扉
理想郷
所有物
私は四方の地平線まで続く真っ白な紙の上に立っていた。自分の周りにはインク壺が、ちょうど墓石のように前後左右とも等間隔に地平線まで置かれていて、それぞれにペンが刺さっていた。
なんでも書ける、まさに自由。
そう。はじめのうちはなにを書いても飽きることはなかった。ぐちゃぐちゃにした線、車の絵、人の顔を書いてみようとしたり、はたまたハートをたくさん書いたり… 気がつくと近くに本があることも多かったので、絵を移したり挿絵を描いたりした。
しばらくして、顔を上げると向こうに1人の男が見えた。まだ若く、灰色のスーツに身を包み、髪はワックスで固められ、金縁の丸メガネを掛けていた。くしゃっとしたえくぼのできる笑い方をして、ては後ろに組んでいる。ごく普通の、サラリーマンをしている父親というイメージが彼の後ろに張り付いていた。その男は私に笑いかけ、近くにあったインク壺を、黒く艶のある重そうな右の革靴で外側にゆっくりと時間をかけて倒した。男の目はその間も私の左目を捉え、トクトクと黒い染みを作るインクなど全く気にしていなかった。インクがまるで生き物のように、男が履いている革靴の周りにさえも染みを作り始めた頃、ゆっくりと1本前に足を踏み出した。1歩、もう1歩。距離はあったが、男の磨かれた革靴が紙にインクの足跡をつけるのは見えた。そのインクは滲みも薄れもせず男の跡をつけ、痕を遺した。男は私から3歩ほど手前のところで立ち止まり、不意に肩をすくめたと思うと、消えた。瞬きと同時にでもなく、ゆっくり崩れて行ったわけでもない。変な気分だが自然な消え方をしたと言うのが妥当だ。私は男を不審に思い、また汚されて面積の減った紙のことを思ったが、その紙は広いのだ。特に気にはしなかった。
しばらくして、ちょうどぐちゃぐちゃとまた線を書いていた時だ。1人の老女が現れた。歳は60代。毛量は薄くなり、顔には皺がつけられて皮膚はたるみ初めているような老女。化粧をふんだんに使い、顔の皮膚だけ色が違った。彼女は子供と関わっているが、子供を心底可愛がろうと思ってすらいない、冷たい目をしているようなイメージを受けた。先程と同じ唐突な現れ方だったが、驚くことは無かった。その女はインク壺からペンを取ると、いきなり紙にすごい勢いで何か書き始めた。それは常に文の形をとり、延々と続いた。「~のであるからして」「ということはつまり〜」などの無駄が多い文体で、形式ばって、筆記体には変な線が多く見られた。無駄のある読みにくい文字。あまり読む気はなかったので目を背けて絵を描こうとすると、何をして欲しいのか理解し難い行動に出た。私の髪を掴んで無理やり文字を読ませ始めたのだ。つらくて痛くて泣きそうになったが、なんとかこらえて読み終えた。すると老女は無表情で1歩下がって消え、今まで気が付かなかった新しく現れた若い女が新しい文を書いている最中だった。また髪を掴まれる覚悟をしていたが、周りが騒がしくなったので不審に思い周りを見渡した。そこで起こっていることを理解した時、恐怖の感情が心に巣食うのがわかった。
もうすでにこの広大なる紙は私だけのものではないことは、すぐに想像がついた。
たくさんの人間がこの紙の上に現れていた。
遠くにいた、アメリカ人風の少年はインク壺をひとつ丁寧に拾い上げ、その場で真下に落とした。高そうなハイカットや、新しそうなジーンズの裾にインクが飛び散ったが、全く気にせずに悪い笑みを浮かべ、こちらを横目で見たあとウインクをした。汚れのない金色の前髪が、どこからか吹いた風で揺れていた。
また別の女、足が細く花柄のワンピースを着ていたが、彼女はヒステリックに泣きながら、インク壺をハイヒールで踏みつけていた。そのハイヒールの柱が壺にはまってバランスが取れなくなったのか、自分が一つ前に倒したインクの染みに左肩から崩れ落ち、肌や薄いワンピースにインクを濃くつけながら惨めそうに泣きじゃくった。
小さな男の子はまるで缶蹴りをするように瓶を楽しそうに蹴飛ばし、私と同い年くらいの女の子は恨むような目を私に向けながらインク壺を次々と荒々しく踏み割っていった。
私が昔から書いてきた軌跡の部分に至ってもそうだ。倒された瓶から流れ出す影が、私のしてきたことを消してフラットな黒に染め、別の誰かが踏みにじり、足跡を上からつけていった。
音楽を聞きながら一定のリズムで瓶を倒す若者達。何かを書き綴る女。白いところを狭そうに使う絵描き。両手に瓶を持ってくるくると回る男。また多くの瓶は踏みつけられて微塵になり、その染みはありえない広がりを見せた。
もう、この広大だった紙は私のものではなく、むしろストレスのはけ口として他人に使われていた。白いところはもうすぐになくなるだろう。私は広大な自分の紙のうち少ししか使えなかった。そう遠くない未来に、紙の白いところを少しでも探してしくしくと泣きながら歩き回る自分の姿が見えた。
大声で叫べばよかったのだ。私の紙から出ていけ、と。だが私は何もせず、何も言わなかった。
また後ろ髪を掴まれた。他人の書いた無駄な文を読ませるためだ。そこにはもうつらいという感情はない。ただ、他人の思うように汚され、失ったものの大きさを感じて、白かった紙の上に書かれた文字は霞むばかりだった。
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