第8話

   三


 二人の車は混雑していた藤沢を越えて、ようやく海岸道路に差し掛かった。丁字路を左に曲がり、一段と陽射しが増したような開放感のある道路をすこしばかり走ると、右手に一目でそれとわかる白い新江ノ島水族館が見えた。深みを増した空は色が濃く、綿〈わた〉を千切った小さな積雲が方々にぼんやり浮かんでいる。立体的な新江ノ島水族館は陽の光に輝き、やけに存在感がある。


 パツコは建物に近い駐車場に車を停めた(心配ダッタケド、空〈ア〉キガアッテ良カッタ)。広々とした駐車場には光沢のある人工色を反射させて、色彩豊かな斑〈むら〉のない車達が整然と停められている。家族や友人、恋人同士で来ている者など様々だが、多くが年齢層の若い人々で構成されていた。


「ペイタ見て、あの女の子、とてもかわいい水着を着ているよ。いいな、やっぱりわたしも水着を持ってくればよかった」


 車から降りたパツコは、水族館へ向かって歩きながら話しかけた。その視線の先には、上半身の水着を曝〈さら〉け出し、ロングスカートを穿〈は〉く胸の平たい女が、つんとした面持ちで歩いている。隣には陽に焼けた男が笑い、歯並びの悪さを露呈している。


「あれのどこがかわいいんだ? 貧相な乳じゃねえか、まあ、腰の線はいいけどよ。それよりもパツコ、今の男の顔を見たか? 台風の被害にあったような歯をしていたぞ。せっかく色が違って見えるなら、ああいう歯の色が変わればいいのにな」体中に汗を光らせてペイタは話す。


 二人は国道沿いを歩いた。二人の目に、葉先のかすんだ南国の植物らしき木が、ある意味南国らしく、またらしくない色にも映じた。そのことを二人は特に口に出さない。空の広い海沿いの景観はとてつもない色を成して、二人の視界の多くを占めている。二人は海岸道路に入った時は気になったが、今はそれほど気にしていない。


 二人の目の前を背の低い女性が歩いている。尻を隠しきれない真紅の水着からは、弛んだ肉が食〈は〉み出ていて、全体に湿った砂が塗〈まぶ〉されていた。歩を進めるに合わせて左右厚かましく揺れるのを、ペイタは背後から凝視していた。


「きたねえけつだな、どうしてあんな醜いけつをさらす気になんのかなぁ?」ビキニ姿の女性が信号に止まり、ペイタが追い越すと小さい声で口にした。 


「そんなにきたなくないよ、砂がついていたからそう見えるんじゃない?」麦わら帽子に隠れて、パツコが涼しい顔してペイタを見る(ペイタノ顔ノホウガ汚イヨ)。 


「砂もそうだけどよぉ、肉づきにそもそも問題があるぜ。古墳から出てくる土偶のようなけつじゃねえか」冷蔵庫から取り出され、外気に晒〈さら〉されたペットボトルのようにペイタは汗をかく。


「意味わかんない!」パツコは前を向いて元気よく声を出す(思ッタヨリモ人ハ少ナソウダ)。


「学のねえやつだな、あれだよ、出目金のような顔したやつだよ」ペイタはさらに例えを加える。


「全然わかんない!」


 パツコはそう言って、斜線に仕切られた陽陰に向かって走りだし、麦わら帽子を上から押さえたまま、爽やかな色のスカートを揺らす。チケット売り場へ近づくパツコの後ろ姿を眺めて(ワザワザ走ルコトネエジャン、無駄ナ体力ノ浪費ダヨ、ナンデアンナニ元気ナンダロウナ?)、ペイタはのたのた歩く。チケット売り場には子供連れの家族が四組と、中学生ほどの若い男女が一組いる。


 ペイタはチケット売り場に近づかず(オイオイ、化ケ物ガタクサンイルジャネエカ)、すこし離れた太い柱に寄りかかってパツコの動きに注意する(アンナ化ケ物ノ傍ニイテ、ヨク、ウレシソウニシテイラレルナ)。


 列に並んでいるパツコは後ろを振り返り(ペイタガ来ナイナ)、満面の笑みを開いて手招きする(アンナ所ニイル、横着者ナンダカラ)。脂塗〈まみ〉れの顔をわずかに顰〈しか〉めるペイタは、ぴくりとも動こうとしない(手ナンカ振ルナヨ、マワリノ奴等ガ見ルジャネエカ)。それを見たパツコは一寸ばかり首を傾げてから(モウッ)、顔色をさらに明るくさせてチケット売り場に体を向けた。  


 入場券を手にしてパツコがペイタの元へ小走りする(ヤッタ!)。ペイタはそれでも動こうとしない(ヤット買エタカ)。


「おまえ、馬鹿みたいに手なんか振るなよ、まわりの人間が見るだろ」ペイタは入場券を受け取って話す。


「じゃあ、大声で呼んだほうがよかった?」パツコはペイタの手首をつかむ。


「大声でなんか絶対呼ぶなよ!」ペイタが大声を出す。


「よし、中へ突入だ!」ペイタの腕をおもいきり引っ張って、パツコは残りの腕を前に突き出して歩きだす。


「おいパツコ、おまえ、あの化け物の群れを見ただろう?」


 パツコに引かれるペイタは遅れて歩き、小さな子供達を連れる家族について話す。パツコは振り返ることなく、返事することなく、薄暗い入り口目指して力強く歩いた。


 中に入ると、冷房の効いた薄暗い通路が二人の眼と身体を休ませた。一瞬どう進んでいいかわからなかったが、賑やかに会話するそれぞれの家族の後ろについて、二人は階段を上がった。


 通路を先に進むと、新江ノ島水族館内を上下に突き抜ける、相模湾大水槽の上部分が見えた。二人は分厚いガラスに張りつく人々に近づいて、人工波によって泡立つ水槽内を覗いた。


 そのガラスから見える水槽内は、上半分が岩の陸地部分に占めらていて、射し込む太陽の光に照らされている。また館内の天井部の端からは、瑠璃〈るり〉色に似た鮮やかなスポットライトが補助をしている。明色のスポットライトもある。ガラス下半分の青く透んだ海水の中は、岩肌の多くに赤・黄・黄緑の海草が複雑に絡み合い、統一しようのない色模様を呈し、それらを細かい気泡が暈〈ぼか〉している。その中を、言い表すには細密になりすぎる、複雑な彩〈いろど〉りを纏〈まと〉う種々の小魚達が、覗く人の気も知れずにちょこちょこ泳ぎ回っていた。


「なんだよこれ! 水の色まで勃起色じゃねえか!」


 透き通る紅桜か、薄桃色か、白桃色というか、それらに見えるペイタは、覚えず驚きの声を出した。小さな子供を連れる周りの若い家族は、ペイタの発言に度肝を抜かれ、両親全員が醜く肥えた男の顔をまじまじ見た。


「ねえ、勃起色ってなに?」


 ペイタの目には濃緑に映る小さな男の子が、ガラスに近づけていた顔を振り向かせ、立派な太腿〈ふともも〉の母親に問いかける。母親は何も答えずに、男の子の手を引いて通路を先に進んだ。続いて何人かの家族がペイタの周りを離れた。


「変なこと言わないでよ、他の人達には普通の色に見えるんだから」パツコは丸いペイタの腹にちょこんと肘を刺し、笑いを堪えて小さな声で話す(フフフ、普段カラ変ナコトヲ言ウカラ、ツイ口ニ出ルンダネ)。


「しょうがねえだろ、出ちまったんだから……」ペイタは突っ立ったまま薄ら笑いを浮かべて(ク、クソガッ)、大量の汗を一気に放出する。


「それにしても綺麗だね、やっぱり生で見ると迫力がある」睫〈まつげ〉の長い目を命一杯開かせて、パツコはガラスに顔を近づける(ウワアァ)。


「これが綺麗に見えるのか? 普通の色ならまだしも、こんな色じゃとても綺麗になんか見えねえよ」パツコの耳近くに顔を寄せて、ペイタが小さな声で言う。


「そう? わたしの目にはとても綺麗に見えるよ」パツコは視線を変えずに言うと、心持声を小さく「水の色は透き通る黄緑だけど、これはこれで今までに見たことのない、とても神秘的な色だよ。海草も小魚もすごく綺麗……」淡々と話す。 


「なんだよ、アオコが発生したような水の色なのか? きたねえ色だな」ペイタが理解のない口振りで返事する。


「全然違うよ、比較にならないほど澄んでいるの。ペイタ見て、あの黒い縞〈しま〉が横に入った魚、赤紫がすごい綺麗」黄色い体の目立つ、小さなカゴカキダイを見てパツコが言う。


「おいどれだよ、おめえの言う赤紫なんておれには見えねえぞ。おい、あれか? あの青緑色の魚か?」ペイタは指差してパツコに確認する。


「そう、あれだよ、ふふふ、青緑色だって。もう全然違う魚だね」パツコは笑いながらペイタの顔を見る。


「お互い見える色が違うから、話が噛み合わねえよ。ややこしいな」そう言うと、ペイタは一歩下がり、壁に貼られた魚の紹介写真に目をやる(アレハ、ナンテ魚ダ?)。


「パツコ、あの魚こんな色してるぞ」


 ペイタは一瞬、手を膝について及び腰のような姿勢で覗いている、パツコの尻を触ろうとしたが(オット、ウルセエコトニナッチマウ)、肌を露〈あらわ〉にした細い肩に手をかけた。


「ほんとだ、これも鮮やかな色だね」体を起こしたパツコは、縦に並ぶまともな色の魚の写真を眺める。


「まったく、色がこうも違うと、何を紹介しているのかわかんねえよ」


 ペイタがぼんやり眺めながら言うと、パツコは鞄からデジタルカメラを取り出し、電源を入れて水槽に向ける。


「見てペイタ、すごい! 全然違う!」ペイタの濡れたシャツの袖をパツコが引っ張る。


「こりゃひでえな!」ペイタは肉に溢れる顔を酷く歪めた。


 二人が通路を先に進むと、これまた相模湾大水槽の上部を映したガラスが、横の壁に大きく嵌〈は〉め込まれている。先程見ていた物の数倍もある横長のガラスには、厳〈いか〉めしい額の立派なシイラが、魚雷と紛〈まが〉う体を水面近く偵察するように走らせている。水の濃い深度のある水中には、エイやネコザメなどが広い範囲を悠々泳ぎ回り、イサキ、メジナ、シロギス、メバルなどが彼方此方〈あちらこちら〉を泳ぎ回っている。水槽の奥には数千匹のマイワシの大群もかすんで見える。


「すごぉい! 大きな水槽だ!」


 そう言ってパツコはガラスに近づき、腰を屈めて水中を覗くと、ガラスすれすれを泳ぐ巨大なシイラと真正面から対面してしまい、「うわあぁ!」声をあげてペイタに飛びついた。


「おおお、なんて醜い顔の魚だ。こいつはすげえ!」ペイタが立ち止まって腰を屈める。


「びっくりした。すごい迫力のある顔だねペイタ、あの魚、わたしのことを怖い顔して睨んだよ。わたし、魚にあんな顔されるとは思わなかった。でも見て、なんか愛嬌のある顔だね」離れていくシイラを目で追いながらパツコが話す。


「あいつはなんて魚だ?」ペイタは腰をあげて、ガラス上方に張られた魚の写真を見上げる。


「広い水槽ね、綺麗だなぁ、わたし水族館なんて子供の時以来だから、こんなに綺麗だとは思わなかった。すごいな。なんか海の中を本当に覗いているみたい」パツコがガラスにへばりついている。


「あいつはシイラって魚だぞ、パツコ、あれが生きた化石のシーラカンスだ。すげえな、いきなりシーラカンスが出てきたぜ」ペイタがパツコの隣に太い腰を屈めてしゃがみ込む。


「ええっ? あれがシーラカンス? ペイタ違うよ、あれはシイラだよ。カンスじゃなくてただのシイラだよ。わたし前、釣り番組でそんなような名前聞いたことあるもん」パツコが正面切って否定する。


「だってシイラって書いてあるじゃねえか、おれは前にシーラカンスをテレビ番組で見たけどよ、あんなような魚だったぜ? あのいかつい顔は間違いねえよ、あれはシーラカンスだ。おめえが間違ってんだよ」周りの人々を遠慮してか、小さい声でペイタが話す。


「そう? あれがシーラカンス? なんか違うような気がするけど……、見てペイタ、大きなエイ!」パツコはひらひら泳ぐ、暗い色の背をしたホシエイに指差す(シーラカンスノワケナイジャン)。


「おお、でけえ、あれはテレビで見るようなのと、さほど色が変わんねえな。うおぉ、気持ちわりい」近づくホシエイの腹を見てペイタが言う。


「あのエイは色がないからだろうね、わたしも黒く見えるよ」パツコはホシエイの背を見て言う。


「シーラカンスも写真で見るのとあまり変わらねえぞ、縁の部分は多少違うけど、側面はなんとなく銀色だぞ」前を通り過ぎたシイラを見てペイタが言う。


「ほんとだ! 多少違う気もするけど、それほど目立たないね。体の向きでずいぶんと色が変わるから、なんかどれがほんとの色かはっきりしないしね。ペイタ、イサキもあまり変わらないよ」立ちあがったパツコは見上げながら言う。


「ピンクにかすんで、どれがイサキかわからねえよ」ペイタが水槽の奥から目を離さずに言う。


「きゃああぁ、この魚かわいい! ウマヅラハギだって、見たまんまのネーミングだね。名前をつける人もおもしろい名前をつけるもんだね、ブタバラフグなんて名前のフグもいるかも」パツコは視線を落とし、太腿に腹の贅肉を乗せるペイタを見て話す。


「んなもんいるわけねえ!」パツコの視線に気づかずペイタは返事する。


 横長のガラスに顔を向けたまま二人が通路を進むと、高さのある四角い水槽が正面に映った。相模湾大水槽のような奥行はなく、目立たない青いバックスクリーンを背に、赤茶けた岩から捻〈ねじ〉れた黄色い海藻が生えて、画面全体に不規則に浮いている。それらにレースのような黄緑色の海藻が幾つも絡みついて、小さなアクセントを添えている。杉の葉を紅くしたような海藻も目につく。強い光源のせいか、どの海藻もやたら明るい色に映る。魚の姿はあまり見られない。


「海藻ばかりで、なんだか不気味な水槽だね。今にもからみつかれそう」水槽の前に立ち止まり、顔を一寸見上げてパツコが言う。


「なんでこんな水槽があるんだよ、水族館のくせに、魚を見せずに海藻見せてどうするんだ?」ペイタが汚い物を見るような目をしている。


「水族館だからでしょ? なんか、もとの色がわからないから、色が違っている気がしないね」上下左右に顔を動かしてパツコが言う。


「じゅうぶんおかしいだろ? これなんか青緑色だぜ?」黄色いワカメを指してペイタが言う。


「青緑色ならそんなにおかしくないじゃん。わたしも赤紫色だから、さほど変に感じないけどね。でも、実際の色はどうなんだろう」そう言ってパツコはカメラを覗く。


「この魚すげえ色してんな」


 南国の動植物を想起させる深みのある黄緑を頭部に持ち、胸鰭あたりから尾鰭にかけて、油彩のごときくすみのない青を薄いグラデーションに変化させ、オレンジ色の短い縦縞を二段に分けて、体に幾つも刻みつけるその小さい魚を見て、ペイタがふと口にこぼす。とにかくけばけばしい魚だ。


「なんか変! 見てペイタ、この海藻黄色いよ。わたしが見るのも、カメラを通すのも、どっちもどっちだよ」パツコはペイタの顔の前にカメラを運ぶ。


「馬鹿いえ、このほうが普通じゃねえか。おお、この魚はこんな色してんのか」ペイタが海藻と戯〈たわむ〉れる小魚にカメラを向ける。


「どれ? どの魚?」


 パツコは麦わら帽子を取って手に持つと、でっぷりしたペイタの頭の傍に顔を近づけて(ウワア、ペイタ汗臭イ)、無理に画面を覗き込む。


「こいつはニシキベラっていうのか」水槽から目を離してペイタが口にした。

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