第2話 植物園のお仕事



「花田さん、こんにちは! ちょっといいですか」

 麻紀はできる限りの大声を出して、フェンスの向こう側にいる花田耕一はなだこういちに声をかけた。花田はビクッと痩せた顔を上げ、こっちに向かって訝しげな視線を投げてきた。

「あんた……誰だ?」 

「小谷です。〝喫茶ことり〟の小谷です。すいません、休園日ですよね。今いいですかぁ?」

 麻紀のよびかけに花田は軽いため息をつき、腰を伸ばした。

「ちょっと待ってて。今、門を開けるから」


『花と緑のハーブランド』は三年前にできた山すその植物園だ。麻紀が東京にいた十数年間で故郷の風景はすっかり変わってしまった。

 十歳以上年上の花田は昔から超優等生で、国立大の農学部を出たと聞いている。帰郷した時は、周囲の人間はてっきり親の農業を継ぐものだと思っていたらしいが、親が亡くなると同時に、花田は受け継いだ広い畑を植物園にしてしまった。

 手作り感いっぱいの、はっきり言ってみすぼらしい外観の、面白みのない植物園を作ったのだ。

 何を考えているのやら。頭のいい人間のすることなど、麻紀には想像もつかない。麻紀は長い髪をかき上げながら、手書きの看板を見上げて首をひねった。


「どうぞ、中に入ってください」

 中学生くらいの少女が門の鍵を開け、顔を出した。

「えっと……」誰だ? 「もしかして……娘さん?」

 花田には子どもがいるのか。結婚していたことすら知らなかった。麻紀が驚いた顔でそう聞くと、少女は目をそらすように頷いた。

「……咲惠さえです」

 虫の羽音より小さい声だ。

「あれ、学校は?」

「あ……今日は……朝起きたら、お腹が痛くて……」

「そうなんだ。大丈夫なの?」

「はい、もう大丈夫です。だから、お父さんを手伝おうと思って……」

 咲惠はか細い声で言った。悪いことを聞いたかもしれない。

 咲惠は見るからにおとなしそうだ。

 自分が中学生の頃はやんちゃで、煩いくらい喋っていたのに、咲惠は目も合わせようとしない。

 咲惠を見ていると、急に同級生の女子の顔が浮かんできた。

 たしか小五から同じクラスで、彼女はいつもひとりだった。

 咲惠はあの子に似ている。いつも野暮ったい服で、小さい声で、震えるような話し方で、目も合わさず、冗談も言わない。陰キャラと女子からは避けられ、男子からは〝クラゲ〟というあだ名で呼ばれていた。

 いるかいないか誰にも気づかれない存在。海中を漂うクラゲだ。

 彼女のことは中学に入り生徒数が増えると、存在すら忘れてしまった。

 咲惠を見て、クラゲの顔がよぎったのだ。はたしてクラゲが中学に通っていたのかどうかも分からない。

 今思うと不登校だった可能性もある。咲惠もそんな風に思えた。そうだとしても不思議ではない。


「ごめんね、休園日に。いいの? 邪魔じゃないかな」

 麻紀はクラゲへの罪滅ぼしの気持ちをこめて、咲惠に優しい笑顔をみせた。自慢の長い黒髪と微笑み。男ならこれがお近づきの合図だが、女子中学生に効くものか。

「……どうぞ」咲惠はすっと目線を外した。


 中に入るのは初めてだ。入ってすぐの窓口には『入園料大人五百円、中学生以下は無料』と書いてある。こんなので儲かるのかな。

 麻紀はきょろきょろと園内を見まわした。真冬の植物園は花も少なく、どことなく寂しい。植物園というより、広い庭と言った方がぴったりくる。園内の中央にはアルミ温室があり、その中だけは色とりどりの花が咲いていた。


 咲惠のあとについて行くと、『薬草研究所』という看板が掛けられたプレハブの建物がある。その隣の丸太小屋に通された。土産用のポプリやドライフラワー、アロマオイル、押し花の栞、草花に関する本が並べてある。咲惠は隅に置かれたテーブル席の椅子を引いた。

「父はもうすぐ来ます。座ってお待ちください……。今、飲み物を……」

「あ、いいの。これを園内に貼ってもらおうと思っただけなのよ」

 麻紀は持っていた紙袋から、一枚のポスターを取り出しテーブルの上に置いた。

「あ……浜中美羽はまなかみうちゃん……」

「知り合い?」

 麻紀が咲惠の顔をのぞき込むと、後ろからポスターを取る男の手が伸びてきた。

「咲惠の同級生だからな」

「あっ、花田さん。どーもぉ……お久しぶりです」

 麻紀は後ろに立った作業着の花田を見上げ、わざとらしい笑顔で頭を下げた。

「この子、母親と喧嘩して家出したんだって? まだ見つかってないのか」

 花田はポスターを見ながら、麻紀の隣の椅子に座った。

「そうなんです。お母さんからポスターを預かってね。今、いろんな所に貼ってもらおうって、手伝ってるんですよ」

「家出だろう? もっと都会にいるんじゃないのか?」

「もちろん、沿線の駅や商店街にも配ってるんですけど、浜中さんが誘拐かもしれないからって……。女の子だし変質者とかの線もあるでしょ。美羽ちゃんが家を出た日に誰か見かけてないかな、と思って。警察に捜索願も出してるけど、なかなか情報がなくて。数枚、園内に貼ってもらえませんか」

 麻紀の言葉に、花田は室内の壁を見た。

「こんなところで良かったら、ポスターくらいは協力させてもらうよ。こう見えて遠方からの来園者もいるんだ。ここは珍しい植物もあるからね」

「ありがとうございます。助かります」

「早く見つかればいいね」

 花田は嘆かわしい、というそぶりで眉を寄せ頷いた。

「咲惠、突っ立って何をしてる。お客さんに飲み物をお出ししなさい」

「……あ、はい」

「ああ、私はもう……」

 立ち上がろうとする麻紀を花田は手で制した。花田は咲惠が丸太小屋を出るのを見届けると、声を潜めて麻紀に言った。

「あの浜中美羽という子、家出も二度目らしい。前はナンパされた男の家にいたんだ。警察も事件性がないと踏んでるんだろう?」

「そうなんです。もう十五歳だし。あまり本格的に探してくれない」

「中学生のくせに見た目もませてて、化粧とかしてたからね。あれは不良だよ」

「でも、女の子だし。事件に巻き込まれる危険性もあるから」

「一度くらい痛い目に遭えばいいんだ。そのうちどこかの盛り場で保護されるよ」

「……ええと」

 花田みたいに勉強のできた超真面目優等生には、美羽のような落ちこぼれの気持ちが分からないのだろう。それにしても酷い言い方だ。

「子どもがいなくなったら、親なら死ぬほど心配しますよね。花田さんだって、もし、咲惠ちゃんが同じような……」

「君、子どもがいたのか? じゃあ子どもは旦那さんが引き取ったのか?」

 花田は驚いたような顔で麻紀の言葉を遮った。

「いえ……いませんけど」

 麻紀はムッとして花田を見た。狭い田舎町だから、麻紀が離婚して実家に戻ってきたのを知っているのだ。

「じゃあ、親の気持ちなど軽々しく分かったように言うのはやめた方がいいね」

「それくらい想像はできますから」

 自分も子どもが欲しかったのだ。若い頃の中絶で合併症にさえ罹らなければ、不妊症にもならなかっただろうし、子どもがいれば結婚生活もうまくいったかもしれない。

「母性愛だってあるつもりです」

「へえ、母性愛ね……君って、人の気持ちが分かるのか」

 花田は気味の悪い薄ら笑いを浮かべた。

「ちょっと、それどういう……!」

 麻紀は昔の癖で食ってかかりそうになったが、入り口に咲惠が立っているのに気づき、口をつぐんだ。

 トレーの上にマグカップを二つのせ、こぼれないようそろそろと近づいてくる。ひとつを麻紀の前、もうひとつを花田の前に置いた。

「なんだ。甘酒か? ハーブティーじゃないのか」

 花田がマグカップの中をのぞいて呟いた。

「これから寒くなるし……ちょうど、新しいメニューを考えていて試作品なんです……良かったら、どうぞ」

 咲惠は消え入るような声で言い、クッキーの入った皿も置いた。

「これ、咲惠ちゃんが作ったの?」

 麻紀はクッキーを一枚手に取り、咲惠を見る。

「はい……園内に植えたタイムとローズマリーを使って焼いたハーブクッキーです。お土産として売れるから……隣の建物で作ってるんです。最近はネットでも売れるし」

 咲惠は目線をうろつかせ小さな声で答えた。

「すごいね」

 麻紀は大げさに褒め、クッキーを頬張った。

「美味しいよ……うん、これ売れるわ。うちの店でも出したいくらい」

「ありがとう……。クッキーはもう売ってるんだけど、その甘酒がいけるかどうか……」

「これは? 普通の甘酒じゃないの?」

 麻紀はそう言いながら甘酒を口にふくむ。咲惠は麻紀の顔をのぞき込んだ。酒粕ではない、なにか違う食感がある。

「どうですか……?」

「美味しいけど、歯触りがあるよね。何が入ってるの?」

「サボテンの砂糖漬けです。温室にあるんですけど……それで甘味を出したらどうかなって」

「サボテン? 食用のやつ?」

 咲惠はこっくり頷いた。

「……メキシコでは有名で。温室で栽培してるんです」

「詳しいのね。花田さんが教えてあげたんだ」

「いいや、今じゃあ物によっては咲惠の方が詳しいな」

 花田はクッキーを一口かじった。

「私はもっぱら力仕事担当だよ」

「これ、癖になるね。飲めば飲むほど美味しくなってきた」

 麻紀は甘酒を啜りながら聞く。

「そうなんだ。じゃあ咲惠ちゃんと奥さんが、ここのお土産を作ってるの?」

「あ……お母さんは……」

 咲惠の顔が曇り、俯いた。

「ああ、妻は四年前に亡くなってね。自殺だった」

 花田がぼそりと呟く。

「それでここに戻ってきたってわけさ。彼女、植物が好きでね。好きを通り越して草花が身近にないと心の調子が狂うんだ。死んでからしか願いを叶えてやれなくて、まったく……」

「あ、ごめんなさい。私、知らなくて……本当に……」

 麻紀は焦って手を伸ばし、咲惠の手を握ろうとした。


 家族の自殺。彼らは心を切り裂く体験をしたのだ。咲惠の手を取り、知らずに傷つけてしまったことを謝り、できる限り励まそうと思った。今後、彼女を守ってやれるなら、母親のような気持ちで守ってあげてもいい。


 しかし麻紀が伸ばした手は、ふわりと空を切り、咲惠の手でパシッと払われた。

「……知ってるわ。麻紀さんはお母さんのこと知ってるの」

「え?」

 麻紀は花田と咲惠の顔を見比べる。


 頭を左右に動かすとグラッとふらついた。何だろう?

 グラッグラッ。あれ?

 身体がゆらゆらと揺れ宙に浮かんでいく。


「お母さんの日記のリストに、小谷麻紀の名前もあったから……ねぇ、お父さん」

 咲惠の顔が二重に見えた。声もうわんうわんとエコーがかかって聞こえる。

「妻も同郷だよ。倉木恵美くらぎえみ。覚えてるかな?」


 立ち上がった花田の姿が真っ黒の影になり、黒影の目のあたりから神秘的な放射線状の光が差しはじめた。


「……く・ら・ぎ・え・み……」

 麻紀は目を細め、まぶしい光を見つめながら、名前を口に出した。麻紀は完全に浮いていた。咲惠と花田より、三十センチほど高く浮いていた。神々しい光が麻紀を包みこむ。

「……く・ら・ぎ・え……」

 もう一度名前を呟いた。

「……く・ら……げ?」

「思い出したようだね」

 花田の声はうわんうわんうわんと高、中、低音の三重に割れた。もはや人間の声ではない。

「君があだ名を付けたらしいじゃないか」

「『倉木さんって、いるかいないかわかんない、クラゲみたいだね……』この人、お母さんにそう言ったのよ」

 咲惠の声はもはや外からではなく、身体の中で響き始める。

「『陰キャラだよね……鬱陶しいよね……』とかも言ったんだって。この人、浜中美羽みたいだよね」


 宙に浮く自分の身体が透けてきた。黒髪もテグスのように透き通り、毛が一本一本、触手のように動きだす。透明の頭蓋骨が肥大し、ふにゃふにゃと傘を広げる。黒影から放たれた光が透けた身体に反射して、バチバチとあちこちで発火し、麻紀は恍惚と目を閉じ身体を揺らめかせた。


 アタシも……クラゲになっちゃった……。


 世間の誰にも気づかれないって……離婚も不妊も先の不安も、全部ぜーんぶドウデモイイってこと……。とにかくユラユラとキモチイイんだから……。


 瞬間、身体の中でなにかが破裂した。

 胸が焼けるように熱い。

 触手という触手に痛みが走る。

 光が急速に縮んでいくくくくくぅ………………ぅ。


 ガラガラポーーーーーーーーーーーーーンッ!


        ☆


「なんだか腑に落ちない」

 咲惠は、花田がシャベルで穴を埋めるのをじっと見つめながら、不平を漏らした。穴の中の麻紀の上にどんどん土がかけられていく。

「何が?」

「だって、浜中美羽も小谷麻紀もウバタマ入りの甘酒を飲んだら、すごく幸せそうだったんだもん」

「幻覚が見えるからな。お母さんだってそうだった」

「二人とも、苦しむどころか苦しみから解放されたみたいだったよ」

 花田はふっと微笑んだ。

「いいじゃないか」

 足下の花壇はすっかり麻紀の痕跡がなくなっていた。

「じゃあ、植えよっと」

 咲惠が苗が入った木箱を持ち上げる。

「ああ。ここはきっときれいな花が咲くぞ」

 近い未来、彼女たちの良い部分だけを抜き出し、美しい草花が咲き乱れるのだ。花田と咲惠は目を細めた。

 

 

                         了

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棘《おどろ》娘 向江 らをり @ecritpareri

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