II - 02

 翌日。


「や」


 と、また声をかけられた。

 昼休み、僕は屋上への扉を解錠したところで、振り向くと紫苑がいた。


「見かけたからついてきちゃった」


 左手に弁当らしき水色の包みを持っている。

 紫苑の視線が僕の右手のアーミーナイフに短く向き、昨日と変わらず頭に乗っかったままのキャスケット帽が小さく揺れる。紫苑の目線は僕の首ほどの高さで、近くで見ると首や腕や脚が細い。


「今からお昼?」

「そうだけど」

「私も屋上使っていいかな。なかなか、休み時間の行き場がないもので」

「……まあ、いいけど」


 やったね、と紫苑が棒読み気味の喜びの声を上げるので、僕は屋上手前の踊り場に積み上がった机と椅子の山を指差して言う。


「椅子は自分で持ってこいよ」


 扉が開き、相も変わらず薄汚れた屋上が姿を現す。

 短い雨でも降ったのか、屋上の端、詰まりかけた排水溝に水が溜まっていた。椅子を抱えた紫苑が屋上をとっ、とっ、とっ、とっ、と歩き、椅子の脚がコンクリートに擦れてからからと音を立てる。


「屋上が使えるっていうのはいいね。漫画っぽくてさ」

 毎日使っていれば漫画っぽいも何もない。屋上は屋上だ。 

「あんまり端の方に行くなよ。グラウンドから見上げたら見える」

「了解」


 僕は僕の椅子に腰を降ろし、側に紫苑が紫苑の椅子を降ろす。椅子が二脚になったところで何も変わらない。椅子だけがぽつんと置いてある屋上の光景は相変わらず変だ。


 僕はパンを食べ、紫苑は弁当を食べる。

 僕は昨日と変わらぬメロンパンで、紫苑の弁当は白米と唐揚げとポテトサラダだ。

 互いにそれぞれの昼食をもそもそ食べる。


「あのさ、休み時間に教室を覗きに行ったんだけど、きみ、友達とかいないの」

「なにやってんだ」

「昨日見た木戸くんが幻だった可能性もなきにしもあらずだから。実存の確認」

 若干哲学的表現だ。

「……まあ、別に友達がいないのは否定しない」

「友達はいないけど五、六人くらい彼女がいたりはする?」

「一人としていねえよ」

「そっか」

 何がなんだかわからないすかすかのQ&Aが行き来する。

「お前こそ友達はいないのかよ」

「いるように見える?」

「それなりに」

「どこが?」

「……顔?」

「私は友達がいそうな顔かな」

「いや、それはわからないけども」

「じゃあなんなの」

「なんだ、その顔なら誰かが声をかけるかな、と」

「それは、可愛いって言ってくれてるってことでいいのかな」

「まあ、それなりに」

「……きみがモテなすぎて身近な女子が可愛く見えているだけでは?」

「…………可能性はあるな」

「そこは否定しようよ」


 紫苑が椅子の脚を浮かせてバランスを取りながら笑う。


 紫苑の笑顔はにっこりって表現が合うような笑い方じゃなく、どことなく力ない笑い方だ。涼しい顔で何かに余裕を示すようで、人によってはほんのわずかに卑屈さを見出すような笑い方だ。


 悪くない。


 椅子の脚先にびっしりと土埃をくっつけ、紫苑がゆらゆらと揺れる。


「きみ、今日もあの部屋に行く?」

「たぶんな」

「今日もお邪魔していいかな」

「お邪魔も何も、そもそも俺の部屋じゃない」

「じゃあ、今日もお邪魔するよ」

「ああ」

「悪いね、場所を分けてもらうみたいになっちゃって」

「それは別にいいけど。夜中に奇声を発して隣にバレたりするなよ」

「きみは私を何だと思っているのか」


 大人しそうな顔して夜は乱れるタイプ(精神)。可能性は無きにしも非ず。

 紫苑がほんの僅かに口をへの字にするのを見て笑う。


「そもそも、昨日は何時に帰ったんだよ」

「んー」紫苑が唇の下に指をあてる。「五時くらいかな」


 一瞬、思考が引っかかって止まりかけた。

 昨日、僕が部屋を出たときには七時を過ぎていたはずだ。

 部屋の内も外も真っ暗で、紫苑はLEDのライトを読書灯にしていた。

 ということは。


「……朝帰りか?」

「まあね」

「電気も水道も通ってない部屋でよく朝までいられるな」

「あんまり家に帰りたくなくて」

「ほう」

「うち母子家庭なんだけどさ、母親が何処かのおっさんの愛人をやってて家に帰ったらたまにセックスしてるんだよね。しかも、そのおっさんは私にそれを見せたがってるっぽくて、ときどき私のベッドでやってるみたいでさ。そういう方が興奮するのかもしれないけど、すこぶる帰りづらい」


 母の痴態を見て身体のうずきが止まらないJKは…………みたいなスマホ漫画の広告があるけど、実際にやられると普通に困るよアレは、と紫苑は続けた。何の前振りもなしにさらりと挟むように言われたからか、情報が一瞬頭を素通りして僕の反応はなんだか平坦になった。


「さらっと来たな。マジで?」


 紫苑は何もないかのように澄ました顔のまま僕に目をやる。


「まじまじ。二日に一回くらい来るよ。出現率五〇%」


 僕の父親の帰宅率がそれぐらいだからわかる。

 それぐらいが一番帰りづらい。


「すげえな」

「すごいでしょ。私、アレだよ、本物のサノバビッチだよ」

「お前は息子サンじゃないだろ」

「じゃ、なんだろ? 娘……ドーター……ド、ドタバビッチ?」

「なんじゃそりゃ」


 同情を引こうという雰囲気がまるでないからか、嘘を言っているわけではない気がした。


 紫苑の話し方は簡潔かつ自然で、肩の力が抜けている。

 事態を簡略化し、なんでもないことのように軽く話すことで深刻な状況を深刻でなくす、不幸慣れした人間の話し方だと思った。


 例えば、テレビのニュースを考えるといい。

 あることを「○○問題」という風に簡略化し、具体性を捨てる。十行の要約を五行にし、三行にし、二行にし、必要最低限にする。それを繰り返し繰り返し読み上げ続け、垂れ流し続ける。飽き飽きするほど聞き続けていれば、あっという間にそれは大したことじゃなくなる。解決されたかどうかは関係ない。ああ、なんだ、知ってる知ってる。そう思えることが大事だ。重大なニュースほど何度も放送され、そのおかげで他のニュースと同じくらい重大じゃなくなる。何もかもが麻痺する。


 いや、母親が愛人をやっててね、まあ、それだけなんだよ。


 紫苑が使っているのはそういうやり方で、急にそういうことを話すのはテストなのだという気がした。その程度のこと、という扱いをして、その程度のこと、という反応ができるか。紫苑が僕を測っている気がした。


 事実の軽量化。

 現実の希釈。


 具体的なまま内側に置いておくと物事はどんどん深刻になるから、そういう対処をする。


「まあ、そんな感じ」紫苑が言う。「壁つき屋根つきで静かな場所があるんだから一晩くらいいるよ。きみに追い出されたりしたら別だけど」

「別に追い出したりしないって」

「ああ、末永いご愛顧をよろしくお願いします」


 紫苑が笑い、スカートの裾を小さく持ち上げた。

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