02「蜜柑事件」
その翌日、何やら騒がしい声で目を覚ました俺は意識が覚醒するまで天井を眺めていた。体を起こして耳を済ませると我が妹と誰かが会話しているようだ。時刻は午前十一時。基本的に学園のない日は妹に起こされることはない。それよりも本人はあの起こし方を嫌っているため、進んで起こさないのはいうまでもない。
優しい娘なのだ。本当に優しい。だからこそ俺も痛い。
ジャージに着替えた俺は軽く首を動かし、部屋を出る。聞こえてくる声をたどって居間に入ると客人が来ていたのかと気づいた。
「よ、今日も無駄に元気そうだな、蜜柑」
妹とじゃれていた彼女はその名を呼ばれてムッと来たようで口を尖らせた。
「美夏です! ボク、柑橘類じゃありません」
毎度のことであるが何度も繰り返してきたやりとり。出会うたびに繰り返し、日課としてはあまりにもやりすぎて、その度に互いがげんなりする。
「ねぇお兄ちゃん。前から聞きたかったんだけど、なんで蜜柑なの?」
下唇に人差し指を当てながら視線を上にあげて考えたあと、俺に聞いてくる。
「あれ? 言ってなかったけっか?」
思いつく限りの記憶を探ってみるが、確かに妹になぜ伊坂美夏が蜜柑であるかを語ったことはなかった。
「思い出すも涙、語るも涙。涙、涙の屈辱と後悔にまみれた思い出なんだよ~。穂乃、聞いてくれる? ひどいんだよ、先輩。あ~思い出してきたぁ~」
ツッコミを入れる隙もないスピードで言葉を発したあと頭を抱える蜜柑。そんなわけでどうやら俺がしゃべるしかないようだ。
「発狂しかけている柑橘娘は放置しておけば腐るから俺の話に耳を貸せ」
「お兄ちゃん、何気にひどいよね」
さすがの妹も苦笑いを浮かべる。ぶつぶつと部屋の隅で腐っている親友を思ってのことなのは言うまでもない。
「俺はいつでもひどいぞ。まぁあの人に比べれば天と地の差があるくらいマシなほうだ」
浮かぶのは邪悪に微笑む悪魔先輩。底知れない何かを抱えながら決してそれを外に出さない。恐ろしい人である。あれがかろうじて人であるのは認めたくはないが。
「さて、蜜柑のことについてだ。二人が出会って友達になってこの家に遊びに来るようになった頃の話なんだがな。用事があって海老名市内を歩いていたときのことだ」
「あれは……」
見覚えのある後ろ姿を見つける。
「確か伊坂さんだったか」
先日、妹から友達だと紹介されたばかりだ。島の出身でないから安心してはいるが、当の本人はどこか不安そうだった。
両手いっぱいに荷物を抱えているからだろうか。食材ばかり見えるのでお使いを頼まれたのかもしれない。見てみぬふりもできたが、妹のことも考えて声をかけてみることにした。
「あの、伊坂さん」
「えっ! あ、はい。あっ……穂乃華さんのお兄さん、こんにちは」
急に呼ばれたせいか、ビクッと体を震わせてからこちらへと振り返る。恭二であることがわかると安堵の表情を浮かべていた。
この時はまだ緊張していたのか、妙にたどたどしかった。彼女の本性がおしゃべりな所であると知るのはまだ少し先のこと。
「こんにちは。すごい量の荷物だけど」
「え、えぇ、ちょっと母に頼まれまして」
「さすがに重そうだから持つよ」
「い、いえ、いいですよ。悪いです」
「いいから」
拒否する動きすら取れないほどの彼女から買い物袋を何個か持ち上げる。重量が思ったよりあるが、日頃の筋トレのおかげでなんとかなりそうな重さだった。
「ぜ、全部ですかっ! それはさすがに」
「気にしなくてもいいって」
「すいません。ありがとうございます」
申し訳なさそうにする伊坂美夏の表情は今から考えるとレア物だった。
「家まで持っていくけど、どのあたり?」
「えっと、割りと近いですよ」
このまま彼女の家まで送ればそれで普通の思い出の一つとして数えられただろう。しかし、そういうわけにはいかなかった。
「あの角をまが、って……」
声のトーンが落ちて、全身が硬直したように美夏は止まってしまう。どうしたのだろうと恭二は彼女の視線の先を追うと三人の少女がこちらに向かって歩いてきていた。
「あ、う……」
声が詰まって出てこない美夏。
当時はいじめられていたらしく、そのリーダー格の少女とお付きの少女の二人と偶然にも遭遇してしまったのだ。
缶ジュースを片手に飲みながら談笑しつつ歩いているところを見ると本当にたまたまだったんだと今でも思う。
こちらに気づいた彼女達の興味は伊坂美夏よりもそばにいた男子に向けられた。だから、リーダー格と思われる少女の出会い頭の言葉がこれだった。
「ボーイフレンドを連れてるなんて、いいご身分ね」
「こ、この人はそんなんじゃ」
冷やかされることは恭二もわかっていたが、ここまでテンプレな絡みをしてくる人は初めてだった。まるで教科書とも言うべきである。
「ふーん、荷物を持ってもらって女王様の気分なのかしら」
「ちがっ」
「俺が無理矢理持たせてもらっただけだよ」
会話に割り込んで、美夏を隠すように一歩前に出る。
「あら、庇うってことはあなた……この子が好きなのですか?」
どこか自分のものを奪われるようなニュアンスに聞こえた。たぶん気のせいだろう。
「んや、妹の友達だからだけど」
「それだけで? 妹さんが大切だからこの子も大切ということですか? それにその妹さんも見る目ありませんね。この子を友達だなんて」
「妹の好みにケチをつけるのか?」
「ひっ!」
正直どんな表情をしていたかはわからない。話していたリーダー格の少女は顔をこわばらせただけだったが、お付きの少女の一人が恐怖から悲鳴をあげていた。
イライラしていたのはある。妹のことをバカにされるのはたまらなく許せない。
「ふ、ふんっ! 味方が増えたからっていい気分にならないことね」
「えっ、そんなこと少しも思ってない」
恭二をいじるとまずいことに気づいたリーダー格の少女はすぐに美夏へとターゲットを移した。
「どうだか。そうだ、あんたに飲み物をあげるわっ!」
そう言って飲みかけの缶ジュースを美夏に向けて投げつける。
「ハッ!」
カキンッと恭二のつま先がその缶ジュースを横から弾き飛ばし、アスファルトへと落ちた。予想していたのもあるが、少女達の間に距離があったので間に合った。
「えっ……」
人気の少ない住宅街のせいでやけに転がる缶の音は大きく聞こえた。とっさに両手で自分の顔をかばった美夏はもちろん、他の少女たちも何が起きたのか一瞬理解できなかった。
「け、蹴りで……そ、そんな偶然! よこしなさい!」
リーダー格の少女はお付きの少女から缶ジュースを奪い、再び美夏へと投げた。
「遅いっ!」
今度は下から蹴り上げる形で弾き飛ばす。高く上空へと投げ出された缶は中身を撒き散らす。
「そ、そんな」
「何度やっても同じだからやめたほうがいい」
二回も狙ってできれば偶然でないことは誰にでもわかる。もう一人の少女から奪えば、三回目も可能だが、結果は見えている。
そんな時、コンッと缶が何かに当たる音がした。嫌な予感がして恭二が振り返ると、頭に落ちてきてきた缶ジュースの中身を被った美夏がいたのだ。
「あ、やべっ……」
思わずそんな言葉が出たのは美夏から感じられるオーラのせいだった。妹が本気で怒った時と同じ雰囲気を肌で受け取る。
「も、もうがまんできない……!」
恭二の持っている買い物袋に手を突っ込む。そしてすぐに取り出したのは蜜柑の入った赤い網の袋だった。
「ボクの怒りをあじわぇえええっ!」
そう叫んだ美夏は赤い網を破ると蜜柑をリーダー格の少女に向かって全力で投げつけた。
「ふぎゃっ!」
見事顔面に命中する。潰れて中身が飛び散るほどの豪速球。火事場のクソ力だったのか、投げる才能があったのかは今でもわからない。
「目がぁ、目がぁ……!」
蜜柑の汁が目に入ったらしく、両手で顔を押さえて苦しむリーダー格の少女。
「よくもっ!」
お付きの少女たち二人が仇を取ろうと美夏へと走り出す。しかし、完全にキレてしまった美夏は彼女達にも遠慮なく蜜柑を全力で投げた。
見事に顔面を貫くように蜜柑がぶちあたり、同じように苦しみだす少女達。
「まだ蜜柑、あるよ……?」
そう言って、残っていた蜜柑を手にするとリーダー格の顔に押し付けてさらに追い打ちをかける。
「や、やめて、お、おねがい! お願いします!」
グリグリと蜜柑を押し付けられて許しを請うリーダー格の少女。言葉も命令から懇願へと変わっていた。
「そう言ってもやめてくれなかったよね?」
「ひぃっ! ご、ごめ」
「謝ってほしいわけじゃないから」
そこからはもう伊坂美夏による蜜柑の拷問ショーの幕開けでしかなかった。
その後、美夏に恐怖した少女たちは逃げていった。それからいじめは一切なくなったらしい。
興奮の収まりきらない美夏のマシンガントークを聞かされて、家に買い物袋と一緒に送るまで二時間を要した。
とにかくそれ以来恭二は彼女を色んな意味を込めて、蜜柑と呼ぶことに固く決意したのだ。
「ほぇ~そんなことがあったんだ」
そのぽけ~っとした様子からすると、妹は蜜柑からまったくこの話を聞いてなかったようだ。本人にとっても思い出したくない思い出なのだろう。
「蜜柑を持たせれば最強だからな、こいつ」
さらに追い討ちをかけてやる。
「うっ……そうですよ、柑橘類最強の美夏さんですよ……」
恭二の言葉に反応し、蜜柑はさらに腐り始めた。もう全身が薄緑色に見えてくるほどに。
「そこまでだよ、お兄ちゃん。これ以上美夏を悪く言うなら、ほのが許さない」
親友の惨状を見かねて怒る妹。本気で怒っているのがオーラでわかる。眉間にしわがよっているし、ない胸と身長をいばるように張って、腕を組んでいた。
「優しいな、お前は」
そんな彼女の頭をなでてやる。こわばっていた表情は柔らかくほころび、安心感に満たされた表情になった。
「悪かったよ、美夏。ま、これくらいでへこたれる奴じゃねぇだろ? 俺は知ってるぜ。お前の勇気と行動力を。っと、用事があるからもう行くけど、気にせず進めよ。俺とかさ、色んな障害があるだろうけど、大丈夫だろ? 伊坂美夏なら」
「いきなり何を言い出すんですか」
ゆっくりと顔をあげた彼女は微笑んでいた。
「気にするな。ただかっこいい言葉を言ってみたかっただけだ」
そう言い残して恭二は家を出た。
あれなら何も心配することはない。妹もいるし、あいつはもう知っているはずだ。誰よりも自分がまっすぐであることに。
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