III - 04

 いつもの部屋のドアに手をかけると鍵がかかっていた。


 紫苑以外にこの部屋に鍵をかける人間はいない。僕はポケットから鍵を取り出して鍵穴に突き刺す。鍵穴を回し、ドアを開ける。当たり前だが、解錠の数倍早い。ドアを開けると、真っ暗な玄関口に立った紫苑が目を丸くしていた。


 紫苑。フルネームは荏田紫苑だ。


 部屋の中でいつものごとく白いLEDライトが点灯している。


「ただいま」


 僕は笑ってみせる。


「……おかえり。今日は、来ないかと思ってた」


 紫苑の言葉を聞きながら僕は廊下に上がり、壁から出っ張ったスイッチをぱちんと押し込む。


 蛍光灯が唸り、部屋が白い光で照らされた。

 紫苑が目を丸くし、さも不思議そうに天井を見上げる。

 きょろきょろと窓の方を見て、明かりのスイッチに手を置く僕を見て、紫苑は、え、と言う。その様子がおかしくて僕は笑った。蛍光灯が光るだけで人が驚くという絵面と紫苑の戸惑った様子が変に笑えた。


「部屋を借りた」


 僕はポケットから鍵を取り出し、紫苑に手渡す。


「好きに使っていい」


 きょとんとした顔で鍵を受け取った紫苑は、何の意味もないのに鍵の表を見て、裏を見て、それからまた表面を見た。遊び方がわからないおもちゃを与えられた猫みたいだった。


 僕は事前に考えていたフレーズを口にする。

 まあ、薄々気づいてるとは思うけど、実は俺の家の状況も大概でさ。前々から家に帰りづらくなってて。貯金だけはあったから一回家から出ようかと思って。知り合いにちょっと頼んでさ、借りたんだよ、ここ。今日このタイミングになったのは本当に偶然なんだけど。etc。


 どんな捏造エピソードにしろ、現実に比べればなんだって説得力がある。

 ちょっと同級生と放火をしてきて。

 そんなことを抜かすよりよっぽどマシだ。


 僕は壁際に腰を下ろし、側で光っているLEDライトの明かりを消した。

 照明の蛍光灯が光っているから、部屋は真っ暗にならない。


「……そのさ、一体どうしたの、きみ」


 紫苑はまた鍵をじっと見て、僕を見る。


「どうもしない。さっき言った通りだよ」

「ホントに?」

「本当に」

「なんていうか、変じゃないかな。きみが家から出たかったっていうのが本当だとしても、この部屋である必要はないし、私を住ませてくれる必要もないでしょ」

「それで?」

「……ちょっと思い上がりかもしれないけど、きみに、気を遣わせちゃったんじゃないかな、というか」


 ごにょごにょと紫苑は伏し目がちに言い、申し訳なさと恥が混じったような顔をした。自分のために他人が何かをするという状況に違和感があるんだろうな、と思った。

 僕は言う。


「別に、お前のためとかじゃない」


 僕としても、お前のためにやった、とは言いたくなかった。勝手に与えて、それを表明して、自分の行為に他人が喜ぶことを期待するのも、与える側という立場になって悦に入るのも、なにもかもがごめんだ。


「……きみさ、そういう言い方はかえってツンデレっぽくて判断に困るよ」

「うるせえ」


 紫苑が気の抜けたようにくすくすと笑い、小さくスカートが揺れた。


「迷惑、じゃないかな」

「別に迷惑じゃない」

「ホントにいいの?」

「いいって」


 都合がよすぎないか、騙されていないか。紫苑は何度も何度も確かめる。

 僕は確かめない。何も都合いいことなんかない。


「あのさ、もしお邪魔だったら遠慮せず言ってね。頼むよ」紫苑は悪戯する子供みたいに笑って見せ、軽口を叩く。「デリバリーされたえっちなお姉さんが来るとか、そういうのも言ってくれれば、ちゃんとその間は来ないようにするから」

「ないから安心しろ」


 僕はポケットに手を突っ込んで部屋を見渡す。

 部屋には何もモノがなく、窓の外は真っ暗で、頭上で蛍光灯が光っている。


「あ」紫苑が何か言いかけて、止まった。「あのさ」


 紫苑は上を見て、下を見て、頬を少し掻き、小さな声で言った。


「その、ありがとうね、ほんとに。お世話になります」

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