記憶
ただの65歳の男は、アメリカ西部の荒野をただ歩く決心をした。わざと壊れたコンパスを持ち、もう何年も履いたブーツにジーンズ、初めて行ったコンサートのTシャツを着て、季節外れのマフラーをしている。唯一身につけたアクセサリーは、20になる月に事故で亡くなった同い年の婚約者とのエンゲージメントリングだ。マフラーも彼女のもので、きっと夏の荒野は暑いだろうが気にはならなかったようだ。
髭はもう何ヶ月も剃っていない。顔は日焼けし、服さえちゃんとすれば西部劇の主役でもおかしくないようないでたちの男だ。
町中の人間に笑われながら、食料も水も、バックパックさえ持たないまま灼熱の荒野へと歩いてゆく。もちろんサバイバル技術など持ち合わせておらず、生き残るアテは皆無だ。どんな動物がいるのか、どんな植物が生えているのか、昼の気温や夜の気温、オアシスの位置、マップ……
男は何一つ持たずに歩いてゆく。一歩一歩、急ぐでもなく、かといってたらたらとしているわけでもない。街の人間が呆れ顔で立ち尽くすうちに、軽く半日は経った。この街からどの向きにも汽車で2時間ほどの距離はすべて海抜18.4メートルで統一された完璧な平野だ。男が地平線に消える前に、闇が男を消した。誰も止められなかった。まさにこの荒野の向こう側になにかを確信しているように、男の足取りは少しも変わることがなかったのだ。それはつまり、街を出てからというもの、男は一度たりとも後ろを振り返ることがなかったということなのである。
それほどまでに強い意志によって、彼はその屈強な身体を休まず動かし続けた。昼間シャツに染み込んだ汗が、夜の風で冷やされて熱を奪ってゆく。太陽が頭上を幾度通り越しても、男が適温だと感じることはなかった。そして、ただの一度も休むことはなかった。カラフルだったコンサートシャツはもう茶色に染まり、あのマフラーは毛玉だらけでフェルトと化している。石ころの多い荒野では足を取られること数知れず、疲れた身体ではマンガのような転倒も幾度となく経験した。して、硬めだったジーンズでさえ穴が空き、すでにブーツは分解が始まっている。ソックスに至ってはきっともう下半面がないに違いない。入り込んだ砂利でブーツに血が滲んでいたが、男は前を見つめている。それに気づくことはなかった。
幾日も過ぎて、男は弱っていた。男の頭の中で思考はもう動作していない。ただまっすぐと地平線を見据えて、一歩一歩を着実に進んでいるだけである。この旅の間、一度もコンパスに頼ることはなかったが、男の足跡はどこまでも信じられないくらい真っ直ぐに続き、途切れることなどないかのようだった。
結局、二週間近くにわたって男は歩いた。飲まず食わず、睡眠もなし、休憩もなし。体重は当初の約半分に落ちていて、手足も明らかに細くなっていたが、それでも彼の足は最後の瞬間まで町を出た時と変わらない歩幅と力強さを保っていた。
もちろん、男に待っていたのは死である。最後の一歩を右足で踏むと、ついに男は倒れ込んだ。そしてまだ頰が地面と触れぬうちに、男の魂は星となって空に昇った。その時男の上半身は真っ黒になるまで日に焼けており、ズボンも見るに耐えない状態である。靴は分解こそしなかったが穴がそこらじゅうに開いたひどい状態で、髪の毛は抜け落ち、転ぶ時にできた傷で身体中かさぶたまみれだった。だがマフラーだけはしっかりと首に巻かれていたのだ。そしてまた、死んでも絶対に離さなかった思い出が、汚れた男の指で変わらず綺麗に輝いていた。
扉 理想郷 @Dear_A
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