11 スコーンが焼けるまで
11-1
聖花火祭の翌日、ステファンは11歳の誕生日を迎えた。
マーシャは居間のテーブルクロスを変えて花を生け、張り切って特大のケーキを焼き始めた。
「そんな大げさにしなくたっていいのに。なんか恥ずかしいよ」
テーブルを端に寄せ、いつもとは違う様子に整えられた居間を見て、ステファンは戸惑った。
「大げさじゃないよ。今日はステフにとってもわたし達にとっても大事な日なんだ。ちょっと手伝ってくれ、屋根裏にあと2脚、椅子があったはずだ」
「本当にお客を呼んじゃったの?」
「そうだよ、これも計画のうちさ。君の誕生日にかこつけて悪いなとは思ったけど」
屋根裏への梯子段を昇りながら、オーリは悪戯を企む顔をしている。
ステファンはここ数日のめまぐるしいドタバタを思い出していた。
まずエレインだ。
オーリの奮闘ぶりを見て思うところがあったのか、竜人フィスス族の『語り部』としてもう一度務めを果たしたい、と彼女は言い出した。ただし、花崗岩事件のように竜人の怨念の依り代になるようなことはしない、自分の言葉で一族に伝わる話を語りたいのだと。
オーリはしばらくエレインを見つめた後、わかった、と短く答えて今日の計画を練り始めた。
そしてオーリの絵だ。
カニスが誰にどう噛みついたかは知らない。だが美術展主催のアート・ヴィェークはオーリローリ・ガルバイヤンの絵を問題視するどころか大いに気に入ったようで、結局財団名義で買い取り、そのままホール玄関を飾ることにしたのだから、絵の運命なんてどう転がるかわからないものだ。
が、そこからがちょっと大変だった。
まず、美術展初日に名乗りをあげた例の外国人女性――ジゼル・ミルボーと名乗った――が、絵を諦める代わりにぜひエレインと直接会って話を聞きたいと熱心に言ってきたのだ。他にも記者や美術館の騒ぎで竜人のことを知ったという多くの人が問い合わせてきた。
これこそがオーリの狙いだったようだ。オーリは彼らをステファンの誕生祝いの席に招待し、そこでエレインの話を披露すると言った。
た・だ・し 条件付きで。
条件とは、現在の竜人がどういう扱いを受けているかを知ってから来ること、そしてオーリの家の前に設けた『関門』を通り抜けられること、の2つだ。
「招待とか言いながらあの関門はないよ、先生。魔法で作った生垣の迷路でしょう? 無事に通り抜けられる人って居るのかな」
埃っぽい屋根裏部屋で椅子を引っ張り出しながら、ステファンは明り取りの小窓から庭を見た。
この季節、ほとんどの植物が枯れた姿を晒している中で、常緑樹の緑を誇っているのがオーリの作った迷路だ。たいした距離でもなく、難しい道でもないはずだが、オーリが言うには、興味本位で竜人を見てやろう、などと思って来た者は間違いなく迷い、カラスに突かれて逃げ帰ることになるらしい。
「ま、難しいとは思うよ。そら、早速入り口でカラスの歓迎を受けてる奴がいる」
オーリが指さす先では、カメラを持ったゴシップ誌の連中が入り口で弾かれて大騒ぎしているところだ。
どうにかすり抜けたとしても次のトラップが待ち構えているんだから始末が悪い。迷路の中で堂々巡りをした挙句、疲れ果てて入り口に戻るはめになる人間が何人いることやら。
「首を洗って、いや頭の中を洗って出直すんだねえ」
オーリは呟いて親指を下に向けた。
* * *
「良くお似合いですよ、エレイン様」
2階の部屋では、大きな鏡の前でエレインが白地の衣裳をまとっていた。袖の長い服には幾何学模様の縫い取り、同じ模様を織り込んだ前垂れ――竜人フィスス族の語り部が受け継ぐ式服だ。後ろに引きつめた赤い髪には極彩色の羽根飾り、耳に光っているのはいつかの黒い封印石ではなく、紅い石だ。
「またこの衣裳を着る機会があるなんて思わなかったわ」
エレインは誇らしげに腕を伸ばして、袖口を飾る幾重もの幾何学模様を指差した。
「これはおばあさまの縫ったところ、これはその前の語り部の。そしてあたしが縫ったのはこれ、あまり上手じゃないけどね。この模様のひとつひとつが物語になってるの。だから忘れずにいられる」
「立派ですよ、大切になさいまし。たとえ生まれた地を失ったとしても、失っちゃいけないものがございます。それは人間も竜人も同じこと。オーリ様もきっと力を貸してくださいますよ」
手を取って祈るように言うマーシャに、エレインは微笑んだ。
「先のことは分からないけどね。でもありがと、マーシャ。『語り部エレイン』の務めを果たしてくるわ」
部屋のドアを開けると、11月の風が窓を揺する音が聞こえる。エレインは背筋を伸ばし、階段を下りていった。
「――でね、この黒いローブも今日届いたばかりで、ぼくまだ慣れてないんです。誕生日のお祝いにってお母さんが贈ってくれたんだけど。あれ? でもぼくのお母さんは魔法ぎらいなのに、どこでこれ買ったんだろ」
ステファンの無邪気な言葉に客人たちはどっと笑った。
赤々と燃える暖炉のせいばかりでなく、居間の中は暖かだ。子供も含めて十数人が集っている。結局はこれだけの人数がオーリの作った緑の迷路を無事に通り抜けたということだ。
最初に難なく迷路を通り抜けたのは、子供たちだった。続いて例の外国人女性、ジゼル・ミルボー。本国で『竜人学』を研究しているとかで、子供のように歓声をあげながら迷路を楽しんで通り抜けてきた。
迎え入れられたほとんどの人は、魔法使いの家ということで最初は緊張した顔をしていたが、オーリの気さくな人柄と薫り高いお茶を前にして、すぐに心がほぐれたようだ。ケーキを切り分けたあとは口々にステファンに向けておめでとうを言い、新米魔法使いのローブ姿に目を細めて談笑を始めた。
ころあいを見て、オーリが立ち上がった。
「皆さん、竜人の話を心待ちにしていることでしょう。そろそろわたしの守護者を呼びます」
オーリに招き入れられ、居間の戸口に現れた赤毛の娘を見て、客人からどよめき声があがった。
「おお、あの絵に描かれていたのはこの女性ですな?」
「なんて赤い髪……でもあの、こんな綺麗な娘さんが竜人? 信じられない」
疑うというよりも戸惑っている客人たちに、エレインはニッと笑って長い袖をたくし上げてみせた。
すんなりとした腕の外側に長く、竜人特有の青い紋様が続いている。
「オオ! コレハ」
ジゼルが立ち上がって近づいた。
「……間違イ無イ。
感極まった様子のジゼルにエレインは快活に答えた。
「そうよ、あたしは竜人フィスス族最後の生き残り、語り部のエレイン。しばらくあたしの話を聞いてくれる?」
エレインは穏やかに、けれどよどみの無い口調で竜人の創世譚から語り始めた。ステファンもこんな風にエレインから直接聞くのは初めてだ。彼女の言葉は淡々として、物語りとも歌ともとれる心地よい韻律で部屋を満たした。人の発する生の音声というものは、どうしてこんなに心を揺するのだろう。
始めは物珍しさからクスクス笑っていた子どもたちも、やがて真剣な顔で彼女の言葉に聞き入るようになった。
オーリはエレインの肩に手を置いて、しっかりね、と言ったきりなぜかそのまま居間を出てしまった。
ステファンは内心、気が気ではなかった。8月の終わりに、花崗岩に封じ込められた竜人の怨念と同調してしまったエレインの恐ろしい姿を覚えていたからだ。オーリが新しい封印の石を着けてあげたとはいえ、またあんな風になりはしないだろうか。
エレインの語りは淡々としているが、時々声が震えることがある。人間への怒りを懸命に抑えているのだな、ということがステファンにも痛いほど解る。
――エレインの一族が守ってきた美しく肥沃な大地。『新月の祝い』は、普段離れて暮らしているエ・レ・フィスス(父親たち)とベ・ラ・フィスス(母親たち)が顔を合わせる唯一の日であると共に、魔力を忘れて『人』としての姿を取り戻す厳かで神聖な日のはずだった。けれど人間たちはその日を狙って侵攻して来た。エレインが初めての伴侶を選ぶはずだった美しい日は、こうして一族最期の日となってしまった。父親たちは皆、その場で戦い果てた。エレインも共に戦うつもりでいたが、一番年若いエレインを逃すことで母たちは希望を繋ごうとした――
やがて話がエレインの母たちの最期に及ぶと、それまで水の流れるようだった彼女の言葉が途切れはじめた。長い袖に隠れた拳がぎゅっと固められている。
いたたまれなくなって、ステファンは思わずエレインの傍に行った。
どうしよう。こんな時に何と言ってあげればいいのだろう?
言葉が見つからずステファンはただ、固まった拳を両手で包んだ。と、もうひとつの小さな手が伸びて、エレインの手に重なった。一番最初に迷路を抜けて来た小さな女の子だ。
「だいじょうぶ? 竜人のおねえさん」
女の子に続いて、もう一人。そしてまた一人。その場に居た子どもたち皆が集まってきて、心配そうにエレインの手を取ったり顔を覗き込んだりし始めた。
「……ありがとう。あたしは大丈夫。さ、話を続けるから座って」
エレインは少し青ざめた顔で、それでも微笑みを浮かべて子どもたちを見回した。
「少し休憩を挟んではいかがです? ほら、この人もお茶を出すタイミングに困ってる」
客人の紳士が立ち上がって居間のドアを開けた。
ドアの向こうでは、マーシャがお茶をワゴンに乗せたまま、ハンカチで鼻を押さえて号泣しているところだった。
それにしても、オーリは何をしているのだろう。こんな時にこそエレインの傍に居なくちゃ駄目じゃないか、とステファンは腹を立てながら、エレインが落ち着いたのを見計らって、2階へ上がってみた。
案の定、アトリエに灯りが点っている。
「もう先生、何やって……!」
言いかけた言葉を呑み込んで、ステファンは目を見開いた。
部屋じゅうに紙が飛び交っている。オーリはその中で、じっと目を閉じて立ち尽くしていた。杖を自分の額に向けているのは、かつて迷子になったアガーシャを探した時に見せた、魔力を強めて集中する姿勢だ。
机の上の羽根ペンが10本とも、ものすごい勢いで走っている。ペン画を描いているだけではない。普段は無い金属のペン先が付けられている数本が書いているのは、文字だ。インクをつける時間も惜しむように、交代でおびただしい文字を書き付けている。
インク壷の隣では、蓄音機のホーンのような形の金属の花が震えている。そこから聞こえるのは居間で語っているエレインの声だ。
「……そうだ、語り続けるんだエレイン……怒りに負けるな……」
オーリは目を閉じたまま、エレインがすぐ近くに居るようにつぶやいている。
足元に落ちてきた1枚を手に取って、ステファンはオーリが何をしているのかを知った。エレインの語る言葉と記憶の光景をそのまま書き残しているのだ。しかも同時に、いつにも増して強い魔力を彼女に送りながら。オーリは時折足元をふらつかせ、それでも一心に集中していた。
ステファンは急いで椅子を寄せ、オーリを座らせた。
「先生、何やってるんだよ、もう。いくら先生でも、こんな同時にいろんな魔法を使うなんて、無茶だ!」
「ステフか。時間が無いんだよ。竜人をこれ以上苦しめるような事態が動き出す前に、エレインの言葉を世の中に伝えなきゃ。それには正確な記録が必要なんだ」
オーリは目を開けないままでうめくように答えた。
「それならいっそエレインの隣に居てあげてよ。エレイン、独りで可哀想だよ。力を送ってあげられるのは先生しかいないんでしょう」
「そんなことをすればお客たちは、わたしが魔法でエレインを操って語らせているように思うかも知れないよ。それに羽根ペンたちはこのアトリエを出ては仕事ができなくなるんだ。さあ、分かったら邪魔をしないでくれ!」
額に汗を浮かべながら祈りにも似た姿でいるオーリと、さっき居間で懸命に怒りを抑えていたエレインの姿がダブって見える。何を言ってもオーリはこの魔法を止めそうにない。ステファンは黙って床に散らばった紙を拾い集め、微動だにしないオーリを残してそっとアトリエを出た。
夜になると、エレインはさすがに疲れたのか早々と天井の梁に上り、日没後の小鳥のように眠りについてしまった。
けれどオーリにはまだしなければいけない仕事があった。机の隅で埃を被っていた古いタイプライターを持ち出し、エレインを起こさないように『無音』の魔法を掛けると、昼間羽根ペンたちが書き取ったエレインの物語を清書しはじめたのだ。
しかしオーリはどうやらタイピングが苦手のようだった。金属のアームが何度も絡まり、焦る割りには一向に進まない。
見かねたステファンはオーリをタイプライターの前から押し出した。
「だめだよ先生。時間が無いんでしょう、ぼくにやらせて」
「何だって? 君、できるの?」
「結構得意なんだ。お父さんの仕事の手伝いで覚えたから」
ステファンは紙を二重にして挟み直すと、猛烈な勢いでキーを打ち始めた。ピュウ、と口笛を吹いて、オーリは目を見張った。
「驚いた、ガーリャが目覚めて働いてる!」
「ガーリャって、これに棲みついてるやつ? アガーシャみたいに」
キーを打つ手を止めないまま、ステファンは問うた。
「そうだよ、このタイプライターをトーニャから譲り受けた時からまともに働いたことが無かったんだが。ありがたい、その調子で頑張ってくれ、ステフ。わたしは挿絵を仕上げるよ」
こんなに急ぎの仕事なんてどうしたんだろう、と思いながらもステファンは自分の力がオーリの役に立っていると思うと誇らしさでいっぱいになった。
結局、使い魔のトラフズクが窓に降り立つ頃には、全ての清書が終わり、オーリは拳を宙に突き上げて快哉を叫んだ。
「オスカー、感謝だ! わたしに弟子ばかりでなく有能な助手まで遣わしてくれた!」
「しーっ、先生、エレインが起きちゃうってば」
魔法使いたちの騒ぎを尻目に、トラフズクは冷静な顔で通信筒を背負い、
「滅び行く者、声をあげよってことですな……」
とつぶやくと一礼して飛び立っていった。
* * *
エレインの話は評判を呼んだようだ。もっと話を聞かせて欲しい、という声が引きもきらず、オーリは次の週からも何度か客を招いた。
エレインの語りにはますます熱がこもったが、最初の日のように怒りで声を詰まらせるようなことは無くなった。話を聞き終えた人びとは彼女の手を取って、今まで竜人のことを誤解していた、済まなかった、と涙を浮かべながらしばらく時を忘れて話し込むのが常だった。
中にはジゼル・ミルボーのように何度も訪れる人も居り、いつのまにかエレインには人間の友人が何人もできていたし、嬉しいことに、ステファンにも友だちと呼べる子らができた。
相変わらず『関門』の迷路で弾かれるゴシップ記者たちが腹立ち紛れに酷い記事を書きたてたが、
「タダで宣伝してくれるってわけか。ご苦労なこった」
と、オーリは涼しい顔をしていた。
一方で『竜人とのお茶会』の話は耳から耳へと伝わり、迷路を通り抜けられることがひとつの名誉のようにさえ語られるようになっていった。
客が全て帰っても、迷路の入り口でカラスが騒いでいる。オーリは庭に出て指を弾き、カラスを遠ざけてから呆れたように声をかけた。
「あんたも懲りないね。いいかげん、仕事を離れてひとりの人間として来たらどうです? そうすれば通り抜けられるかも知れないのに」
「ああ、長年染み付いたひねくれ根性が邪魔してね。いや、今日はそんなことで来たんじゃないんだ」
帽子をさんざんに破られた雑誌記者は冷や汗をぬぐいながらオーリに向き直った。
「いいニュースだよ、ガルバイヤンさん。例の髭男、カニス卿が失脚したらしい」
「カニスがどうしたって?」
不愉快な人物の名を聞いてオーリは眉を寄せた。
「あの髭男、前からうさん臭い奴だと思って調べてたんだけどね。カニスってのは偽名だ。ブンバビエリという名をきいたことがあるかい? 奥方は竜人保護の慈善バザーとかやりながら、裏で竜人を横流ししてた魔女だ。夫婦で他人の記憶を書き換えて地位や肩書きを手に入れてたっていうんだから、とんだペテン野郎だよ。最近になって記憶を取り戻したという貴族から訴えられて、今大変なんだと。傑作だろう?」
「あの犬男め、そんなさもしい事やってたのか……で、それをわたしに言ってどうしようっていうんです」
「どうもしないさ。ただ、あんたに言われてから俺も改めて竜人の話を聞いてみることにしてね。とある少年から髭男とあんたの因縁を聞いたんで、伝えておきたくなったのさ。仕事抜きでね」
記者は照れ隠しのように、破れたハンチング帽子を深く被った。
「その少年って、売られたという竜人の? あの子は今どこに?」
「船に乗ってるよ。港の人足として働いていたところを外国船の船長に気に入られてね。ちゃんとした契約の元だから管理区に送られる心配はないよ。今頃はきっと、東回りで外洋に向かっているだろう。銀髪の魔法使いに会ったらよろしく伝えてくれって頼まれたんだ。竜人の味方をする人間も居ると知って、生きる希望が湧いたってね」
そこまで言うと、記者は腕時計を見、慌てて道端の車にカメラを放り込んだ。
「ちぇ、時間切れだ。今日も記事にならなかった。せめて赤毛美人の写真でも撮れたらなあ」
冗談まじりに言う記者に、オーリは真顔で答えた。
「あんたは竜人の話を聞く耳を持っているんじゃないか。もうくだらないゴシップ記事なんて止めたらどうです? お宅の雑誌が事実を曲げずに書くようになったら、いつでも喜んで招待しますよ」
記者は答えず、苦笑いを残して走り去った。
「記憶を書き換えたって……?」
ふと考えこんだオーリは、フッと愉快そうな笑いを浮かべた。
「いやまさかね。もう辞書は白紙化して確かめようがないわけだし。残念だな」
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