IV - 02

 親を残して、建物を去った。


 エレベーターでビルを降りると、無駄に天井の高いエントランスがあって、小さな噴水が設けられていた。外に出ると空気が冷えていて、街の至るところに気の早いクリスマスの電飾が施されている。


 鈴が鳴る。ベルが響く。ピアノアレンジのクリスマスソングがループしている。


 仕立てのいいコートを着た老夫婦が腕を組んで孫の話をしていて、制服を着た高校生のカップルが男のポケットの中で手を握り合っていて、若いサラリーマン数人がなにかのフレーズを繰り返しては歓声を上げている。


 紫苑と一言も交わさずに、普段乗る機会のない区間を電車で乗り継ぐ。

 電車が混雑していて、窓は灰色に曇り、額にじとりとした汗をかいた。

 いつもの部屋へ道を歩く。

 後ろに紫苑がついてくる。

 部屋に辿り着き、ドアを開け、壁にもたれるようにして床に腰を降ろした。

 紫苑が膝を抱くようにして隣に座った。


 何かニュースが見たくなってスマートフォンの画面を点けて指を走らせたが、悲惨なニュースは出てこなかった。事故で一三〇人くらい死んだとか、殺したとか殺されたとか、そういうニュースが見たかった。その代わり、作家だか社会学者だかわからない文化人というやつが悩み相談に答えていて、したり顔が見える文章で人生を語っていた。

 不幸な人間に関わると自分まで不幸になるから、人間関係を整理することも大切。

 文化人とやらはそんなことを語っていて、僕はスマートフォンの電源を切った。


「びっくりしたよ。急にあんなところに連れられたと思ったら、きみがいたから」


 不意に紫苑が言い、笑った。

 どことなく力ない笑い方。涼しい顔で何かに余裕を示すようで、人によってはほんのわずかに卑屈さを見出すような笑い方。いつものように、紫苑はそういうふうに口元に笑みを浮かべてみせる。


 僕は返す。「俺だって驚いたよ」

「まさか、きみよりも先にお父さんの方を見てたとはね」

「まさか、親父が帰ってこないと思ったらお前の家に行ってたとは」

「しかも、ね」

「結婚ってな」

「笑っちゃうよね、本当に。まあ、契約更改ってことなんだろうけど。ほら、結婚って要するに専属売春契約だし、愛人って専属売春婦の言い換えだからさ、流れとしてはいたって自然なんだよね」


 片方が金銭と住居を提供して、片方が春を提供する双務契約、と紫苑は言う。

 家事労働の提供とか法律上の婚姻関係とかね、そういうのがあるだけだよ。

 家事労働付専属売春婦、を言い換えると主婦になる。

 紫苑は言う。


 専門用語を並べながら無意味に言葉にする。

 無意味に言葉にして言葉にして言葉にする。

 事実の軽量化。


「そういえば」紫苑が言う。「このままいくときみとはきょうだいになるのかな。私は三月生まれなんだけど、たぶん、きみの方が早生まれだよね? お兄ちゃんとか呼んだ方がいいかな? それとも、兄さんとか、兄やとか、お兄様、がいい?」

「どれもよくねえよ」

「あ、お姉ちゃん派?」

「そこじゃねえ」


 また紫苑は笑った。

 軽く髪をかき上げて声を上げずに笑う紫苑を見て、僕も笑った。

 笑い声は上げず、息を吐き出して、笑う。止め時がわからず、堰を切ったように笑い続ける。頭の中で母親の声が聞こえる。お前は将来ああなる。お前は、お前は、お前は。僕の脳と頭蓋骨の隙間で生きている母親が呪詛を唱え続けている。ネクロマンサー。死者の笑い声。


 わかってる、わかってる。

 同じことの繰り返しだ。

 僕と紫苑のやっていることは、二世代目による縮小再生産だ。


 紫苑に行き場はない。紫苑の生命線は僕が握っている。だから、いつも紫苑は僕の反応を確かめる。居場所がなくならないように、紫苑は僕を観察する。紫苑の手足は細い。強く言えばいい。金をやって、場所をやって、紫苑を犯せば、たちまち父親と同じ構図の完成だ。


 誰が金を稼いでると思ってるんだ、お前らは俺のおかげで生きてられるんだ。

 父親はそう繰り返した。

 僕にはそういう血が流れている。


「あのさ、訊きたいんだけど、いいかな」

「なんだよ」

「はっきり訊くけどさ、今日の一件を受けて、きみは、私といると気まずいかな。もし、そうだったら、私、出ていくよ。出ていけとか、嫌いだとか邪魔だとか、一言言ってくれたらいいから」

「別に、そんなことないよ。大丈夫だ」


 僕は否定したが、紫苑はそれを確認しなかった。

 それに、僕の言葉は部分的に嘘だ。

 互いに互いを通して、親の存在が透けて見えているような気がする。自分の未来を見せられているような、自分の未来を見透かされているような、どうしようもない気分は確かに僕の中で顔を出している。


「ねえ」紫苑が言った。「もう一つだけ、訊いてもいいかな」

「なんだよ」


 それから少し間があった。

 紫苑の喉が小さく動くのが見えた。


「私は、きみに、必要かな」


 紫苑はそう尋ねた。

 紫苑の肩がすぐそこにあった。

 紫苑の身体が、冷えて縮んでしまったように小さく見えた。


「どうしたんだよ、急に」

「……別に、どうってわけじゃないんだよ。ただ、なんとなく、なんできみが私をここに置いてくれるのかな、って思って。やっぱり、気まずいでしょ。なのに、私は、きみに何もあげてないし、何かをしてあげられてるわけでもないのに、もたれかかってるからさ」


 僕は咄嗟にうまく答えられなかった。

 別に、僕は紫苑に何かをして欲しいわけじゃなかった。


「私を、必要としてくれないかな」


 ゆっくりと、紫苑の声は小さくなった。

 窓の外で室外機が低い唸りを上げている。


「ねえ」と紫苑がもう一度言った。


 紫苑は上目遣いに僕を見上げ、僅かに恥ずかしそうにして、力なく笑った。

 軽く片膝を立て、紫苑がスカートの裾をそっと捲り上げた。白い下着が露わになり、脚の付け根に走る血管が肌を薄く透かしていた。そっと撫でるように、細い指先が内腿に触れて這い、紫苑は小さく身体を震わせた。


 頭の奥が熱されたみたいに、視界がちらちらと白んだ。


「やめろよ」


 声が出た。


 思わず、自分の声が少し大きくなってしまったことを後悔した。

 紫苑がかすかに怯えが混じった目で僕を見た。


「俺が、なんとかするから」僕は言う。「そんなこと、しなくていい。もたれかかってるとか、もたれかかってないとか、気にするなよ。俺は気にしてないし、大丈夫だから」


 なんとかする、とか、大丈夫だ、とかに具体性はない。

 どの言葉にどの言葉を繋げばいいのか、よくわからなかった。


 たぶん、紫苑も僕と同じようなことを考えている。

 それでいて、僕の父親と、紫苑の母親のようになるのを恐れて、さっさとそうなってしまおうとしている。死の恐怖から行う自殺と一緒だ。いつだったか岸田が言っていた通り、可能性への感情には天井も底もない。一度恐れると、狂うまで恐怖は追いかけてくる。


 死への恐怖から逃げ切るには、死ぬしかない。


 自分の心臓が鳴っているのがわかる。

 くそ。くそ、くそ、くそ。


「本当のことを言うとね」紫苑が口を開いた。「いま、私が、きみにどう見えてるのかがわからなくて、怖いんだよ。きみは私に嫌気が差してるけど、優しいから耐えてくれてるんじゃないかって思うと、それが怖くて、仕方ないんだ。代わりにきみに何かをしてあげたいとも思うんだけど、きみが喜ぶことを何も思いつかないんだよ、本当に。私は何もしてないんだから、きみがそこまでやる義理なんかなくて、私は、それがすごく怖いんだよ」


 何かから身を守るみたいに、紫苑は膝を抱いた。

 紫苑の指先で絨毯が人の顔のように皺を寄せ、何かを嘲笑うような表情をした。下がった眉に、細い目、緩やかに両端が上がった口。紫苑が僅かに身動ぎをするたびに顔は笑い方を変えた。


 頭の中で母親の声がする。


「義理、とかじゃない」僕は言う。「なんだろうな、お前は、もうちょっと、恵まれてていい、と思う」

「きみは、わたしのことを高く見積もりすぎだよ」

「……妥当だと思うけどな」


 何かを言うべきだったが、いい言葉が見つからなかった。


 あなたはかけがえのない大切な存在、一人一人が尊い命、云々。そういうことを伝えるための言葉は使い尽くされていて、どれもが力を失っている。白々しくて、作り物じみた響きしか残さない。


 紫苑のように本でも読んでいれば、もう少しいい言葉の一つでも思いつけたのだろうか。


 わからない。


 僕は立ち上がり、背の低い棚に転がしていた合皮の長財布を二本拾い上げる。財布を広げ、紙幣を引き抜いた。一回目、どこかの家族の家を焼いた分の金。二回目、どこかのホームレスの住処を焼いた分の金。


 いくらあるのか未だに数えていないそれを紫苑に見せる。


「それ、やるよ。気分がどうしようもなくなったら、使え。金を盛大に使うだけで、たぶんいくらか気が晴れる。あとは、もしここを出ていきたくなったときにでも、持ってるといい。ずっとってわけには行かないにしろ、しばらくはもつ。自殺予防の気休め程度にはなる」

「……なんでくれるの?」

「それくらいしかやれるものがないし、お前にやるなら惜しくない」


 金を渡して、金の多寡でメッセージを発する。お前にならこれくらいどうってことないんだ、という主張を読み取ってくれることを期待する。

 こういうやり方しかできないのが、苛立たしかった。

 それでも、これくらいしかやり方が思いつかなかった。


「とにかく、大丈夫だ。何も気にしなくていいから、俺を頼れよ。急にこんなこと言い出して気持ち悪いかもしれないけどさ、俺はお前に、頼られたいんだよ」


 僕が言うと、紫苑が疲れたように笑った。

 紫苑の声が途切れた合間がどうしようもなく静かだった。

 何かをしくじった。

 そのことだけはわかったが、それが何なのかがわからなかった。

 紫苑がゆっくりと手を伸ばして、僕の頭を撫でた。


「……ごめん。たぶん、きみも、弱ってるんだね。きっと、弱ってるから、私なんかに頼らせたくなるんだ。自分のために何をしたらいいかわからないから、何かの指針が欲しいだけなんだよ。そんなことで、私のためになんとかするとか言うのはもったいないよ」


 僕は返事ができなかった。


 何かを考えているふりをして、しばらく二人で黙り込んだ。

 どちらともなく立ち上がって、何もないようにシャワーを浴びて横になった。

 言葉を交わさないまま、ずっと眠れなかった。


 ベッドの上でスマートフォンの電源を点けると、父親から不在着信が何件も入っていた。折り返し電話をするのも面倒だったので『再婚でもなんでも好きにしてくれ』という趣旨のメールを適当に打って送り、また電源を切った。

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