ただ、1歩を踏み出すだけ。
左耳に当てられた時代の最先端をゆく機械からは、世界で一番愛している人の声が薄っぺらく聞こえていた。どんな人が聞いても当たり障りのないよう、もう1年と少し前に録音されたものだ。最後には耳障りな機械音が鳴った。もちろん伝えることなどを決めてあったわけではない。
ただ、相談がしたかっただけ。
冬ののしかかるような空も昨日で終わり。今朝はリビングの画面から桜がどうとか聞こえてきた。確かに昨日外に出かけた時より鳥の声が心地よく感じる。気温もここ1週間は上がり続けており、今日も例外ではない。さらに月初めの初日とあって、通りはここからでも聞こえるほど様々な音に満ち満ちていた。
新生活だとか、入学だとか、新しい世界が開けるという清々しい日に、ここでこうして1歩踏み出そうかやめようかと今もまだ決めかねていることを知るものはきっともういない。数える程しか登録されていない連絡先の中で一番に目に付く、一番大切な名前を無意識に選び、なにか声が聞こえまいかとまた耳に当てるのはこれで何度目に当たるのだろう?それでもこうして何度もかけ続けるのは何故だろう?どうせかからないのに。どうせまた話してくれるわけがないのに。
自分自身が一番よく知ってるはず。見慣れた電話が着信して、画面がついているのがここからでも見えるから。
高いところにいるからか、ビル風が頬を撫でる。と、言うより馴染みのあるトリートメントの香りを肺まで届けた。この久しぶりに澄み渡っている雲一つない青に溶け込めと言わんばかりに、まだ冷たさの残る大自然がちっぽけな人間の背中を風の手で後押ししてくれた気がした。
ようやく、遠くでサイレンが鳴る。何十メートルも下には人だかりができていて、その真ん中には自分が誰よりも愛した人がいた。
冷たい床に寝そべって。コンクリートに転がった、修復不可能なまでにひび割れた携帯で、電話を2度と受け取ることはないだろう。私だけが、自分の手元で今スリープされた携帯電話の着信履歴を知っている。
それはほんの10分前、あなたから受け取った最後の電話。
もう1歩くらい、踏み出してみようかな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます