第9話

 次に、横に細長く伸びた川魚の水槽が展示されていた。照明の影響が大きいのだろう、ベージュを基調とするその水槽には岩が多く、古代をどこか感じさせる、潮っ気のない清流が形成されている。魚の色はどれも落ち着いていて、大雑把な色の判断だけでは魚を区別しにくい。水槽上部に見やすく張られた写真には、オイカワ、アユ、ウグイ、アブラハヤが紹介されている。


「これは照明がわりいよ、水槽全部がいかれてる。科学的な色の緑茶に染まっているぜ」ペイタが水槽を眺める人々に注意してパツコに話す。


「悪いってほどじゃないけど、ちょっと強烈ね。わたしには紫がかって見えるよ」パツコが口元を広げて話す(科学的ナ色ノ緑茶ッテ何?)。


 隣は渓流の一端を切り取ったような小さな水槽だ。露〈つゆ〉の光る瑞々〈みずみず〉しい羊歯〈しだ〉植物の葉に、保護色を身に着けた小さな蛙が、顔を斜めに向けてそれらしく座っている。


「きゃああぁ、すごいかわいい!」そ知らぬ顔で構える蛙を見て、パツコは大いにはしゃいでペイタの腰を叩く。


「ぼけた野郎だ」ペイタが厳然と蛙を見下ろす(ドコガカワイインダ?)。


 二人が後ろを振り返ると、小さい子供を抱きかかえた婦人や、上下を黒に着こなす男性が、上からなにやら覗き込んでいる。近づくと、貝殻の破片が散らばる小さな干潟だ。


「これなんか、色が変わったように見えねえな」利休ねずみ色──ミスト・グリーン──とでもいうべき砂利を見てペイタが言う。


「そうだね。やっぱ色が薄いからじゃない?」小さく頷きパツコは返事する。


「しかしつまんねえ水槽だな、何がいるのかわかんねえよ」ほんのすこし顔を下げてペイタが言う。 


「見て、ちっちゃな蟹がいるよ。ほら、あそこにはムツゴロウもいる」ぱっとしない色の蟹と鯊〈はぜ〉を見てパツコが指差す。


「意味のねえやつらだ」目を細めてペイタが言い捨てる。


 深い興味を持って目を留めることなく、二人はすぐに隣の水槽へ移った。殺風景な水槽を見た直後のせいか、葦〈あし〉のように細長いアマモが茂る水槽はやけに明るく映る。白っぽい砂利から伸びるアマモは、淡水に生える水草のような黄緑色をしている。


「この水槽もなんだよ、草ばかりで魚がいねえじゃん」かすかに揺れるアマモを見てペイタが口にする。


「ペイタはこの海藻が青色に見えるでしょ? わたしねえ、ペイタの見る色がなんとなくわかってきた。もうデジカメを通さなくても、実際の色だってわかるよ」パツコが首を曲げて話す。


「どうせおめえは生理色に見えるんだろ? こんな色は車の中から散々見てきたから簡単だぜ。偉そうに調子づくな」にやりとした顔をパツコの耳元に近づけてペイタは囁〈ささや〉く。


「最悪!」途端にパツコは思ったままの言葉を声に出し、両手を突き出してペイタの鈍い体を押し退〈の〉けようとした。ところが弾力の塊はまるでびくともしない。


「血の気の多い女だな。周りの人に迷惑かかるからやめろよ」ペイタはもったいぶった調子で言う(ヘッヘッヘッ)。 


 ペイタが動かないとわかると、パツコはさっと距離を取り(コンナ肉ノ塊、動クワケナイジャン!)、つんとした表情を浮かべて、自分の鼻を自慢するかのように水槽を見つめる。すると目の前を丁度、膨れた体のウミスズメが横切った。


「うわああぁ、ぶさいく! ブタバラフグだ! ペイタフィッシュだ! 醜いね!」パツコがわっと笑う。


「うるせえ! 全然似てねえよ!」


 ペイタはそう言ってパツコに近づこうとするが、あからさまに馬鹿にした笑みを浮かべたまま(フフフ、ペイタソックリノ魚、チョットカワイスギルケド)、パツコは次の水槽へ逃げてしまう。


「すごい! ねえ、ペイタ見て」丸い目を輝かせてパツコが手招きすると、「これはわけがわかんないよ」やたら明るい声で話す。


「わけわかんねえのはおめえだよ」鋭い目を携〈たずさ〉えてペイタが近づく。


 細かい触手の生えた紫陽花〈あじさい〉、濃い繊毛〈せんもう〉に覆われる鹿の角、埃〈ほこり〉塗〈まみ〉れの百足〈むかで〉の群、過剰に枝分かれした血管標本、等々の珊瑚〈さんご〉らしき生物が、濃い色の、黄、紫、青紫、赤紫、赤、橙、そのどれかしらに染まっている。泳ぐ魚も、オキゴンベ、サクラダイ、シラコダイ、ニシキハゼ、等はやはり濃い色に染まり、不健康ともいえる極彩色に水槽は飾られている。どうやら光源が強く手助けしているらしく、水槽上方に張られている青い空に白い雲の浮かぶバックスクリーンに光が当たり、薄ピンクから紫を経て、高山に見られる空色よりも深い青にグラデーションを成している。


「色が違って見えようが見えまいが、まるでおかまいなしだな」ペイタは蝋〈ろう〉を塗りたくったような顔して言う。


「毒々しい色って、こういうのをいうんだね」パツコが妙に感心した様子で言う。


「おい、あの空見ろよ、おれの空はあんな感じだぜ」ペイタはバックスクリーンの薄ピンクへ指差す。


「鮮やかな色だね、ちょっとしつこい気もするけど」パツコはうれしそうに返事する。


「なっ、勃起しそうだろ?」ペイタが厚い手の平をパツコの肩にかける。


「えっ、そう言われても、わたしにはわからないよ」すこしばかり不愉快そうな顔をしてパツコが返事する。


「嘘つけ! 股の割れ目に大きな小豆〈あずき〉をつけているじゃねえか、いや違ったか、芽キャベツか、あれが勃起するだろ?」左の眉を下げてペイタが話す。


「きたない! ペイタはそんな話ばかり」丸い目を鋭くさせたパツコは横目に見て、「ほら行くよ、ピンクフグ」先に歩き出した。


 通路の横半面が半筒状のガラスに覆われた場所に着き、二人は立ち止まった。海岸向かってうねりを叩きつける大波が、その口を開けて巻きつく寸前の姿を切り取ったように、明るい通路は水に覆われている。上部は水中から海面を見上げるように、銀色の陽射しと無数の気泡に輝く。弓なりの側面には、相模湾大水槽の上部に生活を置く魚達が泳いでいる。遠くにはパツコが睨まれたと思っている、シイラが一匹だけやけに浮いて見える。


「すごぉい! 水中の中にいるみたいだね、見て! おでこの突き出たあのシイラがむこうで泳いでいるよ。今はさっき見た水槽の奥にいるんだね、すごいね!」


 ガラス曲面にへばりつく小さな子供達の間に入り、小さなパツコは水槽に顔を近づける。


「ピンク色じゃ水中にいるような気がしねえよ」


 パツコの後ろに立つペイタが言う。ペイタの体つきでは子供らの間に入り込む隙間はなく、無理すれば押し潰してしまう。


「またそんなこと言って、ペイタったら未練がましいのね。今は通常の青に見えないんだから、今見える色で水槽を楽しまなきゃもったいないよ。青なら青、ピンクならピンクなりの美しさがあるはずだよ、わたしだったらピンクでも絶対楽しめるのに」口を心持尖らせてパツコは振り返る。


「おまえは野生的な馬鹿だからすぐに順応するんだよ。おれみたいな繊細で都会的な人間には、そんな軽薄な適応ができないんだよ。いいよな、馬鹿は気楽で」ペイタは瞼〈まぶた〉の肉に覆い隠されそうな目でパツコを見る(ガキト並ブト、コイツモクソガキミテエダナ)。


「野生的だか都会的だか知らないけど、水族館に来て素直に楽しめるなら馬鹿でもいいよ。楽しめない利口者よりもずっとましだもん。それよりも、もっと楽しみなよペイタ」そう言ってパツコはペイタの横に並び、「ちょっと視点を変えてさ、発想豊かに見れば楽しめるんじゃない? 例えばさ、巨大な水槽内はすべてピーチジュースで満たされていてね、塩の代わりに果汁入りなの。魚達は果汁入りの水じゃないと生きていけないから、真水なんかに入れられたら大変! 海もピーチジュースに満たされていて、潮の流れとは言わずに、桃の流れなんて言うの。潮水よりもべとべとしていて、海岸に近づくと甘い桃風が香るの。どう? そう考えると、この水槽に見える水の色もなんだか納得できない?」水槽を指しながら笑みを湛えてパツコが話す。


「三歳児の発想だな。まるで現実が見えてねえ」ペイタは表情変えずに言い捨てる(アア、イカレテイル)。


「何言ってるの、海水がピンク色に見えるほうが現実離れしてるじゃんよ、なら、現実離れした空想をあてはめるほうが、とても現実的じゃない?」ペイタに体を向けてパツコが話す。


「おい、それを現実逃避って言うんだよ」唾を吐きかけるような仕草でペイタが言う。


「ピンク色を認めずにぷにぷにしてるペイタのほうが、現実逃避してるじゃない。見えている事実をもとに空想したわたしのほうが現実的だよ」大きな目を細めずにパツコは言う。


「嘘つくなよ、おまえにはピンク色の海水がわからねえだろ? 調子づくなよ」ペイタが首を横に傾げる。


「そりゃそうだけど……」パツコは一度下に目を向ける。


「じゃあなんだ、おまえは自分の見てる色をもとに空想でもしてるのか? ああ? 幼稚なおまえのことだからしてるんだろ? どうせ、水槽内の海水はリアルゴールドで満たされているなんて思っているんだろ?」でかい顔をパツコに近づける。パツコの三倍はありそうなペイタの顔の面積だ。


「えっ? リアルゴールドって何? フルーツ?」きょとんとした顔でパツコは返事する。


「馬鹿、フルーツなわけねえだろ。おまえリアルゴールド知らねえのか?」腋〈わき〉を掻きむしりながらペイタが言う。


「初めて聞いたよ、なんかいかつい名前だね、直訳すると“現実的な金”か、それとも“本物の金”かな? なんか高級な名前というか、シビアな名前というか……、それで、それはなんなの? 現実的という話に何か関係あるの?」ちょっとばかり微笑んでからパツコが訊ねる。


「なんでもねえよ、説明するのも面倒くせえ!」ペイタは顔を水槽に向ける(チッ)。


「えぇ、リアルゴールドって何? 中途半端に名前を出しておいてずるい、教えてよ。野菜?」がつっとペイタの脇腹の弛みをつかむ。


「つかむんじゃねえ、自分で探して見つけろよ。けど野菜でもねえぞ、もっと科学的な物だ」パツコの細い腕を払い退けると、「でも考えるなよ。考えたってなんの特にもならねえからな。それよりも、おまえは野菜色の水を見て何を空想したんだよ」ペイタは脇腹を摩りながら話す。 


「べつに空想してないよ、だってペイタと違って、目の前の色に理由をつけたりする必要ないもん。黄緑色の水槽、ううん、メロン色の水槽を見ても、わたしじゅうぶん楽しめるからね」肩から提げる鞄をパツコはかけ直す。


「おい、なんでメロンって言い直したんだよ」ペイタが突き掛かる。


「黄緑色じゃ、なんか味気ないでしょ? かといってレタス色だとサラダ臭い感じがするから、甘いメロンにしたわけ。ペイタがピーチなんだからわたしがメロン、同じフルーツ仲間だから、空想しても同じような甘い海水になるよ」パツコはとろい口調で話す。


「おめえは青汁くせえ海だろ」ペイタが茶化して言う。


「それがいやだからメロンにしたの。青汁入りの海水なんて老人臭いじゃない」パツコは語尾を伸ばして言う。


「喜べパツコ、今おもしろい空想を思いついたから、ピンク色の海水は乙〈おつ〉な物になったぞ。おまえにはとても考えられない原始的な世界だ」ペイタは潰れた笑みを浮かべて話す。


「えっ、ほんと? 何考えたの?」パツコが素直な反応を示す。


「ピンク色の海水に包まれたこの通路はな、なんとおまえの膣の中なんだ。上に見える白く泡立った水は、気持ち好くて吹き出ちまった汁だぜ、ほら、おまえは阿呆なぐらい股をぐしょぐしょにさせるじゃん。この突起物のないつるつるした壁面なんて、おまえの穴の中そっくりだぜ。見ろよ、あの魚達がなにかわかるか? あれは子宮目指して突き進むたくましいおれの精子……」身振りを交えてペイタが畜生らしく話す。


「けだものぉ!」パツコは恐ろしい顔を桜色に染めて、両手でペイタを突き倒そうとする。腕はペイタの肉厚にめり込み、力を吸収されてしまい、まるでびくともしない。腕を抜くとすぐに歩き出し、強い足音を響かせて通路の先を曲がってしまった。


 ガラスに張りつく変色した子供達に目を移してから(キタネエガキガ多イナ、気持チワリイ)、意地の悪い顔を変えることなく、ペイタはおもむろに先へ進んだ。暗い通路を曲がると、虫眼鏡を巨大にしたような円形のガラスが、壁面に幾つか埋め込まれている。パツコの姿は見当たらない。ペイタがガラスに近づくと、やけに輪郭の広がったミノカサゴが見えた(変ナ形ノ魚ダナ。アイツガコレヲ見逃ストハ)。


 次のガラスには、黄色いキャップを被った小さな子供とその弟らしき子供が、水槽にべっとり手の平をつけて喜んでいる。その後ろでは頭の禿げた老人と、体の大きな婦人が見守っている。ペイタはガラスを見もせずに通り過ぎた(邪魔ダナ、見タラサッサトドケヨ)。


 さらに進むと、大きな水槽が幾つか展示されている場所に着いた。相模湾で採れる食用の魚が展示され、どの水槽も青いバックスクリーンがかかっている。カンパチの水槽と石鯛の水槽を過ぎた奥に、パツコがぽつんと水槽を眺めている(フフフ、窮屈ソウ。ワザワザ狭イ場所ニ集マルナンテ、変ナ魚ネ)。それを見たペイタはパツコに近寄らず、身の締まったカンパチの泳ぎ回る水槽の前に立った(生キタ魚ヲ展示スルダケジャナクテ、魚ノ味モ確カメラレルヨウニ、試食コーナーモ設置シロヨ)。


 ペイタの体に気がついたパツコは関心を示さずに(小サイ子供ガ多イカラ、醜イ体ツキノペイタハ目立ツナ)、次の水槽へ移った。ペイタは腹を摩りながらカンパチの動きを目で追っている。


 ペイタが先ほどパツコの立っていた水槽に着くと、四角いブロックの穴の中に何匹もの穴子が詰まっている。細長い籠〈かご〉に詰め込まれた胡瓜〈きゅうり〉のように、愛嬌のある顔をすこしばかり外に出している。水槽を泳ぐ魚は他に見られない。ペイタは体を屈めることなく、じっと穴子達を見下ろした(コイツラ馬鹿ジャネエノ、外ニデリャイイジャネエカ)。パツコは通路の端にある薄暗い大水槽の前に立ち、ひっそりとたたずむ巨大な肋骨、タカアシガニを眺めている(ナンカオッカナイ蟹ダナ、足ノ長イ巨大ナ蜘蛛ミタイ。赤ミガカッタ色モ、モトモトノ色ヲ見テイルミタイ)。

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