II - 08

 鍵がかかっていないドアが静かに開いて、紫苑が顔を覗かせた。


「ただいまー……?」 


 あれから一時間ほどが経過していた。

 岸田は僕の返事を聞くと、翌日の時刻と場所を伝えて部屋から姿を消した。


「おかえり」


 僕の声に、紫苑は白く光るLEDライトを提げて部屋を照らした。


 僕は手で庇を作りながら僅かに目を細める。真っ暗な部屋で壁を睨んでいただけだったから、白い光がやけに眩しかった。紫苑は手元の光を右に左にゆらゆらと行き来させ、僕を見つけると笑った。


「真っ暗だね」


 紫苑は僕の傍に腰を下ろし、持っていたライトを床に置いた。

 暗闇を切り抜いたようにそこだけが白い。


「電話をかけてくれてたけど、何かあった?」

「別に、なんでもないただの誤操作だ。悪かったな」

「てっきり、きみが命の危機にでも瀕してるのかと思ったよ」

「命の危機なら自分で電話切らねえよ」


 僕は笑い、自然を装って尋ねる。


「それで、どうだった、遊びのお誘いは」

「まあまあ、かな。可もなく不可もなく」

「……駄目だったか」

「……まあね。なんで誘われたのかわかんなかった」


 岸田は紫苑が誘われたのを知っていて、まだ帰らないことを知っていた。

 だから、紫苑が誘われたのもそういうことなんだろう。


「きみは、どうだった? 私がいない間、何かあった?」

「いや」僕は言う。「特に、何もなかったよ」

「そっか。やっぱり、何もないね」

「まあ、そんなもんだろ」


 本当に何もない沈黙のあと、紫苑が身体をふるりと震わせた。

 季節は冬に差し掛かり、床も空気も冷えきっている。

 外の気温は摂氏一桁台に近いかもしれない。


「寒いね」


 紫苑がまた笑う。紫苑は、笑うしかないから笑う。


 僕のポケットにはこの部屋の鍵が入っている。

 ただ立ち上がってスイッチを押せばいい。

 冷たい暗闇に耐える必要は何もない。

 気づけ、と僕は祈り、祈り、祈る。

 それでも紫苑は気づかない。


 長い間檻に入れられていた動物園の動物が、檻が開いているのにそのことに気づけないのと一緒だ。ただ、笑って、誤魔化す。繰り返し言って、慣れているふりをして、事実を軽量化する。感覚を麻痺させて、許容できる量だけ感じようとする。


 明日だ、と思った。


 明日、確実に、やることをやる。

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