10-4
会場の外に出ると、オーリとステファンは、どちらともなく笑い出した。
「よくやったステファン・ペリエリ! あの時のカニスの顔といったら! 風刺画にして新聞に載せてやりたいくらいだよ」
空を仰ぐオーリは心底愉快そうに銀髪を揺らした。
「ぼくもスッとした。先生こそすごいや、あんな大勢の人の前でカニスをとっちめるなんてさ。エレインにも聞かせてあげたかったな」
「ばかいえ、膝が震えてたんだぞ。緊張が過ぎて人前で火花がパチパチ飛び出したらどうしようかと思ってたさ。カニスが先に杖を取り出してくれなきゃ、こっちが『違反』をするところだったよ」
二人で背中を叩き合ってひとしきり笑い合った後、ふとステファンは心配になった。
「先生、さっき最後にカニスが言ってたことだけど。まさか仕返しに、先生の絵を売れなくしたり……とか」
「あり得るね」
オーリは涼しい顔でうなずいた。
「あれだけ恥をかかされて大人しく引き下がるようなやつじゃないだろう。まあ今回の作品は売れるだろうから画廊側に損をさせることはないとして、問題はこれからだな。カニスがわめいてた事も、あながち不可能なことじゃない。絵が売れなくなったらどうするかなあ。トーニャにでも泣きついて、もっと挿絵の仕事を回してもらおうか?」
「そんな……」
他人事のように笑っているオーリを、ステファンは呆れて見上げた。
「理想はどうあれ、大人の世界は汚い。覚悟はしてるよ。どんな分野でも、多くの人がその汚い波にもまれながら、どこまで妥協してどこまで自分の誇りを守るか、そのせめぎ合いで毎日格闘してる。このオーリローリだって今は偉そうに言ってるけどね、かつては周りの大人に負けて、自分の魂を裏切るような絵を描いてた時期もあったんだよ」
「描きたくない絵を描いてたってこと? 絵描きさんって、好きなものを描いてるんじゃないんですか?」
「そうできるならいいんだけどね。大切なものはただ『好き』というだけじゃ護れないんだ」
オーリは苦い表情で黄金色に輝く木立を見上げた。
「そのうちに話してあげよう。ちょっと重い話になるからね、こんな気分のいい日にはそぐわない」
ヴィエークホールの周囲は並木道になっている。時おり灰色のリスが走り回るのを目で追いながら、そのうちっていつだろうとステファンは考えた。けれどオーリのことだ。必ず話してくれるに違いない。こういうのも時の試練てやつかな、などと一人で納得した。
「おしゃべりしてたら電車通りに出てしまったな。近くだから、ついでにW&Wユニオン本部に寄って杖を受け取ってこようか」
「え、杖って何の」
「君の杖に決まってるだろう!」
オーリに明るい瞳を向けられて、やっとステファンは思い出した。8月に申請した、魔法使いとしての最初の杖のことだ。
通りの向かい側に、息をひそめるように建つ細長い尖塔が見える。尖塔を見上げながら、オーリは指を弾いて黒いローブを取り出した。
尖塔のある細長い建物の中は昼間だというのに薄暗かった。埃と煙と古い薬油の混じったようなにおいが漂っている。ゴトゴトと足音のする木の床を進んで正面の事務机に向かうと、長い灰色の髪をした魔女が顔を上げた。
「杖の申請者だね」
オーリが口を開くよりも早く、魔女は丸い眼鏡をずりあげ、面倒くさそうに言って書類を広げる。
「ここにサインを。あんたもだよおチビさん」
おチビと言われて少しムッとしながら、ステファンは魔女の枯れ木色の顔をなるべく見ないようにして几帳面な文字を書いた。
「なんだね、そんなにたっぷりインクをつけちゃ乾きにくくってしょうがない。お若いの、あんたが師匠だね。杖は後ろの棚にあるから自分でお探し」
魔女は書類にインクの吸い取り紙をぐりっと押し付けて、何やら記号を書いた紙片をオーリに渡した。
「随分と手続きが簡素になったもんですね」
皮肉を込めたオーリの言葉など意に介さず、魔女は眼鏡の奥の黄色い眼を細めてため息をついた。
「今どきはこんなもんさね。ああ、昔は賑やかだったねえ。大勢の子が順番待ちで並んで、ちゃんと戴杖式なんてのもやったもんさ。あんたら若い者はそんなの知らないだろうね」
「いえ、わたしはギリギリ『戴杖式世代』ですよ――あった、これだ」
オーリは棚の中から杖の箱を選び出すと、蓋を開けて中を確認した。
「ちょっと古くないですか?」
「文句をお言いでないよ。このごろは新しく魔法使いになろうなんて子は滅多に居やしないんだから、杖職人もあまり作らないんだよ。なあに、古くたって力は衰えてないさ」
「杖職人がそんなんじゃ困るな……ステフ、こっちへ」
ステファンは促されるまま、部屋の中央で杖を捧げ持つオーリと向かい合った。
薄暗い部屋には高い位置にある窓から光が射して、床に描かれた円形の文様を照らしている。黒いローブを着た銀髪の魔法使いは光の中で厳かな表情をして告げた。
「ステファン・ペリエリ、今よりこの杖の主となって己が魔法を極めんことを……以下省略!」
ひやりとした感触の杖をステファンの手に載せると、オーリはいつもの顔に戻って片目をつぶってみせる。
――これが、初めての杖。
確かに、魔女の言う通り目に見えない力を感じるが、オーリのおかげで緊張がほぐれたせいか、恐いとは思わない。そっと自分の腕に沿わせてみると、肘から中指の先までとぴったり同じ長さだ。ステファンは手の中で呼吸を始めたような象牙色の杖をしっかりと握り締めた。
乾いた拍手音が部屋に響く。
「戴杖式の真似ごとってわけかい。さしずめあたしは立会人ってとこかね。おめでとう、おチビさ……いや、ステファン・ペリエリ。今日からはあんたもお仲間ってわけだ」
「あ、ありがとうございます」
ステファンは頬を紅潮させながら、改めて魔女の顔を正面から見た。枯れ木色の顔は不気味ではあるが、眼鏡の奥の黄色い眼は意外と人が良さそうに見えた。
「ただしそれはあくまでも『仮の杖』なんだからね。しっかり精進してなるべく早く本物の杖を持つことだ、自分の稼ぎでね。それとローブだ。だいたいあんたもねオーリなんとかさん、杖を受け取りに来るつもりならこの子のローブも用意してやるもんだろうに気の利かない師匠だよまったく」
魔女の機関銃のような台詞が終わらないうちに、オーリは肩をすくめてステファンを連れ、部屋を後にした。
明るい表通りに出て行く2人の年若い魔法使いを見送りながら、魔女はため息をついた。
「もう、時代は魔法を必要としてないんだ。あの子たちは最後の世代になるかもしれないねえ……」
* * *
4日後の聖花火祭の夜。
魔法使いも、竜人も、保管庫の中で眠っていたファントムも、この日ばかりは身分を偽らず、羽目を外して大騒ぎをする。川を挟んで対岸の村と花火を飛ばし合い、来るべき冬の前に、年に1度の馬鹿騒ぎが許される祭りなのだ。
ステファンは自分の杖を使って小さな花火を飛ばした。初めての杖を使って最初に覚えたのがこんな過激な遊びだなんて、とエレインは呆れ顔だったが、ステファンには嬉しくてしょうがない。箒だって今日は乗り放題だ。
オーリはステファン以上にはしゃいで、川の対岸に向けてガンガン花火を飛ばしまくった。当然、こちらにも花火は飛んでくる。護岸の枯れ草には水魔どもが走り回って霜が降りているし、川があるお陰で火事にこそならないが、時折火の粉が顔に散ってくるのが結構危ない。これで毎年たいした怪我人も出ないというのだから驚きだ。
祭りが最高に盛り上がってきた頃、凍りそうな夜空に大きな花火が綺麗な孤を描いて飛び始めた。ユーリアンたち火を操る魔法使いが飛ばしているのだ。
歓声をあげながら、ステファンの目に父オスカーの顔がふと浮かぶ。
2年前、父はこんな花火を見ながら、オーリの元へ訪ねて来たのだろうか。
――外なる鍵と内なる鍵、12の魔の目といまだ開かざる目、5つの12に時は満ちなん――
ソロフがオスカーの意識と繋がった時読み取ったという、呪文のような韻文のような不思議な言葉。何度も読み返し、書庫の本も思いつくままに調べてみたけれど、解らないままだ。
繰り返される『12』という数はもしかしたら、東洋の『十二支』と関係するかも、とオーリが言ったことを思い出す。年に12種類の動物の名前を付ける話はステファンの想像力を大いに刺激した。5つの12、つまり12種類の動物たちが5回巡ってくると60年。人はその齢に、暦をひと巡りして最初に還るのだという。オーリの父方の祖先たちは何と面白い考え方をするのだろう。けれど、それだとオスカーは60年も帰らないということだろうか? とても待てない。
「そーら飛んで来るぞ、ぼっとしてないで応戦だステフ!」
声を掛けられて我に帰ったステファンは、慌てて火の粉を避けた。すかさずオーリが杖を振り、オレンジ色の花火を飛ばす。それは飛びながら金色のドラゴンの形になって、敵陣を大いに慌てさせた。
そうだ、今年はドラゴンの名前のついた年だとオーリは言っていたっけ。それも、あと2ヶ月足らずで終わってしまう。あの花火の光のように、つかまえようとしてもあっという間に消えてしまう、時間というものの不可思議さ。
ねえお父さん、と心で呼びかけてみる。ぼくは自分の杖を手にしたよ、早く見せてあげたい、と。
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