II.ナビゲーター
II - 01
しおん。
紫に、宛先の宛をくさかんむりにしたようなのを書いて。
紫苑。
対面に座った僕に、そいつは苗字を名乗らず自己紹介した。胸元のリボンを見る限り同じ学校の同じ学年。顔に見覚えはなし。肩にかかる髪が黒くて、肌は白く、手元には文庫本。玄関に僕よりも小さいスニーカーが並んでいる。
姓:不明、名:紫苑。
ナントカ紫苑さん。
「それで」ページに指を挟んだ紫苑が尋ねる。「きみはこの部屋の鍵でも持ってるの?」
やらかした。
状況がどうしようもない。
こいつが中にいるにも関わらず鍵を開けてしまった。確実に、サムターンが回る音は聞かれている。もしかすると横向きのそれが九〇度回転するところまで見られたかもしれない。
そして、僕は鍵を持っていない。
無意味な抵抗はしない。
「いや……ピッキングで」
仕方ないとはいえ、口に出すのには抵抗があった。
僕はピックを半端に収めたアーミーナイフをポケットの中で握る。
互いに不法侵入不法滞在の最中で、ある意味互いに弱みを握っている状態だ。おそらくこいつは何も僕のことを言いふらさないだろうし、もし言い出したら刺し違えることくらいはできる。危険性が大きいわけじゃない。
一方。
「すごいね。そういうのってホントにできるんだ」
紫苑はほんの僅かに目を丸くして、へぇ、と小さく息を漏らしただけだった。
平坦で淡々とした反応だった。
褒めず、責めず、困らず。
反応としてはちょうどよかった。
「それで、私は出て行った方がいいのかな?」
一瞬、皮肉や嫌味かと思ったが、どうやら素で訊いているらしい。
「出ていくもなにも、俺は不法侵入だぞ」
「知ってるけど、一応きみの方が先住民かな、と思って」
「先住民っていうよりは不法移民だろ」
「お互いそうだから、相対的な話だよ」
なんだか変な言葉の選び方をするな、と思う。
僕が相対的先住民で、目の前にいるのが相対的移民。なにがなんだか。
「別に、邪魔ってことはない」
「そう? ありがとう。まあ、邪魔になったらいつでも言ってね」
紫苑は少し目を丸くして首を傾げ、帽子が小さく揺れた。
「じゃあ、なにとぞよろしくよろしく」
顔に覚えはないが同じ学校の同じ学年らしいナントカ紫苑さんはそう言い、手元の文庫本に視線を戻した。四、五年前に映画化したミステリ小説の表紙と、裏表紙にくっついた古本屋の値札シールが見える。一冊一〇〇円+税の赤枠シール。
紫苑の指がページをめくる。
空き家への不法侵入で女子高生とかちあったときは何か話したものか。
考えても名案は出ないので、ゲームの電源を点ける。
昨日の続き。ダンジョンを踏破し、街から街へ旅をする。急に敵が強くなり、本腰を入れて応戦する。五〇台に差し掛かった主人公のレベルが着実に近づくエンディングの存在を教えてくれる。戦闘終了。レベルアップ。
敵を倒し続けて液晶画面から視線を上げる。
真っ暗になった部屋の中、紫苑の足下でLEDのライトが白く光っていた。
随分と準備が良い。
LEDの白い光を読書灯にしながら紫苑がページをめくる。
僕も何を言うでもなくゲームを続ける。
それから、なにをきっかけにするでもなく、僕の方が先に立ち上がった。
「またね」
そう言って、ぺたりと床に座った紫苑が僕を見上げた。
「ああ、じゃあ、また」
別れ際の挨拶は、また、でいいのか?
ふ、と思ったが、気にせず玄関に立つと、
「あ」と、紫苑が声を上げた。
「どうした」
「きみ、名前は?」
「……木戸」
僕が名乗ると、紫苑が挨拶をやり直す。
「じゃあ、木戸くん、またね」
それでドアを閉めた。
家に帰ると父親がいて、もう少し部屋に残ればよかったと思った。
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