第19話

   六


 二時間ばかり仮眠して、パツコは車を走らせた。ペイタは変わらぬ鼾を立てて、水に浸かった様にシャツを濡らしている。朝から汗を吸い続けたシャツは強烈に臭い。


 ペイタを起こすことなく、パツコは黙々と運転した。色の沈んだ夜の風景が、深みのない人口色が、やけにパツコの心を落ち着かせる。太陽の沈んだ夜とあっては、昼のような浮き立つ心を求めるのも無理がある。動から静へ、活動停止へと向かう心身の働きにはそう簡単には抗〈あらが〉えない。


 あるゆる物が昼と夜の顔を持つ。くすんだ色に隠れる物も、強烈な光を照射することで、思いがけない色を現すことがある。逆に鮮烈な色を持つ物も、わずかな光ではその色も在〈あ〉って無いような物である。あらゆる物が様々な色を持つが、光が当たらなければ色を引き出されることはない。光に当たれば活動し、光が切れれば停止する。これは多くの生物に共通する性質であるが、真逆の性質によって生きる存在もないわけではない。


 運転に集中しながらも、どことなく湧いてくる心象に惹きつけられる。目に見える都内の国道が、昼の記憶を騒がせる。狂った色彩美はやはり夢のようであり、一眠りしたせいで、遠い過去のようにも思える。昼の名残を周囲に探そうにも、死んだ色しか見当たらない。昼に憧れ偽造された色の世界を走り、パツコは自分の存在がぼやけるような錯覚を起こした。


 狭い建物から湧いて出た人々と、人為的な思惑の詰まった電飾看板の活き活きする、ペイタの家の近辺に戻ってきた。朝出発した時とはまるで様相の変わった路地に入り(モウ、危ナイヨ! 人多スギダッテ)、高額なコインパーキングにパツコは車を停めた。 


「おぉい! お客さん着きましたよ! あなたのお家〈うち〉のそばですよ! 寝てばかりのお客さん!」鼻をつまんで、引っかかる声でパツコが呼びかける。


「なんだようるせえな、家着いたら起こせって言っただろ?」カッターナイフの切り口程に眼を開かせ、体を揺するパツコの手を睨む。


「何言ってんですかお客さん! もう新宿ですよ! あなたのお家がある所ですよ! 起きてください!」笑いを含みながら言うと、ペイタの頬をつかんで引っ張る。


「だから家着いたら起こせって言っただろ? なんべん言やわかるんだよ」眼球のみ動かして答える。


「何言ってんですか! お客さんのお家の前は、車を停める場所ないじゃないですか! 勘弁してくださいよ。ほらぁ、着いたんだから行こうよ、おなかぺこぺこなんだからね、言いつけを守って、何も口にしないで運転してきたんだから。ねえお客さん、鎌倉からの料金は高いですよ、料金は愛情といたわりを含めた豪勢な夕食です。わかりましたか? ちゃんと払えますか?」次はペイタの腹の肉を引っ張って話す。


「はあ? 何言ってんだ? 早く家行けよ」ペイタは至極不愉快そうな顔をする。


「馬鹿! もう終点だって。おにいさん、おにいさん、四十分八千円、フルコースどう?  中華料理おいしよ? 寄ってかない? 寄ってかない?」パツコが片言に話し出す。


「おめえ誰だよ?」ペイタは冷めた言い方をする。


「もう、おなか空いた!」パツコが力を込めてペイタの腹を叩いた。


 結局歩いて二分もしないところの居酒屋に入った。どこの駅前にでもありそうな全国チェーンの居酒屋は、柿色だけの看板に上手だか下手だかわからない筆文字で、『渋々』と店の名前が書かれている。


「初めて入ったけど、なんか変なお店だね。昔の日本をイメージした純和風の落ち着いた内装だけど、どこか気取った感じがする。電球色を落ち着かせた色の照明も、座席の畳も、整然とされた席の配置も、こざっぱりした従業員の制服も、店内の雰囲気を統一してはいるんだけど、どこかいびつと言うか、素材が安っぽいというか、こう、何か、造り物っていうのかな」海老茶色のテーブルに手を置いて、パツコは周りをじろじろ見つめる。


「造り物なんだからあたりめえだろ? 生ビールが安いんだから文句言うなよ」料理の写真が派手に載った大きなメニュー表に見入る。


「文句言うなって、払うのはわたしじゃん! うぅん、このメニュー表も、何か締まりがないというか、派手な色を使いすぎと言うか、フォントを重ねすぎというか、悪く言えばパチンコ屋のチラシ広告というか……」首をだるそうに傾げて、パツコはぶつぶつ話す。


「うるせえな! いやなら出てけよ!」パツコを見ずにペイタが声をあげる。


「べつに出てってもいいけど、そうしたら、ペイタ食い逃げすることになるよ。はあぁ、せっかく食欲を我慢して運転してきたのに、生ビールの安さを餌にするありきたりの居酒屋で、サークルの飲み会やらなにやらの節操のない喚き声を聞いて、わびしく食事するとはねえぇ、なんか楽しかった一日のしめにしては……、そうっ! 現実的すぎるのぉ! 仕事帰りに飲みにきているみたいで全然ムードがないのぉ! あああ! 鎌倉の海を前に、葉山の夜景を遠くに眺めながら、焼けて火照る肌を潮風に吹かせて、響く潮騒に耳を休ませ、こう、グラスをこつんと……」パツコは眼を閉じて一人芝居をする。


「すいません!」注文用の機械を使わず、ペイタは手を挙げて従業員を呼ぶ。


「待ってよ! まだわたし決めてない!」パツコが急いでメニューを開く。


 運ばれてきた生ビールを手に持つと、ジョッキグラスを合わせようと期待顔のパツコを無視して(フフフ)、ペイタは一人ビールを飲んだ。


「最悪!」


 より笑顔を見せるパツコは、身を乗り出してペイタのジョッキを追いかけた。するとペイタは体を反転させて隠れると、驚く速さでビールを飲み干してしまう。 


「わたしねぇ、つまらない仕事後に同僚とグラスを合わせると、その分だけ老け込むような気がするの。でもね、こうやって楽しい日を送った後の乾杯は、若返るような気がするんだ」二杯目のビールがペイタの手に渡り、二人ジョッキを合わせてから口につけると、パツコは唇に泡をつけたまま話す。


「ふん、くだらねえ」パツコの目も見ず、ビールと一緒に運ばれてきた焼飯を一気に食らう。


「ペイタ、わたしにもチャーハンちょうだい」パツコは小皿を差し出し、「ずっと気になっていたんだけどさぁ、わたしが気を失っている間に何があったの?」大きな目でペイタの顔を見つめる。 


「あっ? ああ、アニマルファックの猛者〈もさ〉と知り合いになったぜ」


 ペイタは返事をすると、手と口の動きを止めずに、気を失った直後の経緯〈いきさつ〉を説明した。


「ええっ! じゃあ、あのお化けは本物の人間で、その、デフォさんっていう人は、雄鹿と本気でセックスしていたのぉ? 信じられない! その人、頭、いや、体はだいじょうぶなの? 体こわさないの? 鹿の子供ができたらどうするのぉ? 怖い!」手に持った焼き鳥を口に運ぶのを忘れて、パツコは驚きを口にする。


「ああもちろん本気だろ、おまえもあの狂った声を聞いただろ? あんな声、本気じゃないやつに出せるもんじゃねえ、なにより、おれはフィニッシュまで見届ける羽目になったんだぜ? あんな凶暴な交尾、おれは金輪際見ることはねえと断言できる。間違いなく寿命を縮められたし、常識をぶち壊された。もしおれの頭が狂って、デフォさんに賠償金を請求して裁判沙汰になったらよぉ、必ず勝訴をおさめられるぜ。おれだからまだしも、常識人が見たら首を吊りかねない光景だったからな、デフォさんはこれっぽっちも手抜きしてねえんだ。それに、デフォさん本人が『鹿のペニスは最高に気持ち良いんですよ』って正直に話してたからな」鶏の軟骨揚げをスナック菓子のようにペイタは食べる。


「はあぁ?」パツコの動きが止まる。


「なんでもデフォさんは、あの鹿と四年の付き合いらしいぜ。最初は大型犬で我慢していたのが、自分の体の成長と共に満足できなくなったらしく、ついつい好奇心に動かされて、鹿に目をつけたって言っていたぜ。鹿との初体験は凄まじい格闘だったらしく、山の中で野生の鹿を見つけて、気配を殺して鹿に近づき、がっと飛びかかり、力一杯ヘッドロックをして動きを封じたらしい。それから弱まったの見計らってグラウンドに移行し、体勢を入れ替えて鹿の股間に顔を近づけると、思い切り鹿のペニスをくわえて、無理やり発情させたそうだ。そしてマウントポジションを取り、自分のヴァギナに鹿のペニスを挿入させると、両足を腰に絡みつけて高速で腰を振った。するとさすがの鹿も気持ち良くなったらしく、獣らしく雄々〈おお〉しい腰使いを始めたそうだ」ペイタはコロッケを一口で食べる。


「喧嘩じゃないの?」パツコはどうにか言葉を口にする。


「それからデフォさんは月に二度鹿と交尾するようになり、鹿もどうやら味を覚えたらしく、デフォさんの姿を見ると、喜んで近寄って来るようになったそうだ。それだけでもじゅうぶん異常なのによ、恐ろしいことに、他の山にも関係を結んだ鹿が何十頭といるらしいぜ。やり口は今の説明とほぼ同じで、力の勝るデフォさんが鹿を狩るんだ。この時点でよ、間違いなく歴史に残る性倒錯者なのに、とんでもないことに夫がいるんだぜ? それもいたって普通の体型のサラリーマンだそうだ。力士やプロレスラーならまだしも、なんで普通のサラリーマンと結婚して、鹿と不倫してんだよ! それもデフォさん、まだ二十歳になったばかりだぜ? それで一歳になったばかりの息子がいるんだから、どうしようもねえよ」ビールを腹に流し込む。


「えっ? まさか?」パツコが怯えた顔をする。


「ああ、鹿との合いの子だ!」


 ペイタは一呼吸置いて言う。すると、パツコの意識が遠退きかける。


「嘘だよ! こんなところで気絶すんじゃねえ!」素早くパツコの腕をつかむと、無造作に振る。


「ああ、なんだか気持ち悪くなってきた。もうそろそろ作り話は止めて」パツコの顔はすっかり青ざめている。


「馬鹿野郎! 嘘なんかどこにもついてねえよ、本当なら、さらにデフォさんの話を続けたいところだが、おれが聞いたのはこんなところだ。おお、ちなみにデフォさんは覆面プロレスラーで、おれ達にチケットくれたぞ、見ろ、これだ」ポケットから湿ってへにゃへにゃになったチケットを出す。


「へえ、じゃあほんとなんだ。デフォさんは見たくないけど、プロレスは生で見てみたいな」パツコが興味深そうにチケットを受けとる。


「そういえば、デフォさんはいまだに背が伸びているらしく、もっと力をつけたら、いずれ虎かライオンと交尾してみたいと言っていたぞ」ペイタは焼きそばに手をつける。


「もうデフォさんはいいって」そう言ってチケットをペイタに返す。


「おめえなぁ、デフォさんを悪く思っているみたいだけどよ、実にできた人だぜ。そもそも、気絶したおめえを担〈かつ〉いで、車まで運んだのはデフォさんなんだぜ? あの人がいなかったら、おれも暗い山中から戻れなかったし、おれ達はデフォさんに助けられたんだぜ? 乳はでけえし、腰もくびれている。尻も叩きがいのある形で、顔もきれいだ。なによりビラがでけえ! おめえの五倍はあったぜ! ただ、でかすぎるのに加えて、肌の色が違って見えたから、まったく勃起しなかったぜ」冷奴〈ひややっこ〉を一口で食べてしまう。


「ふん! どうせわたしの体は小さいし、幼児体型だよ。なにさ、そんな鹿とセックスするような人の体を褒めて、そのデフォさんって人が気に入ったんでしょ? いやらしい! そもそもね、デフォさんのせいでわたしは気を失ったんだからね、助けるのが当然なの! わたしはありがたいなんて思わないからね、それに、デフォさんのせいで、あの約束守れなかったし」パツコは口調を強めて話す。


「約束って、あれか? おめえが気絶している間、ずっと指突っ込んでたぜ? おめえほんとすけべな女だよな、気絶してるくせに、次から次と汁を溢れさせて、ぐしょぐしょだったぜ?」ペイタが焼き鳥をつかんだ指を前に出す。


「いやあ! 変態! 人が気を失っている間に何してんのよ! 変態! 卑怯者!」両頬に手をあてて顔を湯立たせる。


「何言ってんだよ、約束だろ? それに、気つけになると思って必死で指を動かしたんだぜ? おれの努力を買ってくれよ。おめえは呑気でいいよな、目を覚ますどころか、クリトリスを勃起させてたんだからな」パツコの顔向けて枝豆を指でつまむと、うまい具合に中身が飛び出して、こつんと顔にぶつかる。


「馬鹿ぁ!」感情豊かに声をぶつけると同時に、おしぼりをペイタの顔に投げつける。すっくと立ち上がったパツコは、そのままトイレへと駆けだした(アアムカツク!)。


 パツコが席を外している間、ペイタは思考の手を借りることなく、沸々〈ふつふつ〉と湧いてくる食欲を注文という行為に置き換える。注文を受ける従業員が、気兼〈きが〉ねしたほうがいいと忠告を与えたくなるくらい、次々とペイタは料理を注文する。メニューを開く、食べたくなる、注文する、といった簡潔な行為を続け様に行う。金は足りるか? 食べきれるか? パツコの好きな食べ物はどれか? 等は考えるどころか、とても思いつくことさえできない。


「それにしても、デフォさんはそうとう変わった人だね」戻ってきたパツコは席に着き、「社会に出て仕事するようになってから、色んな人と接することが多くなってね、ちょっと変わった人にも会うけど、デフォさんのように、はっきりと変わった人はとてもいないよ」そう言ってビールに口をつける。


「あたりめえだろ、ああいう人は十年に一人ともいえる一種の逸材だからよぉ、へたすりゃ神話に出てくるような人間だぜ」ペイタもビールに手をかける。


「そうだよね、めったにいないよね。でも、今日会った長田さんも、デフォさんとは違った変わった人だったよ。ペイタとはぐれている最中、長田さんに慰めてもらった時ね、色々と話をしたんだ。変な男に体をさわられたあとだったから、わたし、長田さんの姿を見て身震いが止まらなかったの。そうしたら、わたしの事情を優しく聞いてくれて、『ふふふ、わたしは他人の体に性的興奮を覚えないんだよ』って言い出すの。もちろんわたしは呆気にとられたよ、でも、気になったからその理由を訊ねたの。すると長田さんが、男女関係なく、他人の体に汚らしさを感じてしまい、唯一自分の筋肉だけに性的反応を覚えるんだって言うの」違った色に映るトマトに箸〈はし〉を伸ばす。


「あの宇宙人、ナルシストか? あれはしょうがねえだろ、見た目から狂ってんだから、まともなこと言ってるじゃねえか。あの筋肉なら、なんの疑いもなしに頷くことができるぜ」ペイタはポテトフライを手一杯につかむ。


「長田さん淡々と話すから、つい聞き入っちゃってね、もう、オナニーの話を説明された時は、聞いていて恥ずかしかったんだけど、口を挟むこともできなかったの。なんでも、オナニー専用の小屋を作ったらしくてね、八面の壁と床天井がすべて鏡になっているんだって、そこで長田さんは、油でぬるぬるになった自分の筋肉を、あらゆる角度で眺めながら、揉〈も〉んだり、擦〈こす〉ったり、抓〈つね〉ったり、引っ掻〈か〉いたりするんだって。気持ち悪い顔してこの説明をされたら、わたしきっと逃げ出したけど、表情を一つも変えないから、意外にすんなり聞けたの。でね、調子が乗ってきたらおちんちんをつかんで、上腕なんとか筋や大腿なんとか筋なんていう、あらゆる筋肉に擦りつけたり、挟んだりするんだって、さすがにこれには笑っちゃった。長田さんね、背中の筋肉や尻の筋肉に擦りつけられないのを、感情を込めずに詳しく説明するんだよ? 汚らしい話だけど、長田さんの異常な筋肉を見ると、なんだかおかしくって、ついつい股間に目をやっちゃった」パツコは顔を手で覆いながらうれしそうに話す。


「筋肉でしごくのかよ、真性のきちがいだな、気持ちわりい」ペイタは刻み葱〈ねぎ〉の載った焼豚を口に入れる。


「さらに気分が乗ってくると、お尻の穴に親指を突っ込んでしまうらしいの、これにはねぇ、わたし度肝を抜かれたよ。なんか、宇宙規模の未知に触れたみたいでね、色のおかしな海水浴場や、それまでの出来事が関係していたからかな、もう信じる信じないの話じゃなかったの。驚愕って言えばいいのかな、長田さんがね、自分の体質は嫌いじゃなく、むしろ非常に好きだと言ってたけど、他人との交わりがどんなものか、やはり知ってみたいとも言ってた。わたしそれを聞いて、長田さん自身はかわいそうだとは思っていないだろうけど、わたしから見ると、ちょっとかわいそうな人だと思った」パツコはしみじみオニオンリングを口に入れる。

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