1-2
「いいねアトラス、翔ぶには絶好の風だ!」
ステファンの頭越しに、背後からオーリが叫んだ。
「でしょう先生! もうすぐ虹が出ますぜ」
オーリはいつのまにか、ステファンの両手の外側からロープを掴んでいる。
強い風を受けていると、ふと前にも同じような事があったような気がした。
そうだ、思い出だした。父のオスカーと初めてスクーターに乗った時だ。
小さかったステファンは、父の両膝の間でステップに立って、ハンドルを握らせてもらったのだ。その手の外側で大きな父の手がハンドルを握った。実際に運転しているのは父なのに、まるで自分がスクーターを運転しているような気分になれた。あの時の爽快だったこと。
もちろん、そんな危険な乗り方をしちゃいけないことは知っていたけど。後で母にこっぴどく叱られたけど。
「ステファン、虹だ、虹」
オーリが指差した先に、大きな二重の虹がかかっていた。
「うわああ先生、ぼく、虹を追っかけて翔んでる!」
「翔んでるのは俺だがな。しっかり楽しめよ!」
アトラスはご機嫌のようだった。
「おっと、風が変わった」
アトラスは首をひねり、いきなり斜めに旋回した。
「ひややぁぁぁ!」
「こんくらいでわめくなチビ、見せ場はこれからだぃ」
いきなり身体が宙に浮く感じがしたかと思うと、アトラスが急降下を始めていた。
「わああ墜ちる、墜ちるーっ」
息ができない。恐慌だ、最悪だ! ステファンはロープを離してしまい、慌ててオーリの腕を掴んだ。
「だらしないぞステファン、ひゃーっほほうー!」
オーリはと言えばむしろ楽しそうに頭の上で叫んでいる。
「とめてとめてとめてーっ!」
叫んだところで止まるわけがない。怖さに耐え切れず思わず目を閉じる。目じりから涙か何かわからないものが上へと散っていく。何度か母を呼ぶ言葉を叫びそうになったが、歯を食いしばりかろうじて我慢した。
いつまで続くのだろうこのまましんじゃうんだろうか、と思い始めた頃、胃の底にぐんと重力を感じて、ステファンは再びアトラスが上昇を始めたのを知った。
「よーし、風に乗った。アトラス、さすがだ」
「へへっ、造作もないさ」
ふたりの会話がぼんやりと頭に届く。
「ステファン、いつまでしがみついている? しっかり目を開けて見ておかないと損だよ」
頭を小突かれて恐る恐る目を開けると、いつのまにか虹は消え、夕空の中を飛んでいた。
「すごい……」
ステファンはひととき、怖さを忘れた。
周り中が黄金色と紫の糸で染め上げた織物のようだ。刻々と姿を変える雲はプラチナ繊維の縫い取りか。シルエットになった家々の屋根は藍色の裾模様か。見とれている間にも西側の空がまた輝きを変える。
このうえなく贅沢なローブを羽織り、自然という名の偉大な魔法使いが天空を駆けてゆく。
「ああ悔しいな、あのグラデーションはとても表現できないな……」
言葉とは裏腹に、むしろ嬉しそうなオーリのつぶやきが聞こえてきた。
黄金の夕空の中を縫うように、アトラスは巧みに風を読み、上昇気流に乗り、そしてまた降下、それを繰り返す。
たしかにまだ怖い。怖いが、だんだん背骨の芯がかゆくなる。
がまんできずステファンは笑いだした。
「ハハ……ハハハハハ」
「そうだステファン、笑え笑え、大声で笑え」
「ハーッハハハハハ!」
最初はなんで自分が笑っているのかわからなかった。が、だんだん本当に愉快になって、いつの間にか大声で笑っていた。なんだか笑い声につられて、身体中から余計なものが吹き飛んでいく。
「アトラス、家まであとひと息だ、そのまま西へ」
「おうよ!」
頭ごしにオーリとアトラスが大声でやりとりしているのさえ、今は小気味いい。
「わぁおおうー!」
拳を振り上げ、ステファンも叫ぶ。怖さなんてもうどうでもいい、ただ心のままに、小さな竜のように叫びたかった。
夕風を受けながら、アトラスの翼は力強く羽ばたき続けた。
やがて眼下に、森に囲まれた一軒の白い家が見えてきた。
アトラスはその上を何度か旋回し、風を巻き上げながら庭に降り立った。腹に響く音と共に振動で庭木の枝が揺れる。
「ご苦労さん、アトラス。いい飛行だったよ」
「なかなかどうして、先生もやるもんだな」
「今日はエレインも居るからゆっくりしてってくれ。中庭に酒樽を用意させてる」
「エレイン
ふたりの会話を聞きながら、ステファンは苦労して地面に降りた。
脚がまだ震えて力が入らない。でもそれは、怖さからだけではないようだ。
「ありがとう、アトラスさん」
ステファンは黒い翼竜の顔を、尊敬を込めて見上げた。
その表情を見てオーリは満足そうに頷くと、腰をかがめ、ステファンと目を合わせて言った。
「ウォームアップ終わり!」
「え?」
「修行の準備だよ。なかなかいい声で笑えるじゃないか。赤ん坊が言葉を覚える時も、まず笑う事から始めるんだ。魔法も同じこと。口先で呪文を唱えるんじゃない、腹の底から声が出せるくらいでなくちゃ。君は、ここしばらく大声で笑った事がなかったんじゃないか?」
なんでそんなことがわかるんだろう、とステファンは目を見開いた。
「チビ、うまく操ってくれた先生に感謝しろよ。俺ひとりじゃとっくに振り落としてたぜ」
からかうようなアトラスの言葉に改めてオーリの顔をよく見ると、額に玉の汗が浮かんで、息が少しあがっている。アトラスに自由に飛びまわらせているように見せて、実は相当な力を使って操っていたのかもしれなかった。
「あ、ありがとうございました」
ステファンはぴょこんと頭を下げた。
オーリはおかしそうに声を立てて笑い、ステファンの背中を押して、後ろの白い家を指し示した。
「そーら、あれが魔法使いの家ってやつだ」
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