第10話
ペイタがタカアシガニに食欲をそそられている間に、パツコは下へ続く階段を下りて、相模湾大水槽の全景が見られる巨大ガラスの前に立っていた(スゴォイ! コレコソ海中ニイルミタイジャナイ!)。広間には多くの子供連れが集まり、感嘆の声をあげて誰もが水槽を見上げている。大小様々な魚類が泳ぎ回る中、銀色の群れを蠢かせるマイワシの固まりが一際目立つ。一万匹ほどいるのだろうか、実体の定まらない一つの生物らしく、輪郭を広げたり縮めたりしながら、流動的な動きで水槽内を移動する。
脂肪分たっぷりのペイタが階段から下りてきた。広間の端に立つパツコの姿を見つけると、わざとらしく子供達を避けながら近づく。ペイタに気がついたパツコもゆっくりと近づく。
「すごい綺麗だねペイタ、わたしこの景色を見れただけでね、ここまで足を運んでよかったと思う。あんなにたくさんいる魚の群れなんて、実際に見ることなんて滅多にないよ。あれはなにかな、鯵〈あじ〉かな、それとも鰯〈いわし〉かな? なんだろう」ペイタの隣に立つパツコは揺れ動く群れに腕を伸ばして示す。
「わからねえけど、青魚じゃねえのか。すげえよな、あれだけいたら食い放題だぜ」パツコの指す方を見てペイタは答える。
「ペイタの食欲じゃ食い放題までいかないよ、せいぜい三日もてばいいんじゃない? でもたくさんいるよね、あれだけいるのにさあ、みんな一緒の動きができるなんて不思議だよ、どうやって通じあってんのかな?」パツコが指す群れは、急激な弧を描いて中央へ移動する。
「知らねえよ、糸でもくっついてんじゃねのか」ペイタは群れの動きを目で追う。
「それなら細かい糸がたくさん必要だね。じゃあ先頭を泳ぐボス魚がいてさあ、お尻から糸が出てうしろの魚につながってんのかなぁ? それならみんなボスに引っ張られて、同じ方向へ動くね。でも、からまったりしないのかな」ペイタと群れを交互に見ながらパツコは話す。
「だから知らねえよ。あれじゃねえの、雄のうしろに雌、雌のうしろに雄がついていてよ、相手のけつばかり追っかけているから大丈夫なんじゃねえ?」ペイタが群れに向かって話す。
「そっか、異性の尻を追っているのね、それじゃあ、あのお魚さん達はみんな恋してるんだね。一匹でも恋していない魚がいたら、群れからはぐれちゃうもんね。ペイタも意外とロマンチックなこと言うじゃん」パツコがうれしそうに話しかける。
「ちげえよ、あの魚全部が発情して、交尾を求めているんだよ。生殖器に血が集中しすぎているから群れているんだよ」ペイタが平然と言う。
「うわあ、だいなし! もうやめてよ、せっかく純粋に楽しめる水族館にいるのに、そんな汚れた卑猥なことばかり言ってさあ、もっと子供心をあおる夢のある話題ができないかな。とにかく、もうきたないこと言わないでよ」端正な顔が台無しになるほど、パツコは顔を顰める。
「おい、きたねえのはおめえだろ? おれの言うことにきれいもきたないもねえよ、いたって普通の性の話じゃねえか、ただ、性に関することが多いだけだろ? きたねえと思うおまえが一番きたねえよ」隣にいるパツコの顔を睨んで、ペイタは強い語調で話す。
「わたしがきたないわけないじゃん、きたないのはペイタの体と頭でしょ! すぐ、わたしのあそこがどうだとか、ああだとかけちをつけるくせに、人の断りもなく体をさわろうとするじゃない、さわられる人の気持ちを考えたことある? ないでしょ?」パツコも睨み返す。
「あるわけねえじゃん、自分のことを考えるからさわるに決まってんだろ? おまえのことなんかいちいち考えるか」潰れた顔を震わせてペイタが話す。
「ひどい! わかっていたけど、はっきり言われるとなんか腹が立つ。じゃあ、自分の体を勝手にさわられたら、ペイタはどう感じる?」両足に力を入れてパツコが言う。
「あっ? いやに決まってんじゃん! けど、若くてスタイルのいい、顔の綺麗な女だったら気持ちいいだろうな。乳首や股間を皮膚のない舌で舐〈な〉められたり、乳を擦〈なす〉りつけられたり、けつを顔面に乗せられたりしたらたまんねえな。おまえじゃだめだぞ、エロイ女なら許せるんだぜ、おお、興奮してきた」ペイタは股間をもぞもぞ弄〈いじ〉くる。
「なんて不潔なの!」パツコが身を一歩引く。
「なんだよおまえ、おれがさわるのを許さないから、悔しくてひがんでいるんだろ?」平べったい鼻をペイタは膨らませる。
「脂臭いペイタの体なんて、好んでさわりたいなんて思ったことないよ。一度だってないからね」小さい口を尖らせてパツコが話す。
「嘘つけ! 昨日の夜も、喜んでおれのペニスにしゃぶりついていたじゃねえか、ほら、欲しいなら今しゃぶりついてもいいぜ? ちょうど勃起しているところだしよ」そう言って、勃起して盛りあがっているのか、それとも脂肪で膨れているのかわからない股間を前に突き出す。
「馬鹿!」パツコは顔を真っ赤にして、股間の膨らみを平手で思い切り叩く。
「おふっ、ほら、やっぱり好きなんじゃねえか」ペイタの腰がびくんと引けた。
「もうこんな馬鹿なやりとりやめようよ! とにかく水族館内だけでも卑猥なことを言わないで! わたしの体にさわらないで! わたしの体のことも言わないで! わかった?」パツコがもう一度ペイタの股間を叩く。近くにいたおばあさんがぎょっとする。
「なんだよ、またさわりやがって、二回もさわっていいなんて言ってねえだろ。それに、おまえは言われるのも、さわられるのも好きじゃねえか」再び股間を突き出してペイタが言う。
「そんなことない、ペイタにさわられるたびに悪寒がするもん」今度は股間を無視する。
「ええっ? なんだ、おれじゃなくて、イケメンなんて呼ばれている連中だったら、うれしくて勃起するのか? パンツ湿らせちゃうのか? おいっ?」そう言ってパツコの背後にまわり、尻に股間の突起物をぶつける。
「もう! そういった話は終わり! もう絶対にしないでよ! 男はみんな不潔だから、だれにさわられたっていやだからね」
そう言ってペイタから離れた途端、館内アナウンスの声が流れて、相模湾大水槽前でショーが始まると告げられた。パツコは放送を聴いている最中にペイタの手をつかみ、子供の手に引かれる家族達が集まるより早く、前列の位置を確保した。それから直ぐに広間は若い家族連れに埋めつくされた。
「パツコ見てみろよ、妖怪色したガキどもがわんさかと集まっているぞ、B級ホラー映画にでもありそうな、大量発生した怪物が一ヶ所に集まるシーンだぜ。気持ちわりい!」後ろを振り向いたペイタは顔を戻すとそう言った。
「さすがに大勢集まると、異様な感じがしちゃうね」パツコがくるっと後ろを振り返ると、鼻の潰れた巻き毛の少年と目が合った。
「こいつらが突然爆発したらさ、緑か紫色の血をばらまいて飛び散るぜ、ほらパツコ、昔見た映画でさ、電子レンジに入れられた怪物がさぁ、こう、パンッって爆発するシーンがあっただろ? おまえがそれを見て小便をもらした時だよ」ペイタが隣に座るパツコの耳元で話す。
「やだぁ、そんな昔のこと思い出さないでよ。あの時はびっくりして、本当に怖かったんだからね。三ヶ月間は一人でトイレに行けなかったんだから、もうっ、気持ち悪いこと言わないでよ」恥ずかしながらもどこかうれしそうにパツコは話す。
「にしても、ガキがまじで多いな。こいつら全員が中出しの産物だから、こいつらを生み出すのに、この水槽が溢れるぐらいの精液をぶっぱなしたんだろうな、いいよな、中出しし放題って」ペイタが驚いて話す。
「ほんと最悪!」
パツコがそう言い出す間に館内アナウンスは流れ、ダイバーと魚とが繰り広げるショーが始められた。
ショーを見終わると、二人は深海コーナーとクラゲファンタジーホール、冷たい海・暖かい海ゾーンを見て回った。
深海コーナーに展示されている物は、常軌の形を逸した生物が多く、暗い深海を飾る赤い照明は目の狂った二人にその影響を感じさせなかった。色彩よりも、パツコの顔よりも大きな、ワラジムシを巨大化させたダイオウグソクムシに二人は驚いてしまった。
クラゲも同様だった。様々な色の照明に当てられた小さなクラゲは、幽玄とした青・紫・黄・赤に映え、大きなビー玉が浮いているかのようだった。人工的に着色されたクラゲには、もはや元の色など有りもしなかった。長い触手が無数に伸びる半透明のクラゲは、ペイタに浴槽内で射精した精液のようだと例えられた。太い毛糸のごとく縮れた触手を垂らすクラゲは、黄色に光る笠がえげつなく、巨大な人魂〈ひとだま〉が浮遊しているようだとパツコに怖がられた。
しかしもっと恐ろしかったのは、そのクラゲが幾匹も遊泳する大きな水槽内を、機械的に動き回る人の手によって造形された物体だ。アニメーション映画に登場するキャラクターらしい女の子は、くすんだ赤いマントをひらつかせて泳ぐ形に定められ、動きのない姿で水槽内を動いていた。柔らかいクラゲが蠢く中を、たった一つだけ異常な固形物が動いていた。
そのアニメのキャラクターを見て多くの人が喜んだ。パツコもかわいいとはしゃいだ。ペイタは子供だましだと激しく罵倒すると、アニメの主題歌に男性器を掛け合わせた替え歌を作った。「ぺぇぇに、ぺにぺに股間の子、ぺぇぇに、ぺにぺに膨らんだ」と同じ節〈ふし〉をしつこく歌い、パツコの持っていた愛らしい映画のイメージを汚辱した。
暖かい海ゾーンにいる生物は、何一つまともな色を二人に見せなかった。灼熱の太陽の恩恵を受けたに違いない彩色の生物は、二人の目に鮮烈に映った。見慣れていない物がどれだけ変色していても、新鮮に見える二人には、その生物が持つ本来の色だと受けてしまう。珊瑚など特にわからない。陸上に生きる二人には、水中に生息する常識外の生物との接点はほとんどない。綺麗な海にいる物ぐらいにしか思っていないペイタは、テレビに映る珊瑚の姿に関心を抱くこともないから、まったく記憶に残らない。珊瑚など未知の生物でしかない。
狭量なるペイタはその内面を如実〈にょじつ〉に表す細い目で珊瑚を眺め、決まりきったように「気持ちわりい」評価をくだし、人間の性に関する生々しい物に例えてばかりいた。「ほんと、宝石のように綺麗な生物ばかりだね」狂った色彩に悦を覚えては、カメラを通して見る本来の色と比べて、パツコは有りのままの水槽に興味を注いだ。水族館内にいる多くの家族連れも、ぴたりと重なることのないそれぞれの感覚を持って展示物を見回っていた。
ペンギン・アザラシ・オットセイゾーンを見て回ろうと、二人が階段を上がろうとすると、大勢の人が急ぎ足で階段を上がっていく。小さな赤子を抱きかかえる女性が、「イルカショーが始まるわよ、急いでちょうだい」耳朶〈みみたぶ〉の薄い幼児の手を引く夫に話しかける。
その言葉を耳にしたパツコは、「あっ! イルカショーを忘れてた!」入り口でもらったタイムスケジュールを鞄から取り出し、顔に近づけて凝視する。「うわぁ、もう始まっているよ!」そう言うと、直ぐにペイタの太い手首をつかんで階段を上がろうとしたが、土嚢〈どのう〉を持ちあげる手ごたえを感じて足が止まってしまう(重ッ!)。遅れて動き出したペイタを待って、パツコは焦〈じ〉らされながら階段を上がった。
哺乳類の展示された通路を抜けて外のデッキに出ると、夏の眩しい空──ペイタ薄桜色・パツコ利休白茶色──が二人の左方に開けた。水族館に入る前よりも雲が広がり、太陽は隠れているものの、その輝きは雲の合間を通して地表を照らしている。湘南の海──ペイタさび色・パツコ鈍色──は下水のように濁って見える。
「きたねえ海だな」パツコに手を引かれながらペイタはつぶやく。
「そうね」そう答えるパツコは振り向きもせず、騒がしい声の集まる先へ向かった。
バームクーヘンを切り分けたような半円のショースタジアムでは、すでにイルカショーが始まっていた。笛の合図と餌によって操られたイルカが美しい線を宙に描き、取り囲む人々は陽気な音楽と共に歓声をあげている。
パツコはプールを見下ろせる手摺〈てすり〉に近づくと、ペイタを捨てて並んでいる人の隙間にうまくに割り込んだ(きゃああぁ)。ペイタもパツコの隣に割り込み、磯巾着らしい髪型をした中学生の男子を押し退けた(マセタ小僧ガ、ドケヨ)。男子は肉厚に押されてしまい、カサゴのように鰓〈えら〉の張った連れの女子と一緒に、敢〈あ〉え無く列から食〈は〉み出されてしまった。
「きゃああ! かわいい!」手摺にしがみついたパツコがはしゃぐ。
「うおお! なんだよあれ、妖怪の集会じゃねえか!」客席を埋める人々を見てペイタがぎょっとする。
「跳んだ! すごい! 仲良くジャンプしたよ」ペイタの声を知らずに無視している。
「おい見ろよパツコ、あんなに妖怪がいるぞ!」パツコの細い肩に手をかける。
「きゃああ、あのイルカ大きい! クジラみたい!」肩に注意が回らない。
「おい、パツコ見ろよ、苔〈こけ〉に侵〈おか〉されたガキがあんなにいるぞ!」パツコの肩を揺する。
「えっ? 何っ? うわあ、すごい水しぶき! 前列の人達大変だ!」ペイタを一瞬見て、すぐにプールへ目を戻す。
「おい! 今濡れたあの髪の長いやつ、大人のくせに肌の色が違うぞ」ペイタが指し示す。
「あははは、あの人達、あんなに濡れてるよ。かわいそうだね」無邪気にパツコは笑う。
「あいつ男か? 気持ちわり、あいつ三編みしているくせに、髭が生えてるぜ!」ペイタの顔が歪む。
「うわっ! 一回転した!」パツコの視線が忙〈せわ〉しなく動く。
「おい! パツコ見ろよ、あいつ男だぜ!」パツコの肩を激しく揺すぶる。
「何よ、さっきからうるさいな! 見てペイタ! すごい速さで水中を泳いでいるよ、狭いプール内にあんなにたくさんいるのに、よくイルカ同士でぶつからないね!」パツコがプール指して腕を伸ばす。
「知らねえよ、それより、あいつ見てみろよ、大人の妖怪は一段と気味わりいぜ」ペイタはラスタカラーのバンダナを巻いた男指して腕を伸ばす。
「プールの水が正常な青に見えるのは、底の色が映っているからなんだろうね」パツコがペイタに顔を向ける。
「たぶん、大人の出来損いなんだぜ? だからあんな色してんだよ」卑下する気持ちを込めてペイタが話す。
「ほんとだ! 新宿で見た以来だね」
パツコは男の色を一瞬だけ確認すると、腕を引っ込めてイルカ達に目を向けた。
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