第16話
五
汗を流さずにはいられない真夏の西浜海水浴場に、発汗機能を失った人間が一人発見され、朦朧〈もうろう〉と瞼〈まぶた〉を閉じてしまいそうな気だるい夕暮れ前の空気を一変させた。砂浜には生きた人間が蟻のごとく溢れ返っているが、死んだ人間はたった一人しかいない。希少な物に群がる習性か、それとも純粋な好奇心か、はたまた他人の不幸を眺めて優越に浸〈ひた〉りたいからか、死体に群がる一人一人が個々の持つ感応に従って集まった。死体に群がるのは蠅も人間も同じで、ただ違うのは、一方は死体の分解を働かせる作用をほとんど持たず、持つ者はごくわずかしかいない。多くが時と自分の立場を慰めるためだけに群がる。
死体を眺めて恐怖したり、泣いたり、嗚咽〈おえつ〉したり、叫んだり、笑ったり、はにかんだり、嫉妬したり、羨望〈せんぼう〉したり、写真を撮ったり、スケッチしたり、夕飯の献立を考えたり、勃起したり、尿を漏らしたり、祈ったり、説教したり、討論したり、暴れたり、笑いの材料にしたり、反応は皆様々である。
パツコは人間の死体を恐怖の象徴だと思い込んでいた。ところがその恐怖に気づかず、平然と覗いていた。その恐怖はペイタの精子を出すために利用され、ベールを脱ぐ前までは、その体に憧れさえ覚えていた。しかし表面に映された姿が一寸〈ちょっと〉ばかり変わるだけで、対象物は想像もつかない姿を現したのだ。
目にした現実に違和感を覚え、理解できず、パツコは泣きながら凝然〈ぎょうぜん〉としていた。そこへ海からあがったペイタが近づいた。ペイタはパツコの尻を叩くと、手をつかんで駐車場へと向かって走った。ペイタの頭には、ビーチチェアの裏に放った便から引き起こされる諸々〈もろもろ〉の出来事が、想像豊かに描かれていた。
頭の働かないパツコは慌てるペイタの理由を考えることなく、言われるがままに車を動かした。行き先を告げられたわけではないので、一三四号を真っ直ぐ鎌倉へと向かった。道路には海帰りの人々が延々と続いていた。
「ちっ! ぜんぜん進まねえじゃん! おめえは何でこんな道ばかり走るんだよ、この渋滞女! もっと気を利かせて、空いている道を走れねえのかな? なんでこんな使えねえのかな? ほんといらつく女だぜ」汗だか塩水だかわからない液体に濡れたペイタが、パンツ一枚の姿で理不尽なことを言い出す。
「えっ、だって、ペイタが走れって言うから、この道を走ったんだよ」落ち着きを取り戻しはじめたパツコが返事する。車は腰越漁港を過ぎて緩やかな坂を上がっている。
「おれの言う走れはなぁ、空いている道を走れの意味も含まれているんだよ。いいか? 空いている道だぞ、こんなくそ渋滞の道を走れって意味じゃねえんだぞ。勝手にこんな道走りやがって、言われたとおり走りましただと? 言われたとおり走ってねえじゃん! 何嘘ついて言い訳してんだよ!」たっぷり嫌味を込めてペイタが話す。
「そんな、わたしこの辺りに住んでいるわけじゃないし、わかるわけないよ。そんなにきつく言わないで。ねえ、なんでそんなかりかりしてるの? 海水浴場を離れてから、ずっとそわそわしているよ……、でもわかる、あんな光景を見たらあたりまえだよね? わたしも気が動転して、何がなんだがわからなかったもん、普通でいられるほうがおかしいよね」パツコは悲しそうな顔してぽつぽつ話す。
「ぜんぜんちげえよ! 勝手に思い込んで、浸ってんじゃねえよ! ぽろぽろ泣いて、続けて死にそうな顔していたおめえと一緒にすんな! おれはぜんぜん動転してねえよ! おめえの手をひいて、あの場を逃げ出そうとしたのはおれだろ? すげえ冷静な判断じゃねえか! あのままあの場に居てみろよ、警察が来てえらい目に遭うぞ!」ペイタは落ち着かずに手の甲を引っ掻く。
「そっか、だからあたふたしながら、わたしの手を引っ張ってくれたんだ。警察かぁ、ペイタは頭がまわるなあ、わたしなんか、初めて亡くなった人を見たもんだから、もうほんとびっくりしちゃって、とても警察のことまで頭がまわらなかった。今も目を閉じると、あの女性のぐったりした体が浮かんで、恐ろしくなるぐらいだよ」そう言ってパツコは一瞬目を閉じてから、進みだした前の車に合わせてブレーキを離した。
「べつにあの女の死体なんか怖くねえよ! あの女が生きてようが死んでようが、おれには知ったこっちゃねえ。二三人転がってたって、百人転がってたって同じだ。突然息を吹き返して、歩き出したって怖くねえよ。そうなったらもう一度くたばるように、レイプして昇天させてやる。それよりも警察だ、警察はまじで危ねえ」肉の盛りあがった瞼がわずかに痙攣する。
「ええぇ、突然息を吹き返すほうが怖いよ。あんな姿勢から平然と立ち直って歩きだすなんて、すごい不自然じゃない? 百人もそんな人がいたら、わたし絶対ショック死すると思う。それに比べれば警察なんてぜんぜん怖くない。むしろ頼りにして安心するぐらいだよ。そういえば、どうして警察から逃げる必要があったの? 考えなしにペイタの話にうなずいたけど、警察が来るから逃げるなんて、まるでやましいことを犯した人みたいだよ?」停止してい間、ペイタの顔を見つめて話す。
「うるせえ! べつになんでもねえよ! ただあの場にいたら、事件に関係する人間と思われて、事情聴取をくらったら面倒くせえじゃん? せっかく休みの日に海に来てんのによ、そんなことで時間を食われるのもむかつくだろ? それがきっかけで逮捕されたりしたら、いくら後悔してもしきれねえよ」ペイタは溜息をつく。
「今の言い分と、かりかりするペイタの姿を合わせると、やましいことがあるのはあきらかだね。事情聴取されたって、べつに悪いことしてなきゃ捕まらないでしょ? 貴重な休日の時間を奪われるのはいやだけど、本当なら、何かしら警察の手助けになるように、見たままのことを証言した方がいいんじゃない? わかった! あの女性を見てシコシコしていたからでしょ? 警察に目撃情報を伝えたら、『君はこんな長い時間女性を観察して、一体何をしていたんだね?』って尋ねられて、『あ、い、いえ、ちょっとばかりシコシコしてました』って証言するのが恥ずかしいんでしょ?」パツコが得意げに話す。
「てめえぶっ殺すぞ! そんな軽々しいことじゃねえんだよ!」ペイタがダッシュボードを力一杯叩く。
「きゃああぁ! 冗談よ、そんな顔して怒らないでよペイタ、お願いだからそんなにかりかりしないで。本当はすごい心配なの、だってもうあの場から離れたでしょ? なのに、そわそわして落ち着かないし、今も大きな声で怒鳴るから、もしや、何かあるんじゃないかって……」心持眉を下げてパツコが話す。
「何かあるどころじゃねえよ、あり過ぎて困ってんだよ」ペイタは前の車を見て言う。
「ありすぎるって、いったい何があるの? ねえ、ペイタ教えて?」パツコは神妙な顔つきで訊ねる。
「じゃあ、まんこに指突っ込ませろ」ペイタがすかさず顔を向けて言う。
「はっ?」パツコの顔がへんてこになる。
「まんこに指を突っ込ませたら、教えてやるって言ってんだよ」パツコの股間に向けて顎を出す。
「ええっ? 誰の指? 自分で?」酷く不審げな顔を見せる。
「ちげえよ、おれの指を突っ込むに決まってんだろ、だれがおめえの指なんて言った」わざわざ芋虫大の指をパツコに見せる。
「人が真面目に心配してるのに、何ふざけたこと言ってんの、だめに決まってるじゃん!」パツコは拍子抜けした声で言う。
「じゃあ教えねえ」ペイタが窓を見る。
「なんなの! もう、なんでそんな取引をふっかけてくるの? 今運転中だよ? 危ないじゃない!」パツコは苛立〈いらだ〉ち、すこしばかり車を進める。
「なら、あとでいいから突っ込ませろよ、ほんとは運転中だからこそ意味があるんだけどよ、しょうがねえからあとにしてやるよ。なっ、それでいいだろ?」そう言いつつも、ペイタはパツコの股間に手を伸ばす。
「わかったからやめて! あとでしてもいいから、ほんと今はやめて! お願いだから!」体を激しく退〈の〉けて、ペイタの腕を捕まえる。
「言ったな? ぜってえだぞ? あとでやっぱ無しなんて言ったら、本気で下っ腹に蹴りをかますからな」パツコの顔に指を向けて言う。
「またそんな怖いこと言って脅す、約束はちゃんと守るよ。でも、ペイタがちゃんと教えてくれたらだよ」つまらなさそうな顔してパツコがハンドルを握る。
「ああ教えてやる。おれがすぐに逃げ出そうとしたのはな、おれのうんこが導火線になるかもしれないからだ。おい、真面目に話してんだから、そんな顔するんじゃねえ、ほら、おめえが海へ捨てろって言ったうんこあるだろ? 実はあのうんこを、死んでいた女の傍に捨てたんだよ。べつに考えてしたわけじゃなくてよ、気づいたら捨てちまったんだ、たぶん、せっかくおかずとして働いてくれたから、何かしら礼がしたい気持ちでもあったんだろうな、だから、おれのうんこを感謝のプレゼントとして、香りでも嗅いでもらおうという気になったんだろうな。おれはてっきり熟睡していると思っていたからよ、夢の中におれのうんこの香りでも現れて、しかめっ面なんかしてくれれば幸いぐらいに考えていたんだよ、ところがあの女死んでんじゃねえか!」ペイタはパツコの顔を見ずに話す。
「きっと、ペイタのうんちが原因で息を引きとったんだよ。寝ている間、臭いを嗅ぎたくないから無意識に息を止めて、うっかり呼吸ができなくなったんだよ」パツコは前を見て話す。
「うんち言うんじゃねぇ! おれもそのことは考えたんだぜ、おめえは冗談のように思って話しているのか知らねえが、この世は平気で冗談みてえな出来事が起こるんだよ。自然の色が変わって見えるなんて、おまえが今言った話よりあり得ねえじゃん、それがおれ達二人には、実際違って見えるんだからな。万が一ってことがあるからな、おれのうんこが原因であの女が死んだとしたら、おれは殺人犯ってことになる。そう考えたら、あんなところでおちおち見物なんかしてられねえよ。警察を見ただけでびくびくしちまうよ」ペイタの目の動きが忙〈せわ〉しなくなる。
「言うことはわかるけど、ちょっと考えすぎじゃない?」パツコは笑いながら言う。
「馬鹿野郎! それだけじゃねえ、仮におれのうんこがあの女を殺さなかったとしても、現場検証に来た検察がおれのうんこを発見したらどうする? 鑑識に回すだろ? 死体の傍に排便したての人糞が落ちてんだぜ? あきらかにおかしいじゃねえか、おれが検察だったら、事件に関係があると睨んで糞の持ち主を探すぜ? そうだろう?」ペイタが興奮した顔でパツコに迫る。
「たしかに、ペイタのうんちを鑑識する人はとんだ災難だね」パツコは含みの有る険しい表情で頷〈うなず〉く。
「てめえ、馬鹿にしてんのか? うんちって言うんじゃねえよ! まんこに指突っ込むぞ! おれのうんこが鑑識されてみろ、DNA鑑定でおれという人物が割り出されて、事情を聴きに警察がおれのもとに来るだろ? そうなったら大変だ! さらに、うんこが発見された時点で、警察が不審な人物はいなかったかと野次馬に聴きまわり、おれの動きを目にしていたやつが、あることないこと出たら目に証言していたらどうなる? きっと、女をつけまわし、砂浜に寝そべって観察していたことがばれるぞ、あれだけたくさんの人がいたんだ、見ていないやつはいない、そんなことはあり得ねえ」ペイタの腋から大量の汗が滴〈したた〉る。
「そうだね、でも、見てなかったかもしれないよ」パツコの顔が仄〈ほの〉かに強張〈こわば〉る(アレダケ目立ッテイタカラ、ミンナ見テルカモ知レナイ)。
「きっと人々の証言から、おれがオナニーしていた場所も発見されて、おれのうんこと精子が検出されるんだ。そうなったらよぉ、頭が回らなくても、性欲を持った男なら誰にでもわかるプロファイリングをして、確証を持っておれのところへやって来るんだぜ。そうなったらいくらごまかしたって無駄だ、実際の証拠が残ってんじゃ何言っても敵〈かな〉わねえよ。証拠を盾に強引な自供に迫り、推論に頷かせていくように答弁させるんだぜ。『あなたは気にいった女性を見つけると後をつけ、女性が寝ているのをよいことに自慰行為に耽〈ふけ〉り、自分の糞便を傍に置いて殺害したあげく、知らぬ顔をして女性の遺体を放置した、間違いないかな?』ああっ! そうして容疑者として捕らえられたら、さっそく尿検査だ! 家宅捜査だ! あああ、全部ばれちまう! 三年前から師匠と一緒に盗撮して、方々にばら撒いた少女の糞尿動画や女子高生のレイプ動画、二日前に吸った大麻、三日前に炙〈あぶ〉った覚せい剤、四日前に飲み込んだオピューム、五日前に食べたエクソダス! ああっ! 全部ばれちまう!」頭を抱えてペイタが絶叫する。
「きちがい! 捕まったほうがいいよ!」パツコは呆れ返っている。
「女性の体を覗いていた事による窃視罪・砂浜で自慰行為に耽った事による公然わいせつ罪・便を使用して女性を殺した事による殺人罪・女性の遺体を放置して逃走した事による死体遺棄罪・児童にわいせつ行為を加えた事による児童売春ポルノ法違反・女子高校生を強姦した事による強姦致傷罪・無修正アダルト動画の密売によるわいせつ物頒布罪・大麻取締法違反・覚せい剤取締法違反・あへん法違反・麻薬及び向精神薬取締法違反、以上! 考えられる罪状を並べただけでも、この世から葬り去られそうなくらいだぜ。どうだパツコ? 万が一おれのうんこから火がついてよ、これだけの罪状に一つ残らず飛び火して、死刑を勧告されたらどうだ? あのなにげなく放ったうんこが、思いがけない大きさの花火を散らすことになると思わねえか? だからおれはあの場から逃げて、そわそわしてたんだよ」ペイタが醜い顔をパツコに近づける。
「もう、何も言うことないよ、開いた口が塞がらないって言うのは、今のわたしみたいな状態を言うんだね、はあ……、あのあと警察に捕まっちゃえば良かったんだ。醜い兄とは思っていたけど、まさかこれほど醜いとは思いもしなかった、はあ……、よくこれだけのことをしておいて、まともな神経でいられるね、ああ、まともじゃないからするんだろうね、はあ……、ペイタの馬鹿!」パツコは魂が抜けたようである。
「捕まっちまえとは、おまえ、実の兄に向かってなんてこと言うんだよ、薄情なやつだな。まあ、これでわかっただろ? もしかしたらを想像してよ、その想像が当たったらとんでもないことになるんだぜ。今並べた罪状の一つでもひっかかれば、おれは立派な犯罪者としての烙印を押される、それなら、その可能性を多少でも減らした方がいいじゃねえか。家に戻ったらな、おれのコレクションをすべて捨てて、しばらくの間海外へ行くぜ」ペイタは仰山〈ぎょうさん〉な身振りを交えて説明する。
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