5 忘却の辞書
5-1
――いい匂いがする。
お母さんが夕食のスープを煮ているのかもしれない。
いつのまにうたた寝してしまったのだろう。
起きなきゃ。
「ステフ、ステファン」
懐かしい声が、すぐ傍で聞こえる。
大きなあたたかい手が、額に触れている。
お父さん、帰っていたんだ――
パチパチッ、と金色の火花が頭の中に飛んで、ステファンは目を開けた。
「や、おはよう。それともお帰り、というべきか」
水色の目がのぞきこんでいる。
そうだ、ここは両親と暮らしていた黄色い屋敷ではない。額に手を触れているの
は、父ではなくオーリだ。
途端に意識が鮮明になって、ステファンは慌てて起き上がろうとした。
「ああ、急に起きないほうがいい。頭痛がするだろう」
確かに。頭の中で調子っぱずれの音叉が鳴り響いているようだ。再び枕に沈み込むしかない。
オーリはクッションをいくつか抱えてきて、ステファンの上体が起こせるようにしてからコップを差し出した。
「とりあえずは水だ。それから食事、と言いたいが三日ぶりじゃ胃にこたえるな。マーシャが今スープを用意してるよ」
「み、三日も寝てたんですか?」
コップの水を一気に飲み干してむせながら、ステファンはバツが悪い思いになった。
「正確に言うと、書庫に立てこもってから一日半、出てくるなり眠り込んで一日半。ファントムから聞いたよ。書庫でとんでもない透視をしてみせたって?」
「ええっと……」
ステファンは思い出そうとしたが、一度にいろいろな事柄が頭に浮かび、どれから話していいかわからなくなってしまった。
「うん、ぼく謝らなきゃ。先生、約束破ってごめんなさい。No.5の鍵をひとりで勝手に開けちゃったんだ」
「そうだ、想定内の約束違反だ」
オーリはニヤリとした。
「けど、保管庫に入ってからのことは思いもよらなかった。無茶というか、無謀というか、途方もないな。悪いけど、寝てる間に記憶を見せてもらったよ。教えてもないのにあんな危険な魔法なんてやっちゃダメだ!」
「あれって魔法、だったんですか?」
「やれやれ、無自覚にあんな力を出したっていうのか。いいかい、あれは同調魔法といってね、モノや文字に刻み込まれた記憶に入り込んで追体験するやり方だ。訓練を積んだ大人の魔法使いだって、気をつけないと意識を引っ張られたまま戻れなくなることがあるんだよ。現にそれで廃人になった奴もいる。ファントムが道案内になってくれなかったら、君は今頃どうなってたか」
ステファンはぞっとした。仮面のファントムに『今に壊れるぞ』と言われた意味が、初めてわかった。
「オスカーが居なくなったうえに君までどうかなってしまったら、残されたお母さんが可哀そうすぎる。あんまり突っ走るなよステフ。何のために師匠がいるんだい」
ベッド脇に腰掛けたオーリは、なぜか顔を向けずに、手だけ伸ばしてステファンの頭をがし、と捉えた。父と同じにおいがする。
「こんな頼りない師匠でもだ」
そう言って振り向いたオーリは、急に銀髪を揺らして顔をしかめた。
「悪かった!」
叱られたパグ犬のような表情の師匠を見て、ステファンは面食らった。子どもに謝る大人なんて初めてだ。
「せっかく修行に来たのに、最近ずっと家の中がギスギスしてて君は辛かったよな。才能だ教育だとミレイユさんにえらそうなことを言って、強引に連れてきておいてこのざまだ。大切なオスカーの息子なのに……議論の場所は選ばなきゃ、ってエレインとふたりで反省したんだ」
あのエレインも反省するんだ、と驚いていると、オーリは自然と田舎なまりになって話を続けた。
「君もうすうす気づいてるとは思うけど、僕の目は人の心を読んじまうことがある。だから他人との
やっぱりなのか、とステファンは思った。それってずるくはないのか。
「けどエレインだけは別だ、どうしても心が読めない。まして彼女は竜人だから、僕ら人間とは違う考え方をする。それが良い時もあれば、悪い時もある。言葉を尽くして理解し合わなきゃって頭ではわかってるんだけど。お互い感情的になっちまったらどうにもね……対等に考えを伝え合うってのは、こんなに難しかったんだな」
「ええ、先生でも難しいことあるんだ?」
「あるさ。まだまだ修行が足りないって痛感するよ」
オーリがあまりにしょげた顔を見せるものだから、ステファンはいたたまれなくなってきた。
「ステーフ! 起きた?」
赤いつむじ風のように、エレインが飛び込んできた。返事をする間もなく、オーリからステファンをひったくると、
「生きてる! 生きてる! 良かったぁ!」
と、骨も折れんばかりに頬ずりしてくる。最初に会ったときと同じだ。どこが反省してる、だ? ステファンは必死で突っ張った。
「痛い痛い、頭が割れるっ」
「そのくらいは我慢しろステフ、エレインのハグなんて贅沢なんだぞ。さあもうお互いに『ごめんなさい』は終わりだ!」
オーリはいつもの笑顔に戻って両腕を広げ、二人を一度に抱きしめた。
「坊ちゃん、スープを……おやまあ」
スープの盆を持ったマーシャが、子供部屋で大騒ぎする三人を見て呆れ、それから袖口でスン、と鼻をすすった。
――なんだ、ケンカしても仲直りってできるもんなんだ。
ステファンはもみくしゃにされて笑い転げながら、今さらのように帰ってこられて良かった、という思いをかみしめた。
それに両親以外にも、自分を大切に思ってくれる人たちがいるのは、うん。なかなか悪くない。
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