4 保管庫No.5
4-1
ユーリアンの言葉は的を射ていたかもしれない。
新月を過ぎてもエレインの機嫌は良くなるどころか、ますます過激になってきた。
夏場の水を悪くする水妖と無害な水妖の見分け方をオーリが説明していた時、傍の古井戸にいきなり大きな水柱が上がって、ステファンとオーリの上に大量の水が降り注いだ。
「また君か、守護者殿」
濡れ鼠で憮然とオーリが言う先で、エレインが緑色の水妖の首を捻ろうといる。
「そいつは絶滅危惧種だぞ。害があるからって首をへし折るなよ」
「なによ、面倒くさいことばかり言って。数が少ないから、滅びそうだから情けをかけろって? で、こいつらが増えたらまた違うことを言うの?」
オーリはエレインに構わず、杖を向けて水妖を解放してやった。
「フン、生かすも殺すも人間の都合ってわけ。勝手なもんね」
険悪な雰囲気を察してか、マーシャがステファンを家の中に連れて行ってからも、しばらく言い合いは続いた。
一事が万事こんな調子だ。何かがおかしい。噛み合ってない。それが何なのかわからないけれど、不機嫌な声を聴くたびに、ステファンの胸の中に冷たい黒雲のようなものが広がる。それはとてもおそろしいものだった。
オーリはオーリで新しい仕事が忙しいらしく、楽しみにしていたオスカーのコレクション整理はなかなか進まないでいた。
「あたしにどうしろっての! オーリの言ってる事なんてわっかんないよ!」
庭から戻ったステファンの耳に、エレインの声が突き刺さった。さんざん大声で怒鳴り散らした挙句森に消えていく後ろ姿を見て、ステファンはとうとうオーリに抗議した。
「先生、エレインとケンカしないで!」
「どうしたステフ、泣きそうな顔して……エレインなら大丈夫だよ。あんなのケンカでもなんでもない」
「うちのお父さんも前はそういってたんだよ」
そうだ。冷たい雲の正体はこれだ。せっかく頭から追い出したつもりでいたのにと思うと、涙が浮かんでくる。
「平気そうな顔で『ステファン大丈夫だよ、お母さんとはケンカしてるわけじゃない、意見が合わないだけだよ』って。でも結局お母さんは、離婚とか言い出しちゃったし」
オーリはマーシャと顔を見合わせた。
「まあま坊ちゃん、オーリ様たちは心配ないですよ、いつもすぐ仲直りなさってます。それに魔法使いと守護者の契約は絶対ですから」
「そういうこと言ってるんじゃなくて!」
うまく言葉が出てこない。こぶしを固めていると、ぷるぷると震えてきた。
オーリはじっと見ていたが、やがて冷ややかに返してきた。
「余計な心配させて悪かったね、ステフ。でも君の両親の問題と一緒くたにされては困るな」
「オーリ様、そんな」
「黙って、マーシャ。わたしは彼が子どもだからって気休めを言うつもりはない。いいかいステファン・ペリエリ、君が両親のことで傷ついているのはわかる。でもそれとこれとはまったく別の問題だ。誰だって辛い事のひとつやふたつは抱えている。でもそれは各々で向き合うしかないんだ。今のエレインの問題は、わたしとエレインで解決するしかないんだよ」
「大人の話だから、子どもはだまっていなさいってこと?」
ステファンは目に涙を溜めたままオーリを睨んだ。
「意見するのは君の勝手だ。でもわたしたちは議論を止めるつもりはない、と言っているんだ」
ステファンは弾かれたように階段を駆け上った。
ポケットの中で鍵束ががちゃがちゃ鳴っている。ステファンはそれを取り出すと、No.1で書庫のドアを開け、砦に立てこもるように飛び込んで鍵を閉めた。
しんとした書庫の中でドアを背にすると、悔しくて涙が溢れてきた。
どうして大人達は、
母ミレイユが凍るような声で父に告げた言葉が蘇る。思い出すまいとしてもそれは耳の奥で冷たい針のように引っかかり、何度も頭の中で反響した。
目の前には迷路のように書架が並んでいる。ステファンは腹立ち紛れに、奥へ、奥へとやみくもに進んでいった。
オーリとエレインがお互いを好きだってことくらい、見ていればわかる。じゃあ仲良くすればいい。ずっと仲良くしていればいいのに。
家の中で怒鳴ったり言い争ったりするのを聞くのは、もう嫌だ。オーリの顔も、エレインの顔も見たくない。あんな突き放した言い方をするなら、もう心配なんかしてやらない。オーリは父と同じ世界を持っている人だと思っていたけど、やっぱり違う――怒りを含んだ塩辛い涙は、いくらでも溢れてくる。
無性に父に会いたい、と思った。父オスカーなら、こんな時、何と言ってくれるだろう。
ステファンは書庫の一番奥にあるNo.5の『保管庫』を探した。
書庫の中は、ぼうっと明るい。照明があるわけではなく、天井自体が発光しているのだ。
何度も来ているので、書架の並びはだいたい覚えている。一番奥まで行けば、No.5の本は簡単に見つかるはずだと思った。
ところが今日に限って、保管庫の本はバラバラな場所に置かれているようだ。No.3と4はすぐに見つかったが、No.2と5がなかなか見つからない。オーリが適当に置き換えてしまったのだろうか。角ごとに『原色妖精一覧』や『近代魔法陣デザイン』といった派手な背表紙の本を目印にしていたはずだが、ぐるぐる歩き回って同じ本をもう三度は目にした。
堂々めぐりだ。書庫の中で迷子になるとは。
ステファンは周りの本を見上げ、クスリと笑った。この感じは『王者の樹』の森で迷った時によく似ている。ただ、あの時のような怖さはない。むしろ何時間でもここに居たいような心地よさを感じる。
「よーし、お父さんの本は後からゆっくり探そう。どうせ外へ出ても先生と顔を合わせると気まずいだけだし、しばらく遊んじゃうか」
涙の跡がひりひりする顔を手の甲でぬぐうと、ステファンは深呼吸した。
保管庫の本は危険な順にNo.2からNo.4まで。だったらNo.4なら、ちょっとくらいひとりで開けても大丈夫なんじゃないか? ステファンは鍵束をしばらく見ていたが、いや、だめだと思い直して別の遊びにとりかかった。
「そうだな、まず……『妖精』!」
言葉に反応するように、あっちこっちで微かな光が生まれた。
が、まだぼんやりしてる。もっと絞り込まなくちゃいけない。
目を細くして一番近い光に神経を集中する。光はしだいに範囲を狭め、一冊の本を照らした。手に取り、ぱらぱらとページをめくったステファンは、一点を指さした。
「みーつけた!」
ステファンの指先で『fairy』の文字が光っている。
これは父が教えてくれた遊びだ。ステファンは小さい頃、こうして文字や単語を覚えた。ただし、母の前でやってみせると血相を変えて叱られたが。
『妖精』の言葉に反応した本は何冊もある。ステファンはそれを片っ端から取り出しては読み、飽きればまた別の言葉で本を探した。
ステファンにとって、本を読むという行為は遊びと同じだ。こんな本の森のような書庫にいつまで居るのだろうとか、お腹がすいたらどうするのだろうとか、今は一切頭にない。ただ言葉を追いかけ、つかまえ、運が良ければ面白い文章に出会って、そのまま読みふける。こんな楽しい遊びをどうして止められるだろうか。
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