4-2

 本の世界にどっぷりつかっている頭の上で、突然けたたましい笑い声が響いた。ちょうどモンスターの話を読んでいた最中だったので、ステファンは心臓が止まりそうになった。

「な、な、何? だれっ?」

 笑い声の主は、道化の仮面だった。書架の最上段からニタァと笑いかけると、そのまま向こう側へ姿を消す。。

(あいつは……!)

 見覚えのある仮面だ。たしか、オーリの保管庫No.2から覗いていたやつだ。ケタケタと笑う声が、書庫の中で遠くなったり近くなったりしている。どうやら独りで勝手に飛び回っているらしい。

(ファントムとかいったっけ。なんであいつが外に?)


 いやな予感がして、ステファンは急いで本をしまうと後を追いかけた。仮面は天井からの光を反射しながらひらひらと宙を舞い、時おり書架の端っこに止まってステファンの様子をうかがっている。けれどステファンが手を伸ばすと、あと少しのところで逃げてしまう。

 何度も追いかけては逃げられ、さんざん走り回って、ステファンはだんだん腹が立ってきた。

(あいつめ、ぼくをからかってる! よーし見てろ)


 ステファンは目を閉じると、出来るだけ長く息を吐き出して気持ちを落ち着かせた。そのまま息を止めて意識を集中し、こらえられなくなったところで目を開くと、一気にまわりの光景が変わった。本も書架も全てが透明になり、二列向こうでゆらゆらしている仮面だけが、くっきりと見える。ステファンは大きく息を吸い、腹に力を込めて叫んだ。

「ファントム、つかまえた!」

 途端に仮面は天井に叩きつけられ、そのまま床に落ちた。

 

 ステファンは息を切らしながら仮面に近づき、拾い上げた。カタカタと玩具のように揺れてはいるが、仮面のファントムはもう逃げる気はないようだ。

「ごめん、力加減がわかんなかった。いじめっ子にノート盗られた時なんかに使った手なんだ」

「ケケケ、コリャ、オーリヨリ酷イ。オマエ、気ニイッタ」

 ファントムは楽しそうにつぶやいた。

「ど、どうも。ねえ、なんで外にでてるの? 君は待機中、って先生に言われてなかった?」

「ノン、ノン、ファントム、答エナイ。ファントム、知識ハ与エナイ」

 外国語なまりの妙なしゃべり方だ。ステファンは言い方を変えた。

「外に出ちゃいけないんだよ。保管庫に帰ろう」

「ウィ」

 

 案外素直なんだな、と思いながらステファンは奥へ向かった。さっき周りが透明になった時に気配を感じたから方向はわかっている。ほどなく保管庫No.2が収められた書架に辿り着いてから、ステファンは重大なことに気付いた。

「ファントム! 君が外に出てるってことは、No.2の鍵が開いてたってこと?」

 保管庫は危険な順に2から4まで……オーリの言葉を思い出して、ステファンはぞっとした。一番危険な本じゃないか!

 恐る恐る、No.2の本を取り出してみた。が、表紙はしっかりと閉じている。鍵が開けられていないのを知って安堵する間もなく、ステファンは再びぞぉっとしなければならなかった。

(どのみち、ファントムを戻すには鍵を開けなけりゃいけないんだ)


 再びけたたましい笑い声が響いた。

「ファントム、鍵イラナイ。ファントム、自由」

 そういうが早いか、ステファンの手をすり抜けて舞い上がる。

「あ、こら!」

 捕まえようとしたステファンの目の前に、No.5の本がどさりと棚から落ちてきた。ファントムはその表紙に降り立つと、ニタニタ笑いを浮かべたまま吸い込まれるように消えていった。

(うそだろ?)

 

 ステファンは信じられない思いで「No.5」の金文字を見ていたが、しばらくすると猛然と腹が立ってきた。

「出てけよファントム! そこはお父さんの保管庫だ、君の部屋じゃない!」

 迷わずNo.5の鍵を開け、表紙を開いたステファンは息を呑んだ。

 眩い空。陽の光を反射する湖と、風に揺れる広葉樹の森――

 明らかに、父のコレクション部屋とは違う。目を閉じて頭を振り、もう一度中を覗き込んだステファンは、急にめまいを起こした。

(しまった、さっきあんな力を使ったせいだ――)

 忘れていた。学校に通っていた頃、いじめっ子に盗られた物を取り返せたとしても、その後ステファンは必ず気分が悪くなってしばらく歩けなかったのだ。

 頭の中を冷たい手で絞られるような感覚が走り、目の前が緑色になる。慌てて何かに掴まろうとしたが、伸ばした左手は空を掻いて、ステファンはそのまま本の中へ落ちていった。  


 落ちる。

 何かの強力な圧力に押しつぶされそうになりながら、どこまでも落ちてゆく。

(苦しい。潰される!)

 ステファンはもがきながら、自分を押しつぶそうとしているのが膨大な言葉の渦だという事に気付いた。

 言葉。言葉。言葉。 

 脈絡のない言葉が列を成してステファンの中に流れ込もうとしている。頭が割れそうだ。息ができない。

「全テヲ受ケ取ロウトスルナ。見ルベキ物ニ目ヲ開クンダ」

 ファントムの声と共に、ひやりとする金属の感触を顔に感じた。途端に、ステファンの呼吸は楽になり、言葉の渦はおりが沈んでいくように形を整えていく。

 

 風の音。

 木々の揺れる音。

 恐る恐る片方ずつ目を開けたステファンは、自分がまだ空中に居ることを知った。


(ここは?)

 不安定な姿勢のまま首を曲げて周囲を見回すと、眼下に森や湖が見える。空の一部が窓のように四角く切り取られ、そこからはさっきまで居た書庫が見えた。そうだ、『保管庫』の中に落ちたのだ、とステファンは思い出した。

 あの四角い窓は本の入り口だ。なぜここが別世界のようになってしまったのかは知らないが、あの入り口に辿り着けば書庫に帰れるはずだ。

 そう思って左手を伸ばすのだが、身体はまるで風に煽られる木の葉のようにくるくると舞って、思うように動けない。もがいているうちに、入り口は次第に遠ざかってしまった。

 

 風が吹く。ステファンは上下の感覚もなく吹き飛ばされ、気が付けば森も湖も飛び越して、岩だらけの荒れ野の上を飛んでいた。

 ふと下を見ると、岩陰に人が居る。黒髪で彫りの深い顔立ち――見覚えのある顔だった。

(お父さん!)

 ステファンは目を疑った。家に居た頃より随分若く見えるが、間違いない。オスカーは岩から岩の距離をメジャーで測り、目を輝かせて手帳に何かを書き込んでいる。

(お父さん、お父さん!)

 懸命に大声で呼びかけるのだが、遠すぎるせいか、強い風のせいか、耳には届いていないようだ。

 

 どう、と風が吹く。再び吹き飛ばされたステファンを強い太陽光が照らした。風がいやな臭いを運び、皮膚がひりひりとする。明らかにさっきとは違う場所だ。赤茶けた土の上を、銃を背負いヘルメットを被った人影が通り過ぎる――オスカーだ。ここにも父が居たことを不思議に思う暇もなく、ステファンは必死に人影を追った。

「ようオスカー、そっちは?」

 誰かに呼びかけられ、振り向いた顔を見てステファンは驚いた。さっき見た時のオスカーとは違う。顔中に髭が伸びていて、頬がこけている。

「ひどいもんだ。遺跡を銃座にしてる連中まで居たよ」

「どのみち、こんな戦争もうすぐ終わりさ。早く本国に帰って赤ん坊に会いたいだろう?」

「もちろん。もう名前も決めてある。ステファンというんだ」


(どういうことだろう……)

 再び風に飛ばされながら、ステファンはさっきオスカーが言った言葉を思い出していた。

(ぼくが赤ん坊って? それに戦争って? 大きな戦争なら、ぼくが小さい頃に終わったって聞いたのに)

 何度も違う場所に飛ばされ、その度に違うオスカーを見た。ステファンはもう父に呼びかけようとはしなかった。

(そうか、ここはお父さんの思い出の中なんだ。ぼくの声は届かない。木の葉みたいに飛びながら見ていることしかできないんだ……)


 ふと風が止んだ。ステファンは見覚えのある場所に立っていた。

「ステファンこっちへいらっしゃい、いいお天気よ」

 長い金髪の小柄な女性が、芝生の上で呼びかけている。その灰色の目を見て、ステファンは驚いた。

(お……お母さん?)

 

 輝くような笑顔をした、若い母がそこに居た。母がこんな風に髪を下ろした姿など、しばらく見ていない。ステファンにとって母ミレイユは、常にぴっちりと髪を結い上げ、凛とした眼差しで家を取り仕切る厳格なイメージしかなかった。

「おや、日光浴かい? そうだ、フィルムがまだ残っていたから写してあげよう」

 カメラを手に現れたのは、ステファンの記憶に残る通りの父だ。

 それを見て、好奇心いっぱいの顔でちょこちょこと走ってくる幼子がいる。

(あれは……ぼく?)

 確か三歳くらいの頃だ。ここは黄色い屋敷の中庭に違いない。この日のことは覚えていないが、柔らかな陽射しの中でカメラを向ける父の姿だけは、妙に覚えている。

「ステファンだめだよ、そんなにカメラに近づいちゃ写せないよ」

 オスカーが笑いながらシャッターを切る。その隣で声をあげて笑うミレイユ。

 

 こんな日もあったのだ。

 こんな明るい母もいたのだ。

 見ていると鼻の奥がきいぃと鳴り始める。

「お父さん! お母さん!」

 聞こえないとわかっているのに、ステファンは叫びながら思わず駆け寄ろうとした。


 カラン。

 金属の落下するような音を立てて、顔に貼り付いていた物が外れた。と同時に、目の前の全てが消えた。

「フウ、危ナイ危ナイ」

 茫然としているステファンの足元で、鈍く光る仮面が笑っている。

「ファントム!」

 ステファンの息はあがり、頭はガンガンしていた。見回すと、ここはNo.5の保管庫の中だ。

 目の前の床には一冊の分厚いノートが落ちている。ファントムは舞い上がり、ノートの上に降りた。

「弱虫、泣キ虫、過ギタ時間ハ戻ラナイ」

「なんだよ!」

 ノートの上からはたき落とそうとするステファンの手を、ファントムはたやすくすり抜けた。カンに障るような笑い声が響く。ステファンは構わずに、ノートを手に取った。見覚えのある文字と写真が並んでいる。

「これ、お父さんの字だ……」

 

 各地の遺跡を研究していたオスカーは、その記録を克明に残していた。さっきステファンが飛んでいたのはまさに、このノートに記録されている場面だ。だが最後のページに貼り付けられていたのは、遺跡ではなく、無邪気な笑顔を向ける幼いステファンの写真だった。

「他には? この続きはないの?」

 薄暗い保管庫の中には、まだ整理のついていない魔道具と共に古文書やノート類が積み上げられている。ステファンはその中にオスカーの筆跡を探した。

「探サナイホウガイイ」

 ファントムの声など無視してステファンは探し回ったが、ふと思いついて、本の山に呼びかけた。

「ステファン!」

 すぐに、何冊かが反応して光り始めた。ステファンはその光を頼りに、片っ端から本を開いてみた。

 おおかたは古い聖人の名であったり、外国の作家名であったりしたが、やがて一冊の日記帳らしい本を手にして、ステファンの動きが止まった。

「ヤメロ!」

 ファントムの声が遠ざかる。ステファンは再び本の中に自分の意識が落ちていくのを感じた。

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