棘《おどろ》娘
向江 らをり
第1話 お父さん
道端の草にはみなそれぞれに名前があります。知らず知らずに踏みつけている草花にも、調べてみればちゃんと名前があるでしょう。踏みつけられて枯れる草もあれば、踏まれても引き抜かれても、しつこくのびて広がる草もあるのです。
踏みつけてきた野花も、気づけば種をまき散らしているかもしれません。
*
遺体の火葬が始まる。
天音の父、岩宮達夫は四日前に風呂で溺死した。酒でも飲んでいたのだろう。アルコール依存症で通院中の男の顛末である。
斎場の煙突からけむりがあがる。天音はそれをぼんやりと見ている。ただぼんやりと。
痣だらけの天音がぼくの勤める施設、みのり園に来たのは一年前だ。天音は高二だった。ぼくらの園には親のいない子や、いても一緒に暮らせない理由のある子が入所する。ぼくはここの教員で、もうこれが日常なのだが、入所当初の子どもは誰もが心を開くまでに時間がかかる。天音も例外なく友だちを作ろうとせず、ひとりぼっちだった。
彼女たちが一番幸せだったのは、何も知らず母の子宮の中で羊水にゆらゆら揺られながら暢気に指をちゅちゅと吸い、丸まっていた頃じゃないかと思う。
夜、みのり園の子どもはその頃と同じ格好で眠っている。戻りたいよぉあの頃に、って格好だ。
天音はぼくの担当になった。本当に手がかかった。学校でも同級生(特に女子)と問題をおこし、ぼくは学校によく呼び出された。そして天音と時折下校をともにすることで、彼女はぼくには心を開いていった。気弱そうに見えるのに、思い込んだら頑なな少女。天音は不安なことがあるとこう言う。「ねえ、西野センセ、ついてきてよ」そう、これである。長い睫毛の三白眼でじっと目を捉えて言われるとお手あげで、まったくぼくは天音のわがままを断れない。
岩宮達夫の葬儀には園長も来るはずだったのだが、天音が嫌だと言い張ったのでぼくだけが参列した。天音以外に身よりのない男の葬儀は簡単なもので、来たのは天音とぼくとケースワーカーの大橋さんだけ。
収骨が終わると大橋さんが、岩宮達夫のアパートを引き払うので早く遺品を整理してほしい、とぼくと天音に言った。まだ朝の十一時だ。他の子どもらが園に帰ってくるまで時間はある。ぼくは天音と一緒にアパートに寄ることにした。所帯道具も少ないだろう。園にその旨、電話を入れる。「天音ちゃん、大変だろうけど、西野先生よろしくね。お願いします」と、菩薩様のような声で園長に言われる。園で働いて二年半のぼく。対応の難しい天音に唯一慕われたぼくは、園長や他の先生から信頼を得つつある。
この先生たちの信頼を失えば、ぼくはどうなるのだろう?
ぼくと天音の関係はこんがらがって縺れている。
天音のお腹の中にあずき程の大きさの小さなぼくの赤ん坊がいる。
この夏、天音とぼくは学校から呼び出されたあと、天音が言い出し、誰もいない『花と緑のハーブランド』に寄った。十年以上前に閉園された山裾の民間植物園だ。今や荒れ放題の温室はジャングルと化している。ぼくはそこで天音に説教するつもりだった。教員らしく。
なのになにがなんだかどうしてそうなってしまったのか。
そこでぼくたちは、なにかに吸い込まれるようにひとつになってしまった。
ああ、たった一度の過ち。
ジドウフクシホウとインコウジョウレイという文字が頭に浮かぶ。
いかにも高校生の天音をつれて産科に行くには勇気がいった。妹に付添う兄、のように振舞った。検査してもらった病院の、看護師さんの刺すような目と、すべてを見透かした感じの先生の口調が忘れられない。なのに、天音は頑として産むと言う。
天音はもうじき高校を卒業する。働けば園を出るし、一緒に育てられるかもしれない。いや、天音が在園中に妊娠したと判れば、大変だ。判ってしまうに違いない。
ぐるぐる考えあぐねているうちにぼくたちはアパートに着いた。
その道中、天音は道端に生えた野花の名前を当て、それを摘みながら、赤ちゃんが産まれた後の夢をべらべらとひとりで話し続けていた。父親が死んだ悲しさは微塵も感じられない。赤ちゃんができてしまった不安もこの娘にはない。なんなんだ、この少女は。
天音の家には初めて入る。玄関先までは何回か訪問したことはある。天音は月に一度か二度、週末になると家に帰っていた。
敷きっぱなしの布団。転がった酒瓶。荒れた生活。洗濯物がまだ干してあって、もうここの主がいないのが嘘のようだ。リキュールがまだ半分ぐらい残ったボトルを天音は差し出し「センセ、飲む?」と、聞いてくる。「あ、いやぼくは」いらない、と首を横に振る。「飲まないんだ? へえ」「仕事中だからね」やはり、この娘は何も考えていない。子どもだ。先のことを考えない幼い子どもじゃないか。子どもが子どもを産んでどうする。
天音は大きなゴミ袋を数枚広げ、次々と要らない物を入れていく。ずっと喋りっぱなしだ。
「わたしって、お父さんの本当の子じゃないみたいなんだ」
「ああ、そう思うの?」
思うのは無理ないだろう。痣だらけで保護された天音を思い出せば、当然のことだ。
「お父さんがお酒を飲むといつも言ってたもん。〈お前はオレの子じゃなかったんだよっ〉てさ」
「酔っぱらって言うことなんて、気にしなくていいんじゃないの」
ぼくは半笑いで話を聞き流そうとした。今、この娘の生い立ちを真正面で聴いて受け止める自信がない。
「わたし、お母さんにそっくりなんだって。小さい時に出て行ったからわたしは知らないんだけど。でもお父さんって、本当はわたしのことすごく好きだったんだよ」
「ふうん」気のない返事。
「わたしのこと不憫だって泣いたのよ。妊娠してるってわかったら」
なんだって? ちょっと待てよ。
「……言ったの? お父さんに」
「そりゃあ、嬉しかったんだもん。ずっと、欲しかったし。赤ちゃん。欲しいでしょう? センセも」
体中の毛穴が浮き立った。ぼくは答えに詰まる。
天音が少し不機嫌な面持ちでぼくを見た。
暫くの沈黙のあと、ぼくは言った。
「子どもを育てるには、まだ天音には早いと思うんだ。天音には色々やりたいことがあると思うし、社会経験も積んだ方がいいと思うし、産んでから後悔するのは良くないだろう」
また、沈黙。
「やりたいこともないし、後悔もしない」
天音は怒ったようにゆっくりはっきり言って、おもむろにリキュールのボトルを開け、それを口いっぱいに含み始めた。「あっ」ぼくは声をあげてしまう。ぼくは慌てて天音に言う。飲んではいけない。高校生だし、いやいや、お腹にはぼくらの子どもがいるじゃないか。ええ? 子どもの存在を肯定した? 何を言ってるんだぼくは。
天音は止めようとするぼくの手を引き寄せキスをする。そして、ゆっくりとリキュールをぼくの口に流し込んだ。
喉が熱い。濃厚な甘さと苦さが残る変な味。
天音とぼくは尻もちをつくようにその場にしゃがみ込む。ボトルは空になっていた。彼女はじっとぼくを見る。心を透かされているようだ。
「先生の気持ちを教えて」
「赤ちゃんのこと、お父さんには何か言った? ぼくのこと話したのか?」
いったい何を聞いているんだ。天音の父親が死んでよかった、と思っているぼく。ああ、こんなこと思うなんて。自分のことしか考えていないのはぼくじゃないか。
天音はぼくの問いにも怒らないで、かぶりを振った。
「堕ろせっていうのよ。〈こうなったのもあの女のせいだ。あの淫売の血だ〉って。お母さんよ。お母さんと違う男の人の間にできたっていうのよ、わたしが……。センセ?」
ぼくの顔に汗が流れている。秋だというのに。「大丈夫」ぼくは、部屋に散乱している雑誌を片付け始める。
天音はまた話し始めた。少し彼女もリキュールを飲んでしまったのか饒舌度が増す。ぼくは、この不幸な少女が止めどなく無神経に話し続けるので、理性を失いそうになる。そうだ。こいつはいつもぼくの理性を失わせるんだ。そうだ、あの時だってこの娘のほうから……。部屋の隅にばらけてある電気コードを束ねる。コードを強く握りしめ、これを彼女の首に巻いたシーンを想像してみる。ばかな。落着くんだ。
「わたしがお父さんの子どもじゃなかったとしても、わたしにあんなことをしていいってことないよね。お腹の赤ちゃんだって、お母さんやわたしのせいじゃない。もともと初めにしてきたのはお父さんなのに。わたし、ずっとずーっと嫌だったんだから、……あんなことお父さんとするの……」
天音は、はっとしたように右手で口を押さえた。
「あんなこと? おとーさんろ?」
舌がもつれる。首や脇や背中が痒い。いつものアレルギーだ。
「……先生、わたしのこと嫌いになった? お父さんが、酔っぱらうとわたしを……お母さんの名前を呼んで、わたしを……」
天音は両腕で自分自身を守るように抱きしめ丸くなった。
ああ、セイテキギャクタイってやつか?
「犯されら……んらい?」上手く喋れない。畜生。
「……嫌いになった? わたしのこと」
コードを持つ手が緩んだ。手の甲に湿疹ができている。ぼくはポリポリと首や手を掻きながら、身体が緊張から解き放されるのがわかった。天音のお腹の子は、ぼくの子どもじゃないかもしれない。虐待が日常なら、ぼくの子じゃない確率の方が高い。
そんな仕打ちを受けてきたのか。可哀想に。勝手なもので少し冷静になれたせいか心からそう思う。天音も父親の子どもだと勘づいてるんじゃないのか。ぼくは軽はずみなことをしてしまったけど、これは間違いだ。これじゃ、だれも幸せになれないよ。天音、わかってくれ。
「おろーさんの子かもしれらいねぇ。られの子かわかららいよーじゃ、生まれれきれも、かわいそーれかわいそーれ、あまれもいやらろー……」
意味不明。
「うまくいえらいけろ、いまうむのは、らめなんら、ふこーなころもが、まらふえるらろう……」
天音を納得させたい。ぼくはみのり園の教員なのだ。ぼくを認めてくれた他の先生たちの信頼を失いたくないんだ。
そして、天音の信頼も失いたくない。
ぼくにだけ心を開いた天音。
「このころもはあきらめれ、えんをれれからけっろんしれ……」
この子どもはあきらめて、園を出てから結婚して、家庭を築いていこうよ、天音。先生を許してくれ。この弱い男を。君を幸せにしたい。
と、言いたいが言えない。息を吸おうとしたが吸えない。苦しいような、眠いような。
あれれ? 天音がぼくの頭からゴミ袋をすっぽりと被せようとしている。天音の三白眼がぼくを覗く。
「意気地なしで、まわりくどい」
天音が耳元で囁いた声が耳に篭り、急に目の前の景色が曇った。
頭の中の灯籠に映ったぼくの人生が逆回転でぐるぐる回る。みのり園のみんな、適当にこなした学生生活、けんか別れした友だち、死んだおばあちゃんの顔、好きだったリコーダー、両親の笑顔、ぼくが産まれた日。ぼくはだんだん小さくなって身体を丸める。ああ、こういうことか。今まで、何に怯えていたんだ? 何に囚われていたんだ? 結局のところ最期は産まれる前に戻るだけじゃないか。
身体が冷たくなっていくのが自分でわかる。ああ、みんなに教えてあげたいよ。ぼくの最期のことば。
「ぜんぜん、怖くないや」
*
天音は洗面所で口を濯いだ。今年のハーブ酒は空き地に生えたムラサキケマンを入れすぎた、と思った。お父さんと違って、センセはアルカロイドを含んだムラサキケマンの耐性もないし、不運にもアルコールアレルギーだった。緩やかには逝かなかった。
いい人だと思ったんだけどなあ、赤ちゃんのお父さん役には。
残ったアルコールで口が少し痺れる。お腹をさすって「大丈夫?」と聞いてみる。
どうして大人は世間に自分を認めてもらおうとあがくのだろう。認められないかもとか、笑い者になるだとか思って、自暴自棄になったり、ジタバタしたりしてしまうんだろう。
わたしがせっかくみんなの天使を孕んでいるというのに。革命の天使を。お父さんも、お母さんも、わたしも、たぶんセンセも、天使の中にその種は残っているというのに。
天音は、畳の上に丸まっている『センセ』を見て思案する。この家の風呂でセンセが溺死するのは、変だなぁ。近くのため池にでも放り込むかなぁ。
うーん。ま、どうにかなるか。
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