IV.遠くまで

IV - 01

 紫苑と目が合った。

 呼吸が止まった。


 制服姿に帽子を被った紫苑は目を見開き、一度だけ瞬きした。


 エダ、です、と女が挨拶した。


 僕の父親は僕のことを息子だと言い、対面に座った女は紫苑を娘だと言った。父親は車の中での台詞を繰り返すように結婚だとか再婚だとか交際だとか言葉を並べ、女が紫苑のことを紫苑と紹介した。


 切れ切れの言葉が頭を過ぎる。

 紫苑の母親。

 僕の父親。

 再婚相手。

 愛人。

 母親が何処かのおっさんの愛人やってて、家に帰ったらたまにセックスしてるんだよね。しかも、そのおっさんは私にそれを見せたがってるっぽくて、ときどき私のベッドでやってるみたいでさ。


 母親の声が頭の中で蘇り、回り始める。

 あいつと血が繋がったお前は将来ああいう風になる。

 麻痺しているように身体に力が入らない。きりきりきりと頭が痛む。


「すみませんね、こいつ、人前で話すのが苦手らしくて」


 僕の父親は僕のことを知っているかのように話しながら笑い、作り物じみた台詞を紫苑に向ける。「二人は同じ学校に通ってるんだよな」やめろ。「会うのは初めてなのか」やめろ。ウェイターがテーブルに皿を運んでくる。大きな皿に料理を小さく盛り付けた気取ったプレート。それが次から次にテーブルに並べられ、耳慣れないフランス語だかイタリア語だかの名詞で説明される。


 父親はまた紫苑に話を向け、口を開く。

 クラスは違うんだったか。

 やめろ。

 クラスが違うと交流とかはないのか。

 やめろよ。やめてくれ。


 紫苑が曖昧に頷いていて、早くここを立ち去りたい。平衡を失った身体がうまく動かない。テーブルにしがみつくようにして背を起こし、掌の下で皺になったテーブルクロスがグラスを傾かせる。


 悪い、ちょっと、トイレに、すみません。そう言って立ち上がる。

 自分の言葉が耳に届かない。本当は言っていないのかもしれない。柔らかい絨毯の毛の一本一本が靴底にまとわりつき、しがみついてくる。めかしこんだ格好をした若いカップルが絨毯を踏みしめる僕を見ている。こんな場所でするはずのない混合ガソリンの匂いがする。カクテルの水色が頭の中を流れていて、僕が一歩踏み出すたびにガソリンを吸い込んだ絨毯がキチキチと鳴る。


 レストランを出る。

 通路は壁も床も大理石でできていて、火を点けたところで燃えそうにない。

 頭上のスピーカーから静かにオルゴールのメロディが流れていて耳障りだ。

 通路を進み、突き当たりを曲がり、突き当たりを曲がる。青いピクトグラムを見つけてトイレに入り、手洗い場にしがみつく。吐き気がするが吐けない。腰を折って咳き込んでみようとするが何も出ない。粘り気をもった唾液が糸を引いて落ち、排水口へとゆっくり垂れていく。鏡に顔が写っている。鏡の中、捻くれた顔をした男子高校生が僕を嘲笑っている。大丈夫だ、大丈夫だ、大丈夫だ。頭の中で母親が笑っている。


 通路に戻ると紫苑が立っていて、腕に僕のブレザーをかけていた。

 紫苑が僕の顔を見た。

 お互い、何を言えばいいのかわからない。適当な言葉を適当に並べて沈黙を埋めることもしない。きりきりきりと頭が痛む。何かが頭蓋骨の内側を掻いているような不快感だけが頭を這い続けている。


「俺の隣に座ってたやつか」僕は尋ねた。「お前が、前話してたの」


 紫苑が答える。


「……そう、だね」


 だから、なんだ。

 何処かの金持ちの愛人をやっていた紫苑の母親が、僕の父親と出会って愛に目覚めて、落ち着いた。そんなパルプなハードボイルドみたいな話を期待してたのか。あるわけないだろ。なんら意味のない確認作業だ。


 紫苑が、僕と合った視線を逃がすように逸らした。

 僕が壁に背を預けると、紫苑も隣で所在なさげに壁にもたれた。

 背広を着た中年が通りがかり、僕に一瞥をくれて男子トイレに消えていく。

 帰ろっか、と紫苑が言った。

 腕にかけていたブレザーを僕に差し出して、もう一度言う。


「帰ろうよ」

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