修行は異なもの
1 翼竜に乗って
1-1
車がぶどう畑を過ぎ、パッチワークのような田園を抜け、ペリエリ家の黄色い屋敷が見えなくなったところで、オーリは突然笑い出した。
「プッ、ハハハハハ」
「せ、先生?」
「ああ疲れた。どう、うまくいっただろう。君の母上には悪いが、暗示に掛かりやすい人って居るもんだね。あとは魔法の効力が消えた時に誘拐罪で訴えられないよう祈るのみ!」
オーリはひとりでぺらぺらしゃべると、またふき出した。
「あのう……」
ステファンは面食らった。ついさっきまで母と話していたのとは別人のような態度じゃないか。なんだろう、この人は。
客間で話していたときは、紳士らしくとても落ち着いて見えた。若くても大人はこういう話し方をするのだと、ステファンは尊敬の思いさえ持って見ていた。けれど今、後部座席で腹を抱えて笑っている、この姿は?
「先生あの、もしかして最初から……」
「そう、オスカーに頼まれてたんだ。息子を外の世界へ連れ出してくれってね」
「お父さんに?」
思わず大声が出た。母にさえ連絡をよこさない父が、自分のことを親友に頼んでくれた、それだけでどきどきしてきた。
「先生、お父さんと会ったんですか」
「いや……」
オーリは一瞬表情を曇らせ、ローブの内ポケットから半分焼け焦げた紙片を取り出してステファンに渡した。
「読んでごらん」
親愛なるオーリ
この手紙を読んでいると言う事は
僕はまだ帰れないままということか
自らの心の命ずるままに探求の旅を続け
ミレイユには随分と叱られてきたが 悔いてはいない
ただ気掛かりなのは 息子のステファンのことだ
彼には僕以上の素質がある 才能といってもいい
ただミレイユには理解できないだろうと思う
オーリ もし僕があと2年のうちに帰れなかったら
君に息子の将来を託したい
勝手な頼みで申し訳ないが
外の広い世界で存分に力を発揮させてやってくれないか
……
焼け焦げた手紙はそこまでだった。
「お父さん、どこでこの手紙を書いたんですか……」
ステファンは懐かしい父の文字を一文字ずつたどりながら読んだ。
「読めるんだね」
オーリは信じられないという顔でステファンを見た。
「実はこの文字は、普通の人が見たら意味不明の記号にしか見えない。君にはちゃんとした文字として読める、つまりそういう目を持っているということだ。わたしやオスカーと同じように」
「どういうこと?」
「魔法使いの目、とでも言おうか」
水色の瞳は怖いほどじいっとステファンを見据えている。
冗談を言っているふうではなかった。
「魔法使い……まさかお父さんも?」
「職業として、という意味では違う。ただ、力があったのは確かだ。本人はあまり自覚してなかったけどね」
ステファンはくらくらしてきた。何もかも初めて聞く話ばかりだ。
「お母さんは知っているんですか」
「残念ながらミレイユさんは知らないし、理解しようとしない。魔術だの魔法だの、はなから信じてないからね。
オスカーもわたしも、なんとか分かってもらおうと努力はしたんだよ。今日も最後の賭けとしてこの手紙を見せたが、無駄だった」
あ、あの時か、とステファンは思い出した。
客間のドアから透かし見ていた時。手紙に興味なさげな母に、それを見せて、と言いたかった。
「間違えないでもらいたい。君の母上を悪く言ってるんじゃないよ。信じるものが違うだけだ。今日わたしを招いてくれたのも、最大限の譲歩だったんじゃないかな。だから、そのチャンスを無駄にするまいと思った」
「それであの、お父さんはどこ?」
「わからないんだ」
オーリは悔しそうに額に手を当てた。
「この手紙をオスカーから受け取ったのは一昨年だ。いろいろ手を尽くして彼を探して来たんだが。残念ながら、手紙の後半も焼け焦げてるし、手掛かりが少なすぎる。
でも、親友とも兄とも思っているオスカーの頼みだからね、こうして来た。
今日、君の様子を見てたら、もうこれ以上は待ってはいけないと思えてきてね、少々強引だが連れ出させてもらったよ。
しかしここまで上手くいくとはね! ひょっとしてわたしは、画家よりペテン師に向いているのかな」
オーリはまた人懐こい笑顔になったが、すぐに改まった姿勢で問いかけた。
「ステファン、君は今日からこのわたし、オーリローリの元で魔法使いになるべく修行をすることになる。おとぎ話じゃなく本物の、職業魔法使いの道に進むんだ。さっきは勢いでことを運んでしまったけど、本当のところ、どう思ってる?」
念を押されて、今さらながら自分はとんでもない選択をしてしまったかも、という不安がちらっと頭に浮かんだ。
「ぼく……」
どう返事するのが正しいのか。父の手紙を見、窓の外を見ると、車は二つに分かれた田舎道にさしかかろうとしている。さっきのどきどきはまだ続いている。だが嫌な感じじゃない。ステファンは息を吸い込み、ひと言ひと言なるべく丁寧な発音で答えた。
「やって、みたいです。魔法の勉強、というか、修行」
「よし、よく言った!」
オーリは嬉しそうに拳でステファンの肩をトン、と突いた。
「実際にやってみればわかる。君のように物の本質が見えてしまうのは、相当な……まあいいや、難しい話はあとあと」
いつのまにか雲間から陽が射している。オーリは光のほうへ顔を向けた。
「ふむ。雨も止んだし、ここらでいいかな。アトラス、止めてくれ」
運転手に声を掛けて車を止めると、オーリは自らドアを開けて車を降りながら、ステファンを促した。
「ちょっと降りて」
ステファンは訳が分からないまま、オーリに続いて車を降りた。
「先生、列車の時間に間に合わなくなるんじゃ……」
「列車? まさか。君はせっかく魔法使いと旅をするのに、空くらい飛んでみたくはないの」
「とぶ?」
オーリの手に何かが光った。ペンかと思って目を向けたステファンの前で、長い指がそれをくるっと回し、車を軽く叩いた。
「もういいよ、アトラス」
声に応えるように、鼓膜に沁みる音を立てて空気が震えた。と、たちまち黒い車は盛り上がり膨れ、巨大な生きものの姿に変わる。
「うそ……!」
ステファンは自分の目を疑った。
逆光の中で長い首が伸びた。
黒い溶岩弾を思わせる頭部に口が開き、牙が二列に並んでいる。全身が黒光りする外皮に覆われ、尻尾の内側にはステファンのトランクがしっかり結わえ付けられている。何よりも驚きなのは——翼だ。絵本で見るドラゴンのような、尖った翼を持っている。まぎれもなくこいつは翼竜だ。
翼竜は背伸びするように翼を拡げると、器用に折りたたんで向き直り、ぬうと首を突き出して、金色の眼でステファンを見た。縦長い光彩はどこまで見透かしているのか。ステファンは震えあがった。
「オーリ先生、今日はまたえらいチビのお客で」
「わぁ、しゃべった!」
「そりゃあしゃべるよ、竜だもの」
オーリは当たり前だという顔をした。
「アトラス、この子はステファン。今日からわたしの弟子になる」
「ほう、よろしくな」
「あ、ええと、ステファンです。よろしく……お願いします」
頭を下げながら、ステファンは竜に挨拶をしている自分が信じられなかった。草のにおいに混じってなんだかなまぐさい臭いがするのは竜の息だろうか。
「じゃ、行こうか。前にお乗り」
オーリはまるで馬にでも跨るように、ひらりと竜に乗った。
「乗るって……これで、飛ぶんですか?」
「『これ』?『これ』で悪かったな、ちびすけ!」
翼竜が首を曲げて睨みつける。
「ごめんなさい! お、お願いします」
「そうだよ、竜は誇り高い。お行儀よくね」
あたふたとステファンが乗り込んだのを確認すると、オーリはトントン、と翼竜の首を叩いた。
黒い翼が大きく羽ばたき、風が巻き起こる。
「うわわわわ……」
ふわりと浮き上がる感触が竜の体から伝わり、目眩しそうになる。
「ステファン、つかまって!」
竜の首には、手綱ならぬごついロープが掛かっている。慌ててロープにしがみつくのと同時に、がくんと身体がいちど縮み、次いで上のほうに引っ張られる感覚がした。竜が飛翔を始めたのだ。胴体のすぐ横で、血管の浮いた黒い翼が羽ばたいている。
後ろからオーリのローブがぱたぱたと翻る音がする。青い田園風景がみるみる遠くなり、ぶどう畑のはずれに黄色い屋敷が見える。
こんな高さはもちろん生まれて初めてだ。怖いのかどうかさえわからない。ステファンは震えながら夢中で眼下の景色を見た。
自分の生まれ育った家を上空から見るのは奇妙な感じだ。どこまでも続くと思っていた田舎道は、案外短い。
さらに高く上ると、学校が積み木細工みたいににちんまりと見えた。ステファンが知る限り一番高い聖堂の屋根も、村境の川も森も、なにもかもが小さい。古ぼけた模型のように、くすんで小さい。
あんなに小さな世界が全てだと思ってきたのだ、今まで。村の周りには想像していたよりずっと広大な緑が広がっていて、羊だろうか白い点々が移動している。
本当にどこまでも続きそうなのは鉄道線路だ。赤い蒸気機関車が煙を置き去りに走り抜けていく。
その煙さえ届かない高さを、今自分は飛んでいる。母に言ったら信じてもらえるだろうか。
遠ざかる景色を見ながら、あの小さな世界でこれからもずっと厳格なルールを守り続けるだろう母が、少しだけ可哀想に思えてきた。
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