第7話

 横浜町田のインターチェンジを降りると、二人の乗る車は国道二四六号に合流して、そのまま藤沢街道へと続く道を走り続けた。壁に囲われた高速道路の単調な景色から変わり、地上に張り巡らされた一般道には、露骨な自然の色がそこいらに散らばっていた。


「やっぱり都会を離れていくにつれて、自然の色が増えるね。この桜並木なんて、本当だったら青々としているのに、季節を間違えたようにオレンジ色を透かしているよ」


 前方を走る白いセダンとの距離を保ちながら、パツコが悠然〈ゆうぜん〉と話しかける。両側二車線の道路に緑膨れる桜並木がつき添い、真夏の陽射しから道路が熱くなるの防いでいる。


「くだらねえ、何が季節を間違えたような色だ。おれなんか季節を超越しちまったのか、青々を通り越して紫がかっているぜ。こんな色、光合成の仕組みが狂わなきゃ見られないぜ」ペイタは曲げた腕を窓際にもたせて、大きな頭を支えている。


「青紫の葉っぱかぁ、青紫蘇〈あおじそ〉ってところかな? いいな、わたしもそんな色に染まる桜の木を見てみたい。赤もオレンジも紅葉の季節に見られるから、自然には存在しない青い薔薇〈ばら〉のような色が見たいな」パツコの目から、長い睫〈まつげ〉がしゃんと伸びている。


「青紫の木なんか見て、いったい何になるっていうんだよ。赤やオレンジのような見たことのある色じゃなくて、わざわざ青紫がいいなんて、おれにはさっぱり理解できねえ。おれはオレンジの木のほうが見てえよ。おめえはいいよなぁ、赤みがかった葉にレタス色の空が見えて、おれなんか青みがかった葉にピンク色の空だぜ? おおお! パツコ見ろよ! いかれたガキがいるぜ。やっぱりガキもいかれた色に染まって見える、さっき見たのは間違いじゃないってことだ」


 交差点に差し掛ると、ペイタが横の窓を眺めながら騒ぎだした。その視線の先には、よたよた歩く子供を挟んで、若い両親が手を繋〈つな〉いで歩いている。速度を落とした車が初々〈ういうい〉しい家族を通り越すと、白線の手前に停まった。前を走る白いセダンは尻を叩かれたように、速度を上げて交差点を突っ切る。二人の車の後方から、歩道を歩く子供連れの家族が近づいてくる。


「本当だ、色が違う」パツコは横を過ぎる家族を見て話す。


「気持ち悪っ! あのガキ笑ってやがる。あの両親もよく笑いながら、あんな気持ち悪いガキの手をつないでいられるなぁ、見てて寒気がするぜ」他人の気分を損なう口調でペイタが話す。


「あたりまえでしょ! 両親にはかわいく見えるんだから」すこしばかり怒りがこもった口調でパツコは話す(ナンデ、平気デコウイウコトヲ言ウノカナ)。


 交差点の前で家族は足を止める。すると不安定に立つ子供が、競泳選手さながらの肩幅を持つ父親の足に縋〈すが〉りつき、溢れる笑顔のまま見上げた。父親は軽々と子供を持ち上げると、顔の傍に抱きかかえて、温かく顔を見合わせる。細身の母親が父親の腕に寄り添って何か話しかけた。


「うえっ! あのガキを持ち上げやがった! 見てるだけでかぶれちまいそうだ」腕と腕を交差して、ペイタがわざとらしく擦〈こす〉らせる。


「かぶれるわけないじゃん! ちょっと違和感あるけど、とても微笑ましい光景だよ」パツコが冷たい目をして話す。


「どこが微笑ましいんだ? おめえ馬鹿じゃねえの? おれには妖怪人間を抱えているようにしか見えねよ」顰〈しか〉めた顔をパツコに向ける。


「ひどい! あんな無邪気な子供を妖怪人間だなんて! そんなに言うなら、どんな色に見えるか教えてよ。わたしはこれだよ」


 そう言いながらパツコは色彩ハンドブックを開き、細い指でもって淡藤色を指し示す。続いてペイタの太い指が白緑色を指す(フン!)。


「全然妖怪じゃないじゃん! てっきりこれぐらいの色かと思った。ペイタは大げさすぎるよ」半ば呆れながら非難すると、パツコはふかみごけ色を指す。


「それじゃあ怪物だろ! これぐらいだから妖怪なんだよ」同じ色を叩いてペイタが指し示す。


「じゃあこの色だったら?」パツコは憤然〈ふんぜん〉と利休ねずみ色を指す。


「化け物だよ!」


 そう言うと、背を屈めて本を開くパツコの胸目掛けて、素早くペイタは太い腕を伸ばした。脂肪なる手はパツコの胸元をすり抜けて、そのまま胸を隠す下着の隙間にすべり込み、直〈じか〉に乳房を鷲掴みした。予期せぬ素早い動作にパツコは反応が遅れてしまい、無残に胸を揉まれた。


「きゃあああ!」


 パツコは窓を突き抜ける叫び声をあげて、おもわず持っていた本をフロントガラスに放ってしまう。信号待ちの家族とその近くにいた中年女性、自転車にまたがる少年、背後に待つ軽トラックの運転手、周囲にいたほとんどの人が、叫び声を発した黒い軽ワゴンに目を注いだ。ペイタは周囲を気にもせず、乳を揉むことだけに集中している(ヘヘヘ、小セエ乳ダナ)。


「やめてよぉ!」


 パツコは渾身〈こんしん〉の力を込めてペイタの顔を叩くが、意識が手に向かっているからか、さほど効き目がない。ペイタは構わず胸を揉み続ける(ヘヘヘ、ヘヘヘ)。


「やめてよ! やめてよ!」次にパツコは連続してペイタの肘を横から殴りつける。


「おいおい、いてえよ」


 ペイタは関節を狙われ、たまらず腕を引っ込める。とすぐに、丈の長いスカートに狙いをつけて、パツコの足元から股間目指して侵入を試みる(穴ニ指ヲ突ッ込ミテエナ)。しかし即座に反応したパツコの手に遮られて(キャアア!)、スカートの裾あたりで動きを抑えられてしまう。すると後ろからクラクションが鳴り響いた。それでもペイタは股間を目指す(ウルセエナ)。


「信号が青だよ! もうやめてよ!」両手で必死にペイタの腕を押さえつけながら、パツコが突っ張った大声を出す。


 再びクラクションが鳴ると、神経を容赦なく引っ掻くほど長く響いた。それに応えてペイタはあきらめる(ワカッテンダヨ、ウルセエナ)。パツコは顔を真っ赤にしてアクセルを踏んづけた(アア恥ズカシイ)。先に交差点を渡りきっていた家族は、好奇の目で黒い軽ワゴンが走り過ぎるのを見届けた。


 割となだらかに流れていた道路は、藤沢に近づいて滞るようになった。堅い金属に包まれ密閉された車の中は、外の陽射しと関わりを持つのを拒むように、人工的に作りあげた冷気に満たされている。パツコは肌寒いほどだが、ペイタの身に纏わりついた肉には適当だ。同じ腹から生まれたとは思えないほど肉の厚みに差があり、体感温度が異なっている。


「海に近くなるにつれて、空の色も濃くなってきたな。おまえのパンツぐらいの色だったのが、すっかり婆くせえ色に変わっちまった。この分じゃ、今朝方テレビで見た江ノ島の青空は拝めそうにねえな」ペイタは腕を組んだまま話す。


「新宿の空は汚れているから薄かったんだろうね、それとも陽が高く昇ってきたからかな?」パツコは右手でハンドルを抑えて、ペイタに顔を向けて話しかける。


「知らねえよ、色が濃くなってるからだろ」睨むようにパツコを見る。


「朝からいろんな色を見てわたし気がついたけど、わたしとペイタは何一つ同じ色が見えないね。でも、色の明るさや彩度はほとんど変わらないみたい。わたしも空の色が濃くなって、今では草色に見えるもん。お互いに落ち着いた樹皮の色が見えたり、強烈な葉の色が見えたりするのは、きっと見える色相が違うだけなんだよ」パツコがちょっとばかり得意気に話しをする。


「だからなんなんだよ」傲然〈ごうぜん〉とペイタが返事する。


「なんなんだって言われても、ちょっと返事に困るけどさぁ、違う色が見えても、色の度合いは一緒なんだなって思っただけ」パツコは前を向いて車を動かし続け、前方の黄色い軽自動車に合わせて、緩やかな坂道を徐行する(モウチョットマシナ返事ヲシナイモノカナ)。


「意味わかんねえよ。そんなこと言ったって、色が普通に見えるわけねえじゃん」ペイタが吐き捨てる。


「べつにたいした意味で言ったわけじゃないの、ただ、そうなんだなって思っただけ」パツコは投げやりに話して車を停める。


「思いついたからって、意味ねえこと口に出すんじゃねえよ。それにしても、全然進まねえな。なんでこんなくそみてえな道選んだんだよ、もっと空〈す〉いている道を選べねえのかな」ペイタが酷〈ひど〉い目差しでパツコの顔を見る。


「だって、ネットで調べたらこの道が検索されたんだもん」やや小さい声でパツコが話す。


「おいおい、普通ならネットで検索された道をもとに、裏道を調べるんだぜ。ネット検索なんてものはだれもが通る道を教えるだけで、渋滞に巻き込まれるために調べるようなもんだ。真夏、休日、快晴、海へ続く道とくれば、誰だって道が渋滞するものだと気づくもんだぜ?」ペイタが口を曲げて話す。


「それぐらい考えたよ、だから早く出かけようって言ってたんじゃん」ペイタを睨み返す。


「おれが言いてえのはそんなことじゃねえよ。早く出かけようが遅く出かけようが関係ねえ、混雑のない道を調べるのがあたりまえだってことだよ。なんでそんなことも気がつかねえのかな」ペイタはあからさまに見下げて話しをする。


「朝早く出れば問題ないと思ったんだもん」パツコは前を向いて車を進める。


「だからおめえは馬鹿なんだよ。そんな浅はかな考えしか浮かばねえから、使えねえんだよ。普通、人を誘うなら、もっと気をまわして準備するもんだ」声を大きくしてペイタは話す。


「なによ、車の運転ができないばかりか、今日は一銭も払わずに過ごすペイタに、そんな偉そうなこと言われたくない」車を停めると、噛みつかんばかり体を乗り出してパツコが話す(ソンナコト自分ジャヤラナイクセニ)。


「なんだとぉ! 行きたくもねえのに、せっかく親切についてきてやったんだぞ、そんな言い方があるか!」負けじとペイタも体を持ちあげる。


「もういい!」急に話を切ると、パツコは口元に力を入れて正面を向く(偉ソウニシチャッテ、何ガソンナニ偉イノヨ。人ノ気モ知ラナイデ)。


「ちっ、都合が悪くなるとすぐそうやって逃げる。女はほんと卑怯な生き物だぜ」ペイタは持ちあげた体を座席に落ち着けた(モット従順ナ雌ナラ、色々ト楽シメルノニヨ)。


 助手席に座るペイタが何度も愚痴をこぼすが、運転するパツコは一切横を見向きもせず、ただ前だけを向いて前の車についていく。車は坂を下りきると、平坦な道を一寸〈ちょっと〉ずつ進んだ。道路の流れは一層暑苦しさを増している。


「まただ! あのガキ、新宿で見かけたミュータントと同じ色してやがる」


 車が丁字路を左に曲がったところ、足元をふらつかせて歩く褐色の子供を見て、ペイタは軽蔑の言葉を吐いた。それを聞いてパツコは眉を顰〈ひそ〉めはしたが(マタ馬鹿ニシタ言葉ヲ口ニスル。ペイタハ人ノ気持チヲマルデ考エナインダカラ、デブト馬鹿ニサレルノガ嫌ナクセニ、人ノコトヲ平気デ馬鹿ニスル)、何も言葉を発さずに歩道を歩く子供を見た(色ハオカシクテモ、姿ハトテモ素敵ジャナイ)。縮れた髪の毛を一つに束ねた子供は、異国の血が混じっているらしい。


「きたねえ! 頭から無数のげじげじが生えてやがる」


 ペイタが妙な薄笑いを浮かべてパツコをちらっと見る(ハハハ、クソ真面目ナ顔シテヤガル。馬鹿ジャネエノ)。パツコは冷やかな目を保ち口を動かさない(最低!)。


 線路の高架下を潜り抜けたところで、パツコがようやく口を開いた。


「ねえペイタ、大人の肌の色は変わらないのに、なんで小さな子供の肌は変わって見えるのかな?」パツコの口調は落ち着いている。


「ああっ? やっと口をきいたと思ったら、ずいぶんとくだらねえことを聞くもんだな、新宿をうろつく浮浪者と同じだからだろ」ペイタの頬は肉を弛〈たる〉ませてにやけている。


「自然だから色が変わって見えるのはわかるけど、ああいう人達と子供じゃあ、同じ自然でも、まるで違った自然のような気がするの。だって子供は無邪気だから、自然そのままの存在って感じがするけど、住む場所を持たないああいう人は、無邪気って言葉が似合わない。わたしがよく知らないだけかもしれないけどね、いったい、ああいう人達の自然ってどういうことなの? ああいう人達は本当に自然な存在なの?」


 車が信号待ちをしている間に、パツコはペイタの眼を見つめて問いかける。


「知らねえよ! そんなことおれに聞かれたって、わかるわけねえじゃん! ただ自然っぽい物の色がおかしく見えるから、色の違う浮浪者も自然だと思っただけだよ。そんなのは役所の相談窓口か、ラジオか新聞の相談に投稿したほうがいいんじゃねえの? 考えたってなんの得にもなりゃしねえ」ペイタが馬鹿にしたような笑いを浮かべて答える。


「なんでああいう人達の色は違うんだろう?」パツコはペイタの答えを聞き流す。


「だから知らねえって! 家に帰ったら、インターネットの掲示板にスレッドを立てりゃいいだろう? すばらしい意見をたくさん教えてもらえるぜ」ペイタが不気味に笑う。


「なんで普通に生活している大人は不自然なんだろう?」


 そう言って首を傾げると、パツコは黒い軽ワゴンは走らせた。

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