔がヒリヒリするけど、こうしてちょっとした寸劇コントを終えたのだった。






 妹たちと別れて自分の教室へと向かっていると一点を見つめ続ける矢部悠里が廊下に立っていた。


「やっほ、委員長」


 その視線に正面に割り込む形で挨拶してみると、


「ん、邪魔」


 ストレートな言葉が返ってきた。


「すまん」


 あまりにもマジなトーンだったので反射的に謝ってしまう。体を彼女の視線からはずしながら、見つめている先を確認する。


 しかしそこには天井があるだけで何もない。模様でも観察しているのか、と考えたがすぐに別のことに思い当たった。


 彼女はシオンが見えている。それがこれと関係あるのかもしれない。


「なぁ、委員長。何を見ているんだ」


「そこの天井から逆さに吊るされている女子生徒と会話してる」


「……マジかよ」


 そんな返答が返ってくるとは思わず、ドン引きしてしまう。不思議系、電波な少女と思っていたがここまでぶっ飛んでいたとは。


 いや、彼女にはそれが『視えている』のか。


「視線に入ると気になるから」


「そら気になるだろうな。天井から吊り下がっていたら」


「うん。だから放っておいて。まだ話の途中」


「あぁ、それは悪かった」


 ここは素直に引くべきと判断し、恭二は教室へと入る。なんとなくだが、矢部悠里が特別なのはわかった気がする。


 視えるなら認識できる。認識できるなら会話が出来る。チャンネルが合えば可能となる。その調整をしているのは眼。


「いつきちんと話してくれるのかな、シオンは」


 下手をすればきちんと説明がされないままの可能性がある。今すぐ知りたいモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、自分の席につくのだった。






 新学期が始まって一週間過ぎたある日、俺は一人で学園へ向かっていた。この道を一人で歩くのはひさしぶりだ。


 通学バスが自分を追い抜いていく。学園行きの停留所は過ぎているから、あのバスは島を回って海老名市に戻ることになるだろう。


「あれぇ? 今日は先輩一人ですか」


 後ろから追いついてきた蜜柑が俺の隣に並ぶ。さっきのバスに乗っていたみたいだ。


「一人だよ。生憎妹は風邪で寝込んでいるんだ。本当なら一日中片時もそばを離れず、あいつの看病をしたいのに。くそ、涙目で『学園には行って、お願い』なんて言うから行くしかなくなった。うぉおーーー! 今すぐにでも帰りたい! しかし、帰れば絶対に責められる。どうすればいいんだ!」


 頭を抱えて叫ぶ俺を蜜柑は引きつった表情で体をのけぞらせて避ける。


「うわぁーなんですか、このシスコン。なんかこの人すでに法律的に引っかかっているんじゃないのかな。興味の対象が自分の妹にだけってかなり危ない人じゃないですか。い、今更気づきました! あ、あぁ……ほ、穂乃の身が超絶に危ないです!」


「待て、この早とちり娘」


 上根家に向かって走り出そうとした彼女の肩をつかむ。


「んく?」


 振り向いた彼女は何も知らない無垢な少女のような可愛い戸惑いを見せる。普通の男子なら一発で恋というものに落ちただろうが、俺は違う。


「お前は何か勘違いしていると思う」


「えーっと……ボクは何をどう勘違いしているのでしょうか」


 首を横にひねってから俺のほうへと向き直る。


「お前は俺が妹を溺愛しすぎているシスコン野郎だと思っているだろう?」


「え、あ、はい」


 この少女も意外とはっきりいうタイプである。妹と蜜柑、基本は大人しい性格と明るく騒がしい性格と対極的だ。それでも似ているところはさっきのように少しある。

似たもの同士だからこそ親友になれたのかもしれない。


「俺はな、蜜柑」


「ボクは柑橘類じゃないです」


 話の腰を折られてしまった。彼女の困った表情を見ていると、本能的に俺が言うことが聞いてはいけないものだと思っての行動かもしれないと思う。


「俺は本気で好きなんだよ。いや、違うな。愛しているんだ」


「え、ボクをですか?」


 壮絶な勘違いであるが、青ざめた表情を見るとわざとそうしているとわかった。彼女は俺の言葉を受け入れたくないようだ。まぁ、当たり前か。


「違う。あいつのことを愛しているんだ。一人の女の子として愛している」


「っ!」


 バっと肩にあった俺の手をほどいた蜜柑はバックステップを踏み、後ろへと下がる。その反動で俯いた彼女がゆっくりと視線をあげていく。


 俺を睨み付けながら。


「ありえないです。妹を好きになったなんて……」


「好きじゃなくて、愛しているんだ。そこが違うぞ」


「そういう問題じゃありません!」


 蜜柑の大きな叫びは通学する他の生徒の注目も集めていた。そんなことを気にしてない、いや気にする余裕のない彼女の目はさらにきつくなった。


「女の子を好きになるのはわかります。でも、なんで穂乃なんですか! 妹をそんな対象で見ていたなんて、ただの変態じゃないですか!」


 ひどい言われようである。彼女の主観から見ればそう思うのだから否定のしようはない。


「……なぁ、お前に何をわかった気になっているんだよ。俺のこの気持ちがわかるのか、それともあいつの気持ちがわかるのか? 違うだろ、蜜柑。お前は常識から見て、認めたくないものを否定しているだけだ」


「それの何が悪いって言うんですか! ボクはこの意見が正論だと信じています!」


「常識は統計学だ。総合的な結果から判断し、その中立なものを正しいものと定めているだけのこと。その常識が世の中では正しいとして、それは個人に対しても正しいとは限らないだろ。それに今の蜜柑が基準としている常識は本当に正しいのか?」


 ヒートアップしていく彼女と対照的に俺は冷めていた。だからこそ彼女は熱くなっているのだろう。


「そんな哲学的なことを言って論破できると思ったら大間違いです。ボクは穂乃の親友です。親友を思うからこそ、穂乃の幸せを思うからこそ、言っているんです! 常識、常識って言ってますけど、ボクがさっき常識を盾にして言いましたか? ボクはボクの思う正しいことを信じて言っているんです!」


 ああ、確かにそうだと気づく。冷静であると思いながら、俺は熱くなっていたようだ。彼女が言っているのは世間的な常識からだろうと勝手に思い込んでいた。


 けど蜜柑は純粋に友達のことを思って発言した。それがわかった今、俺はこんな状況でありながら、この伊坂美夏という人物を見直してしまったのだ。


「お前は本当にいい奴だな」


「こんなときになんですか。ボクは真剣に言っているんですよ!」


「俺だって本気だよ。誰かにどう思われようと、誰かから責められたとしてもこの想いを曲げることは絶対ない」


 ぐっと睨み付けた俺に半歩後ろに引いてしまった彼女は視線をそらす。


「妹は幸せだな。美夏のような親友を持って」


 なんとか俺に視線を戻したが、美夏は何か動揺しているように瞳が揺れていた。さきほどまであった強い決意に満ちた眼差しが失われていた。


「……せん、ぱい」


「蜜柑なんて呼んで悪かったな。すまなかった」


 頭を下げた俺は彼女から放たれる迷いを感じた。こうして謝ることは滅多にないし、彼女自身も謝られるなんて思ってなかったのだろう。


 そんな空気の中で頭をあげて、迷い始めてしまっている少女を見る。


「美夏、自分が正しいと思うならそれを貫き通せ。それが『信念』というものだ。自分が自分を疑っては誰が自分の正しさを説明する? 自分しかないだろう。自分を疑うな。人は他人にはなれない。人は人でしかない。なら、信じろ。俺に言われたからとって曲げる必要はない。美夏が正しくて、俺が間違っていると思うならそれを信じ続けろ」


 諭されると思ってなかった少女は聞きながら言われていることを理解していく。


「俺はあいつへの想いを信じて貫き続ける。決して疑わない。これが俺だからな」


「ボ、クは……穂乃、の親友」


 少しずつ瞳に光が宿り、目に力が戻っていく。


「もう行くぞ」


 立ち尽くしたままの彼女を放って歩き出す。


「ボクはあなたの想いを理解できません!」


 力の戻った美夏の声に立ち止まる。背中を向けたまま、彼女の言葉を聞く。


「兄妹として踏み越えてはいけない一線を越えようとする人を見過ごして、不幸になる穂乃を見たくありません。だからボクはあなたの前に立ちます。覚悟してください」


 それを聞いて彼はまた歩き出す。いい友達を持ったな。恭二はそういう友達を作ってこなかった。そこだけは本当に羨ましく思った。

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