I.世界のまん中

I - 01

 扉を開けると何もなかった。


 薄暗く細い廊下。僅かに夕陽が差し込む部屋。

 家具なし。モノもなし。電気、ガス、水道不通。

 高校から徒歩一五分。

 マンションの三階。

 郵便受けには無秩序にチラシが溜まっていたから、管理人はあまり来ない。

 鍵は一〇年以上変えてないような旧型で、簡単に開けられる。


 間違いなく空室で、間違いない優良物件だ。


 僕は解錠用のピックをアーミーナイフに折り畳みながら部屋に上がる。

 壁に背を預けて腰を降ろし、携帯ゲーム機の電源をオンにする。表示された一人称視点のダンジョンを歩く。エンカウント。戦闘。再び探索。敵を倒して武器を強化してまた潜る。ハック&スラッシュを繰り返す。窓の外で室外機の稼働音がくぐもって聞こえる。ボスに到達し、会話後戦闘になる。強化、強化、強化。弱体化、弱体化、弱体化。フローリングに積もった埃が夕陽で白んでいる。回復、強化、強化、強化。とどめを刺す。レベルアップ。町に帰還する。武器を売り、武器を買い、武器を強化する。またダンジョンに潜り、陽が沈み、部屋が真っ暗になっている。

 液晶画面がバックライトを輝かせながら閃いて、闇の中でぽつんと光っている。


 帰る。


 マンションの一室、家に帰ると誰もいない。

 母親は家出して自殺した。父親は時折帰宅するが、今日はいない。


 眠る。


 学校に行き、授業を受ける。

 休み時間になると屋上に向かう。

 施錠された扉にロックピックを突き刺し、解錠する。十数年前に飛び降り自殺をした誰かのおかげで屋上は僕の独占だ。誰にも掃除されず薄汚れた屋上に、僕が教室から拝借してきた椅子がぽつんと置いてあり、僕はそれに腰を降ろす。

 前後左右誰もいない。

 コンクリの床は雨で土埃がこびりつき、金網のフェンスは赤く錆びついている。秋晴れの空がやけに青く、バランスが悪い。昼食の菓子パンを口にしながら、ポケットの中でアーミーナイフの柄を撫でる。ナイフの刃を繰り出して指で撫でてみるが、すっかり鈍くなった刃じゃ指の皮一枚切れない。

 グラウンドや教室から話し声が屋上まで聞こえるので、耳にイヤホンを捻じ込む。


 放課後になるとまたマンションの空室に侵入する。

 また液晶のバックライトで目を灼いて時間を潰す。


 家に帰ると今日は運悪く父親がいる。

 四〇代半ばだったと思うが正確な年齢は忘れた。

 僕の顔は父親に似ているらしいが、よくわからない。

「学校は、どうだ」

 父親が尋ねる。

「別に、普通だよ」

 僕は答える。普通、以外の返事はしない。

 楽しくもない。悲しくもない。誰の友達でもなければ誰の敵でもない。加害者でも被害者でもない。だからといって、架空の友達を捏造して楽しいエピソードを披露することもない。

 話すことは何もない。

「なにがあったとかどうしたとか、親に報告することがあるだろ」

 父親が言い、点けっぱなしのテレビ番組が笑い声を上げている。


 テレビでよく聞く笑い声のSEは、ずっと昔に録音されたものだと聞いたことがある。もう何十年も前に録音したものをずっと使いまわしていて、声の主はもう何人も死んでいると聞いたことがある。観客はゾンビで、音響はネクロマンサーだ。

 拍手。

 死者が笑う。


 父親が僅かに顔を歪めて、苛立ちを不快な表情に表す。

「何のために金払って学校に行かせてんだ、俺は」


 何のためなんだろうな、一体。

 僕は適当な相槌を打ち、はい、いいえ、すみませんの言い換えで場を凌ぐ。

 対処を間違えると僕の父親は激昂する。激昂し、モノを叩き壊しては叫ぶ。

 誰が金を稼いでると思ってるんだ。お前らは俺のおかげで生きてられるんだ。


 僕の母親が家出をしたのはそれに嫌気が差したからで、耐え切れなかったからだ。


 お前はああいうふうになる。

 前触れもなく家出する前、母親は僕にそう繰り返した。

 あいつと血が繋がってるんだから、絶対に、お前は将来ああなる。


 それから、母親は勝手に死んだ。

 家出して一年後、どこかのアパートで自殺していた。


 僕は未だに生きている。

 高校二年生、十月。

 少なく見ても残り一年半、僕はこれに耐えなくちゃならない。


 家を出て、学校に行き、鍵を開ける。

 他人のマンションに行き、鍵を開ける。

 家へ帰り、家を出て。

 学校に行き。

 鍵を開ける。

 鍵を開ける。

 開ける。

 開ける。


 ある日。

 何の面識もない同級生が部屋にいた。

 誰も住んでいないマンションの一室で、そいつは壁に背を預けて床に座っていた。

 制服姿にキャスケット帽を被り、手には文庫本を持っている。


 玄関で棒立ちの僕にそいつは小さく手を振って


「や」


 と、言って首をかしげた。

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