2 溺れるネズミ、飛び出す
ステファンが遠慮がちに部屋に入ってみると、親しげな笑顔の客人がこちらを見ていた。長い銀髪に明るい水色の目に、あと背後に見えるものは。
「ステファン、ご挨拶なさい」
母に促されて我に返り、慌てて言葉を発しようとしたがうまくいかない。
『そんなところで困っていないで』と言われた。つまり、盗み聞きしていたことがバレているに違いない。いやもしかしたらドアを透かして見ていたことも。なにせこの人は魔法使いだ、叱られるかも、といろんな考えが一度に浮かぶ。
あちこちに目を泳がせながらやっと震える声で名乗った。
「こ、こんにちは……ステファンといいます」
「もっと大きな声で、はきはきと。いつも言っているでしょう、まったく十歳にもなってこれですもの。こちらはお父様のお友達、画家で……魔法使い……の、オーリローリ・ガルバイヤンさん」
ややこしい名前よりも「魔法使い」と発音するほうが難かしい事でもあるかのように、母ミレイユは紹介した。
「やあステファン、目元がお父さんにそっくりだね」
ミレイユがピク、と眉を吊り上げたが、オーリは無視して立ち上がる。なんて背が高い、と思う間もなく、力強く右手を握られる。まるで古くから知っている友人同士のように握手されて、ステファンは目を見開いた。
「その鳶色の目は、すごく良く『見える』んだって?」
「え……ええと」
言われた言葉の意味がわからず戸惑いながら、ステファンは目の前の背の高い紳士を見上げた。
オーリローリ・ガルバイヤンの名なら、父から何度も聞いていた。魔法使いにして画家であり、『金にならない古魔法道具蒐集クラブ』のメンバー。あんな面白い男は居ないよ、と父はよく語っていた。
でも魔法使いというからには、もっと神秘的で威厳が有り、絵本で見るような長い髭の年寄りなのでは、と勝手に想像していた。まさかこんなに若いとは思わなかった。確かに東洋人みたいな顔立ちは不思議な雰囲気だし、背中まである長い髪は魔法使いらしいといえばらしいが。
それにしても会った途端に、なんて親しげな人か。なにより、この目はどうだ。澄んだ水面を思わせるような瞳が、まるで子供のように無防備に、まっすぐステファンを見ている。
「
思わず無意識につぶやいてしまった。
「失礼ですよ、ステファン」
母の声にびくっとして、またイメージの世界は中断された。
ごめんなさいと首をすくめて後ずさりながら、ああまたやっちゃったと目を閉じる。どうして自分はこうなのだろう。目に見える全てを口に出してはいけないと、母からきつく言い聞かされていたのに。きっとこの紳士もあきれたに違いない。
ところが聞こえてきたのはお説教ではなく、ぱん、ぱんという拍手の音だった。
「素晴らしい!」
目を開けると、オーリが顔を輝かせている。
「わたしの魔法の基本はスパーク、まさに火花なんだ。それに毎日羽根ペンたちに急かされて仕事をしている。ステファン、よく見えたね」
「お茶を入れなおしますわ。ステファン、お座りなさい」
不機嫌そうなミレイユのことは無視して、オーリは矢継ぎ早に質問してきた。
いつから「見える」ようになった? どんな風に? 相手が生き物の時は? 他にも「変なこと」は起こっている?
「あ、あのう」
さっきから、今にもティーポットを取り落とすのではないかと思うくらいイライラしている様子の母を気にしながら、ステファンは遠慮がちに言った。
「母は、こういう非科学的な話が嫌いで……」
「非科学的、とんでもない!」
オーリの語気が強まった。気のせいか、パチパチと小さな火花が彼の周囲に飛んでいる。
「こういうことが、心霊現象だの、何かオカルティックな現象だと誤解している人間が何て多いんだろう。きっと科学の方が追いついていないだけですよ。
いずれ誰にも納得できるように、ちゃんと解明される時代が来るでしょう。その為に魔法使いと、魔法に依らない人間の協力が必要だというのに!」
オーリは明らかに、ステファンにではなく母親に熱弁をふるっている。
「お茶をどうぞ、オーリ先生」
ミレイユは新しいお茶を置いたが、「先生」という呼称に精一杯の嫌味を込めているのがわかる。ステファンは身の縮む思いがした。
どうも、と答えてカップを口に運びながら、オーリは考えを巡らせた。
この母親の元に置いておいたら、せっかく開花しかけたこの子の力をみすみす潰してしまうのは目に見えている。できればすぐ連れ帰りたいくらいだが、さてどうやってかっさらおう。
他人の心を操作するのは本意ではないが、ひとつやってみるか。
「それで、どこの師匠に」
「は?」
「弟子入りのことですよ。さっき教育のことをおっしゃっていたでしょう。これだけの才能があるんです、ゆくゆくはリーズ家の名を名乗るのですから、ふさわしい英才教育を受けなくては。ひょっとしてもう何かお考えがあるのでは」
「あ、いいえ、それはその」
ミレイユが動揺を見せた。よし、いける。
英才。なんと魅惑的な響きの言葉。
ミレイユの密かなプライドよ、頭をもたげよ。
オーリの目には相手の思考のイメージがストレートに読み取れた。
『自分達は選ばれた血統のはずなのに』
『こんな田舎でくすぶっているなんておかしい、何か特別なことがなくては』
そうだ、その調子。
『今まで息子の変な癖にいらついてきたが、これは本当に、類まれなる才能なのかもしれない』
何の才能か知らないだろうが、まあいい。
オーリはしたり顔を見せないように努力しながら相手を観察した。
「そ、そうですわね、来年は上の学校に行く年齢ですし、どうしようかと」
うむ、当たり障りのない言葉を選んだな。
「学校って普通の中等教育校、ですか? およしなさい、よき師匠を選んで預ける方がよっぽどいい。ちゃんとした所なら、一般教養も身につくはずです」
「はあ、でも、師匠と言われましても……学校の寮に入るのとはまた勝手が違いますわね。なにしろまだ息子は10歳ですし、誰にお任せしてよいやら」
「まだ、では無いでしょう。10歳といえば、遅いくらいです。もっと幼い頃から、親元を離れて教えを乞う子もいますよ」
「そ、そんなに早くから、ですの?」
「ええ。このわたしも8歳の時に師匠の門を叩きました」
当たり前のことのようにさらりと返すオーリの話しぶりに、ミレイユはもうあからさまに焦りだした。
『自分の認識不足』
そうそう。
『そういう分野の教育があったのか。夫のオスカーが息子の変な力について何も言ってくれなかったせいだ』
今はそういうことでいい、オスカーには悪いが。
火花よ飛べ、ミレイユの心に、思考に。
もう一押しだ。考えがまとまらないままうろたえろ、目の前にいるのは誰だ?
誰の名前が鮮明に浮かんできた?
とうとうミレイユが身を乗り出してきた。
「そぉぉですわ、オーリ先生! 先生にお願いできませんこと?」
「は、わたしに、ですか。ステファンを弟子にしろと」
オーリはなるべく意外そうに驚いて見せた。
「ええ、ええ! 先生なら安心ですわ、オスカーとも親しくしていただいてますし、ご身分もしっかりしてらっしゃるし」
ご身分ねぇ……やれやれこの人もか、とオーリは思った。
ミレイユの父が生活のために爵位を売ったという話は聞いていたが、彼女はまだ納得していないらしい。まったくこの国ときたら、20世紀半ばになっても身分だ、血統だとくだらないことにプライドの基を置こうとする人の、なんと多いことか。まあそのぶん御しやすい相手ともいえるが。
オーリは内心笑いながら、さも困った、という顔をしてみせた。
「そんな、わたしのような若輩者に大事なご子息の教育なんて。それにわたしは弟子をとらない主義なんですよ」
「そうおっしゃらずに。ああお礼なら、いかほどでも。ステファン、ステファン、あなたも他の魔……お師匠より、オーリ先生のようなちゃんとした方のお弟子にさせていただいたほうがいいでしょう」
「え、え、あのう、ぼく……」
ステファンは、さっきから大人達が勝手に話を進めていくのをおろおろしながら見ていた。
「ね? それがいいわ、そうしましょう。あなたからもちゃんとお願いするのです!」
こういう物言いをする時の母には、ステファンの意思を聞くつもりなど塵ほどもないのだ。なにしろ母はこの家の女王であり、ルールであり、自分の意見こそが正論と信じて疑わない執政官なのだから。ステファンは消え入りそうな声で「はい」というほかなかった。
「さあ困ったな。ステファン、本当にわたしのような師匠でいいのかな」
オーリがステファンのほうに向き直った。言葉とは裏腹に、ステファンにだけ見えるようにVサインをしている。水色の瞳が、まるで悪戯をたくらむ子供のようだ。
あ、あの空だ。
ステファンはオーリの背後に、父と居る時にいつもイメージした、広々とした青空を感じた――同じだ。この人は、大好きな父と同じ世界を持っている。
「はい、ぜひ!」
ステファンは、自分でも驚くほどはっきりと答えた。
今までとは違う何かが始まるのだ。
ついさっきまでの自分は溺れるネズミだった。息を継げる場所はないかといつもあっぷあっぷしていた。けれどこれからは違う。
それから1時間のうちに、オーリはすべての手はずを整えた。
ステファンの通う初等教育校への提出書類、役所関係、ウィッチ&ウィザードユニオンへの宣誓書……オーリが指をはじく度に次から次へと書類がテーブルに現れるのを、ミレイユはぼうっとした顔で見守った。
「こちらに最後のサインを……結構。ステファンの教育課程は引き継がれます。来年の7月までうちで真面目に学べば一般の初等教育終了証書が発行されますのでご心配なく。それともステファン、学校の友達と離れるのは残念かな」
ステファンが高速で首を横に振った。残念がるどころか、学校と聞いただけで怯えたような表情をするのを見て、オーリは苦笑した。
「じゃあ夕方の列車に間に合うように行こう。ステファン、荷物をまとめておいで」
ミレイユはようやく焦った顔を見せた。
「先生? ステファンをこのままお連れになるんですの? 待って、いろいろと支度が……」
「善は急げ、ですよ。何、特別な支度など要りません」
オーリは余計な時間などかけるつもりはなかった。今、ミレイユはオーリの魔法の影響で舞い上がっている。一気に事を運ばねば。ここで日数をおいて、冷静になる時間を与えてはいけない。
「それにわたしも忙しい身でね。また次いつ来られるかわかりませんので。9月になって学年が変わってからでは、手続きがいろいろと面倒でしょう。ああそれから」
オーリはミレイユを振り返った。
「オスカーのコレクションのことですが、うちで契約している一番大きな保管庫を無償で提供させていただきますよ。ご連絡いただければいつでも、使いの者に搬出に伺わせます」
無償という言葉に反応したミレイユの表情を見て、オーリはやれやれと思った。コレクションなんてものは、そういうものだ。蒐集している本人にとっては宝の山だが、興味の無い家族にとっては邪魔なガラクタの山。置いておくスペースすらもったいないと思われてもしょうがないだろう。
嵐のような勢いで出発の支度を終えると、ステファンが古いトランクを引きずって玄関に下りてきた。
「ま、そんな古いトランクを。もっと他にあるでしょう」
「お父さんのだよ。ぼく、どうしてもこれを持っていきたいんだ」
「ま……」
ミレイユは灰色の目を大きく見開き、独り言のようにつぶやいた。
「この子が言い張るのを初めて聞きましたわ」
雨はすでに小降りになっている。ぶどう畑の向こうから、一台の黒い車がこちらに向かって来る。
「迎えが来たようです。ステファン、お母様にしっかりお別れを。当分会えないのだからね」
ミレイユは、それこそ「しっかり」と息子を抱きしめてあれこれ言い聞かせたが、ステファンは儀礼的にキスを返しただけで、さっさと車に駆け寄って、嬉しそうに叫んだ。
「じゃ、行ってきます!」
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