II - 07

 ドアが静かに閉まり、そいつが細い廊下に音もなく足を着けた。


 窓から差し込む光は朧気で廊下までは届かない。

 そいつが黒い陰の中から僕を見る。


「話って」僕はとにかく口の端を上げた。「なんだ、お前、急に」

 僕は言う。「話も、何も、まず、誰だよ、お前は」


「誰だよって、一応クラスメイトだぜ俺は」


 はっ、と短く息を吐き、目の前の男は皮肉っぽい笑い方をした。嘘を言われているのか、ただ僕が覚えていないだけなのか、よくわからない。心臓が忙しなく動いているのに頭には血液が足りない。


「キシダマコト」と目の前で口が動いた。「五十音で木田を挟んでお前の二つ前」


 岸田誠。


 名前を聞くと、頭の中でカタカナが漢字に置き換わった。僕の頭の中じゃクラスメイトはみな曖昧で、名前も顔もぼんやりしている。こいつの名前を飲み込めたのは、二か月前に木山という名前の転校生がクラスに来て、出席番号をズラすかどうかで揉めたからだ。

 五十音で木山より前の十人程度だけが問題の外にいて、それが僕で、岸田だった。

 それだけだ。


「そのクラスメイトが、何の話をしにきたんだよ」


 僕の質問には答えず、岸田はポケットからスマホを取り出して画面を確認した。

 液晶のバックライトが暗闇の中でくっきりと光った。


「まだエダは帰ってこねえから、焦んなよ」

「エダ?」

「エダシオン」


 岸田は、それを一つながりの何かカタカナの固有名詞であるみたいに発音した。


「お前が、この部屋に泊まらせてる女」


 紫苑。

 姓:不明、名:紫苑。『  』紫苑。不明部分は、エダ、だ。


「今日、お友達に遊びに誘われてるんだろ、まだ、帰ってこねえから、落ち着けよ」


 岸田が部屋に上がり、握っていた右手をゆっくりと上げて、開いた。銀色が一瞬光り、鈍い金属音を立てて床に落ちた。リングに留められた三本の鍵束。それが、床の上に横たわっていた。

 鍵束には半透明のプレートが付いていて、この部屋の部屋番号が刻まれている。

 それから。


 岸田が壁のスイッチに手をやり、天井の蛍光灯がじりりと音を立てて白く灯った。


「その鍵、お前にやろうか?」


 鍵を見下ろすように、一瞬だけ岸田が視線を下げた。

 空気が冷たく乾燥している。


「どうした、お前」僕は言う。「この部屋、借りたのか」

「まあな」

「高二の秋から一人暮らしデビューかよ」

「まさか。ただのお前への嫌がらせだよ」


 岸田はなんてことないように笑う。

 下品じゃないが、他人を不快にさせるために笑っているような笑い方。

 そんなふうに笑いながら、目だけが据わっている。


「俺の言う場所で、俺の言う通りに鍵を開けろ」

「何言ってんだ、お前」言葉が口を走った。「頭おかしいんじゃないのか」


 反射的にポケットに手を突っ込む。

 こいつは、知っている。

 僕のことも。僕の右手のことも。


 そして。


 僕に鍵を開けて欲しいということは岸田が鍵を持っていないということだ。

 僕に頼むということはまともな鍵屋には頼めないということだ。


「俺は、頭がおかしいか」

「おかしいだろ。俺に、鍵を開けさせるためだけにこんな部屋を用意して、おかしくないわけないだろ。目的は、何だよ。俺が鍵を開けて、お前は、何がしたいんだ」


 口の中、喉が渇いていて、言葉を無理に繰り出しているのがわかった。


「それを、お前が訊く必要があるか?」岸田が言った。「いつもと一緒だ。お前は、鍵を開けたあと、鍵を閉めずに部屋を出るだろ? そのあとに、偶然、俺が入ったと思えばいい。偶然、俺が入って、俺がやることをやる」


 岸田が尋ねる。


「違うか?」


 詭弁のように聞こえたが、すぐに反論が出なかった。


 後々何かを起こすことは分かりながら、知ったことじゃない、と線を引く。

 昔、何かの映画で見たガンショップの店員を思い出した。何を撃つつもりかは知らんが、あんたが客であることには間違いがないからな、いくらでも銃は売るさ。こっちも仕事なんでね。金さえ払うなら誰が相手だろうと大歓迎だ。

 そうして買った銃で主人公はチンピラを殺しまくった。


 僕は言う。「その、やることが何なのか、訊いてるんだよ」


 岸田はこともなげに言う。


「放火」


 たった三音二文字。

 事実を軽量化させる。


「火点け屋って仕事がある。保険金とか建物の処分だとか、まあ、目的は色々だが、読んで字の如く、頼まれて家とかに火を点ける。そのピッキング部門に来いって話だが、別に、信じても信じなくてもいい」


 人間は、自分の想像の範囲外のものを現実とは思えない、と岸田は言う。


「放火って、お前は、ただの一高校生だろ」

「ヤクザみたいに、いかにもな反社会的で、どう見たって悪人ってツラのオッサンがやってないと現実だと思えねえのかお前は。僕は想像力のないアホですって自己紹介してるようなもんだぞ」


 岸田は言う。


「家に入って火を点けるだけなら中学生でもできる」


 岸田が言っていることの真偽がどうだろうと変わらない。

 鍵を開ける。やることはそれだけだ。


「やるなら、この部屋をやる。あと、金もやる」

「やる」僕は切り返す。「って言わなかったらどうする?」

「お前を含む若干二名の行き場がなくなる」

「別に」と僕が言いかけ

「そうなったら、他の部屋に行くか?」岸田が遮る。「そうなりゃ俺だって、お前らがどこに行くかキチンと突き止めて、別の手を打つ」


 別の手、というのが何かを岸田は言わない。

 どんなカードを切るより、たった一枚カードを伏せている方が強いからだ。


「最低限、エダが音を上げるまではやってやるよ」

「あいつは関係ないだろ」

「お前を追い込んでも効かねえが、あいつを追い込めば多少はお前に効く」


 何を言えば相手が嫌がるか、何を言えば相手が苛立つか。

 目の前のクソ眼鏡のクソ同級生はよく考えてから話をしに来ている。

 岸田が言う。


「お前は鍵を開けるだけだ」


 フローリングの上で鍵が光を弾いて白んでいる。今すべきことは何だ、と頭の底が問いかけてくる。目の前の眼鏡相手に喚き散らすことじゃない。見逃してくれと懇願することじゃない。


「やるなら、やる」岸田が床の鍵に目を落とす。「やらないなら、やらない」


 僕は何もない部屋にいて、まだ紫苑は帰ってこない。

 僕は鍵を開けることができ、開けなければ僕の居場所はなくなる。


 開けなければ。


 どこに行けばいいのかわからず、右に左に彷徨ってひたすらに時間が過ぎるのを待っていた頃にまで逆戻りだ。


「やるか?」


 紫苑はまだ帰ってこない。

 眉間がきりきりと痛む。

 息が詰まりそうだった。

 頭を下げて、上げていた。僕は頷いていた。


「失うものは何も無い」岸田が言った。「たかがお前の人生だ」

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