第5話
二
とても現実世界にはありえようのない空──ペイタピンク色・パツコレタス色──の下、二人は見慣れない色に眩暈〈めまい〉を覚えつつ、コインパーキングに向かって、雑居ビルに囲まれた空の狭い小道を歩いた。部屋の中から見た空に比べると、頭上に広がる鮮〈あざ〉やかな色は直〈じか〉に二人の状態を認識させた。
「ここまで空の色が違うと、自分がおかしくなったのも素直にうなずけるね」
丈の長い、明るい色のワンピースを着るパツコは、ほっそりした肩を露〈あらわ〉にして、柔らかい素材のスカートを揺らして歩く。落ち着いた色の麦わら帽子を一寸〈ちょっと〉ばかり目深に被〈かぶ〉り、口を開けたまま上方を見上げている(ホント、スゴイ色ダ)。
「おれは今にも発狂しそうだ」
ベージュの短パンを穿〈は〉いたペイタは、サンダルを引きずるように歩きながら、忙〈せわ〉しげに道路の隅々を見回している(アアア、忌々シイ)。女性を卑下する意味の英単語がプリントされたTシャツには、すでに汗が滲〈にじ〉んでいる。
「三日ぐらい経てば慣れるのかな?」パツコは顔を動かさずに言う。
「三日もこのままだったら、病院のベッドの上で横になるか、木の上からぶら下がっているだろ」ペイタは首を振って返事する。
「せっかく晴れてるんだから、朝から気味悪いこと言わないの」パツコがペイタの脇腹を小突く。じっとりしている。
「晴れてこの色なら、雨が降ったほうがましだ」ペイタがパツコの尻をつかもうとすると、予期していたように身をかわす。
「そう? 変な色でも、色が無いよりかはましじゃない?」パツコは笑いながらペイタとの距離をとる。
「狂った色なんか無いほうがましだ!」ペイタが突然怒鳴る。
「きゃあ怖い! ペイタが怒った」パツコはわざとらしく声をあげると、「ねえペイタ、青い空もいいけど、レタス色の空もなかなかいいよ。わたし慣れてきたのかな? 青空は爽やかだけど、レタス空は心が落ち着くというか、ゆとりを感じるというか、なんか地球に優しい気がする」
「おめえは馬鹿だからすぐに順応するんだよ! なにが『地球に優しい』だ。おれに優しくしろ」顔を汗塗〈まみ〉れにしてペイタが話す。
「もう、ペイタはすぐ人を馬鹿扱いするんだから。優しさを求めるなら、人に優しくしてよ」パツコは口を一寸ばかり尖らせる。
「ああ? 優しくされてえのか? なら今から家に戻ってセックスしようぜ、声が枯れるほどたっぷりかわいがってやるから。なんなら車の中でもいいぜ、いや、車の中は狭くて暑いから部屋がいいな。なあ、水族館はやめてセックスしようぜ」ペイタが表情豊かに話す。
「だめっ! 絶対水族館に行くから。それによごれた優しさなんて、お金積まれてもいらない! もういやらしいこと話さないで」パツコは真面目な顔して話す。
「なんだと、おめえが優しくして欲しいって言ったんじゃねえかよ! おめえが誘ってきたんじゃねえか! ああ?」ペイタはでかい顔してパツコに近づく。
「わたし、そういう意味で言ったんじゃない」パツコは後ずさりする。
「うるせえ! おれには『セックスしてください』っていう意味なんだよ!」ペイタが顔を突き上げる。
「わかった、わたしが悪かったから、そんなに大声出さないでよ。まわりに人がいるじゃない」パツコはそう言って周囲を見回す。
「まわりの人間なんか知るか! こんないかれた色の空が見えているのに、普通の神経でいられるか! おめえはキャベツ色だからいいけどよ、おれなんか勃起色の空が広がっているんだぜ? わかるかピンクだぜ、ピンク、おめえの膣〈ちつ〉と同じ色の空なんだぜ? このくそ暑さに、この色だ、発情しねえ男がいるか!」ペイタが腰の身振りを交えて話す。
「やだ、朝からそんな話、大声でしないで」パツコが涙声で話す。
「まったく、雌が気どりやがって、すぐに泣きやがる」ペイタの顔にうっすらと笑みが浮かぶ。
心持項垂〈うなだ〉れたままパツコは歩き、頻〈しき〉りに鼻をすする(ナンデ、アンナキタナイ言葉ヲ言ウノ? 信ジラレナイ)。ペイタはパツコを気にもせず、前をのしのし歩く(アアァ、セックスシテエナ)。
腐敗臭漂〈ただよ〉う小道を曲がり、二人が国道沿いに出たところ、ペイタは街路樹の変化に気がついた。
「おい、パツコ、あれ見てみろよ」先を歩くペイタは後ろを振り返って言う。
「なあに」すこし鼻にかかる声で、パツコは静かに返事する。
「木もいかれてるぞ」ペイタは太い腕を伸ばして指し示す。
「あっ、ほんとだ」パツコがはにかんで笑う。
周りには誰一人として街路樹に目を留めている者はいない。二人は人々が信号待ちしている間に、色彩ハンドブックを見て互いの色を認識し合った。無機質な都会の道路にわずかな気休めを与えるユリノキは、葉の色が赤か青、樹皮がさび紫色かうす葉色だ。
整髪料で髪を固めたスーツ姿の数人が、先の尖った靴を汚れたアスファルトに鳴らして、二人の傍を通り過ぎた。二人はユリノキの傍に近寄って上を眺めた。
「青い葉っぱの木を初めて見るけどよ、これまた気色悪いぐらい青いぜ。人の手で作った模造品なんかに青い葉の木があっても、こんな生々しくは作れねえよ」ペイタは汗を垂らして話す。
「ほんと綺麗な葉ね、真夏の紅葉を味わうなんて思わなかった。冬に向かう奥ゆかしい秋の紅葉と違って、情熱を駆り立てるというか、暑さに燃え立つ生命力があるね」パツコが表情のある眼を開かせたまま話す。
「おめえはずりいよ、赤い葉なら見慣れているからいいじゃねえか、おれなんか青ざめた葉っぱだぞ」ペイタがパツコを見る。
「そう? 青も綺麗じゃないの? 太陽の陽射しに透かされた青い葉なんて、見ているだけで涼しくなりそう。真夏にぴったりの色じゃない、いいなペイタ、わたしも青い葉っぱ見てみたい」ペイタの顔を見て、パツコが子供らしく笑う。
「涼しいどころか、寒気がする色だ」ペイタは腕を持ち上げて額の汗を拭〈ぬぐ〉う。
「でも、木の色はあまり違和感ないね、こんな色の木はありそうだもの」樹皮に置いた手を戻すと、パツコは肩から提〈さ〉げている天然素材の軽い鞄から、小型のデジタルカメラを取り出す。
「なんだおまえ、写真撮るのか? 撮ったら見せろよ」ペイタが蔑〈さげ〉すんだ目でパツコを見る(コンナモン撮ッテドウスルンダ)。
「とても綺麗な色だからね、でも、ちゃんと撮れるかな……」パツコの指は動き、カメラのレンズがにょきっと顔を現すと、「うわっ! 見て! 普通の色だよ!」飛びついてペイタに近寄る。
ペイタがユリノキに向けて液晶ディスプレイを覗くと、「おおお、ほんとだ!」水色に近い空を背景に、黄緑色のユリノキが見える。
「やっぱり世界はまともなんだ! おかしいのはおれ達なんだ!」興奮してペイタが大声で叫ぶ。一瞬、足を動かしている周りの人間が二人に視点を合わせる。
「しっ! ペイタ、声でかい」パツコが人差し指を立てて口につける(マタ大声出スンダカラ)。
「テレビもネットもそうだったけどよ、レンズを通すと色が元に戻るのかもな。おい、それならよ、おれの眼もレンズにすれば、普通の色が見えるかもしれねえぞ」ペイタはうれしそうに話す。
「えええ? 眼をレンズにする? 言いたいことはわかるけど、どうやって眼をレンズにするの? コンタクトレンズでもはめるの?」パツコはそう言いながら、ペイタの手からカメラを奪い取る。
「そうだ! 馬鹿なおまえにしては、なかなか冴〈さ〉えた返事をするじゃねえか。コンタクトレンズを通して色を正常に戻せば、また普通の色の世界を見ることができるはずだ。おい、パツコ、さっそく買いに行こうぜ」ペイタは重い体を飛びあがらせて、ついて来いばかりに腕を振る。
「ちょっと待って、今写真撮るから」パツコはユリノキに焦点を合わせると、「ペイタ、コンタクトレンズはどこで売っているの?」シャッターボタンを押す。
「知らねえよ、薬局か眼鏡屋に行けばあるんじゃねえの」ペイタがじれったそうにパツコを見ている。
「やっぱり普通の色ね、せっかく綺麗な紅葉なのに」パツコは画像を確かめる。
「おい、行くぞ!」ペイタが大きな声を出す。
「えっ、やだ、コンタクトレンズなんていつだって買えるじゃん。それよりも水族館行こうよ。早くしないと道路が込み出すよ」パツコはユリノキの下に立ち止まっている。
「水族館なんてどうでもいい! それよりも眼をなおそうぜ」ペイタがパツコに近づいてくる。
「今日はこのままの眼がいい。せっかくだからこのまま水族館に行って、お魚さんがどんな色しているか見てみたい」コインパーキングに続く小道へパツコは歩きだす。
「このまま行ったら気が狂うぞ。おれはコンタクトレンズを買わねえと、絶対に行かねえから」ペイタはすこし考えてから(水族館ハヤベエ!)、足を止めて話す。
「あっそう、じゃあ勝手にすれば」パツコは一度振り返り、再び前を歩いて大通りを渡る。
パツコが道路を渡ると同時に信号は赤になった。再び後ろを振り返ると、走りだした車の横切る奥に肥えたペイタが見える(モウ、面倒クサイナ、ペイタハ何ヤッテルノ)。先ほどのユリノキの近くに立ったまま、パツコの存在を忘れたかのように携帯電話をいじっている(ヤッパリ眼鏡屋ニ売ッテソウダナ……)。パツコは信号機の脇に移動して(ショウガナイナ)、携帯電話を鞄から取り出すと、コンタクトレンズをつけている友人に電話をした。
「もしもし、たえこ? 寝ているところ悪いんだけどさぁ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
信号機の色が二度変わる間に、パツコはコンタクトレンズの入手方を聞き出し、ペイタの動きを見つめながらすこしばかり世間話をした。ペイタは何度か顔をあげてパツコを確認するものの(クソッ、アイツ、楽シソウニ電話シテヤガル。オレガ行カナイカラ、別ノヤツヲ誘ッテイルンダナ、アノ軽薄ナ雌メ。男カ? 男カ? 男ニ電話シテタラ、ブン殴ッテヤル)、携帯電話を操作しながらその場を動かない。
信号が青になった。ペイタが顔をあげて道路の反対を見ると(ナンダアイツ、コッチニ戻ッテクルゾ。一緒ニ行ク人ガ見ツカラナイカラ、ヤッパリオレヲ誘ウ気カ?)、通話を切ったパツコが人々と一緒に渡ってくる。ペイタは再び画面に目を向ける(ソレニシテモ、見ニクイ画面ダナ)。パツコはペイタに近づいた。
「ねえペイタ、お医者さんからの処方箋がないと、コンタクトレンズは買えないんだってさ。今日はやっぱり買うのはよそうよ。日曜だから眼科が開いているかわからないし、開いてたとしても、お医者さんになんて言うの? 色が違って見えるなんて言ったら大事になって、もしかしたら精神科につれていかれるよ。それに処方箋をもらっても、コンタクトレンズもらうまでに時間がかかって、水族館へ行く時間がなくなっちゃうよ」パツコが宥〈なだ〉めるような口調で言う。
「携帯で調べたから、そんなのはとっくに知ってんだよ。なんだおまえ、一緒に水族館に行く人がいないから、やっぱりおれを誘って行くつもりだな? コンタクトレンズの手に入らない理由を並べて、なんとか水族館に引っ張り出そうって気だな?」ペイタは体の向きを変えずに、首を曲げてパツコを見向く。
「だって水族館に行きたいんだもん」パツコが頬を膨らませる。
「なんてわがままな女だ! 自分がどうしても水族館に行きたいからって、違った色が見えて困っている兄の希望を壊してまで行きたいのか?」ペイタが嫌味な笑みを浮かべる。
「べつにそんなに考えたわけじゃないの。簡単に買えるなら、買ってから水族館へ行くのもいいかなと思って友達に聞いの、ただそれだけなの」パツコはおとなしく弁解する。
「おまえ男に電話しただろ? 楽しそうに話してたのをおれは見ていたんだぞ、この股濡れ女が! 水族館に誘って、断られたからそんな嘘をつくんだろ? 男はだれだよ? おい、携帯見せろよ」ペイタがむやみにパツコの鞄に手を突っ込む。
「ちょっとやめてよ。ちゃんと見せるからかき回さないで」そう言ってパツコはペイタの両腕をつかみ、なんとか引き抜いてから、「はい、見ればわかるけど、たえこに電話しただけだよ」ペイタに携帯電話を渡す。
「ふん! 最近の携帯電話は狡猾〈こうかつ〉な機能がついてやがる。通信履歴を消すどころか、すり替えちまうんだからな」携帯電話をいじりながらペイタが声を出す。
「そんな機能あるわけないじゃん」パツコはやや真面目な顔をする(スグ疑ウンダカラ)。
「まあいい、証拠をすり替えたところで、おまえが男と話していた事実は変わらねえ」ペイタがパツコに携帯を返す。
「もう、わたしが朝から男に電話して、突然水族館に誘うような女に見える? ペイタにはするかもしれないけど、そんな大胆なことできるわけないじゃん!」パツコは鞄を提げ直す。
「いや、わかんねえぞ、おまえの股は本能に忠実だからな」汗を滴らせながらペイタがにやっと笑う。
「もうしつこい! 早く水族館行くよ!」ペイタの腕をがっちりつかまえて、パツコは引っ張って歩き出すが、肉の重りに詰まったペイタはびくともしない。
「コンタクトレンズ買わねえと」ペイタが笑みを湛〈たた〉えたまま腕をわずかに引く。
「コンタクトレンズは売ってない!」パツコの体も一緒に引かれる。
「カラーコンタクトレンズなら手に入るかもしれないぜ?」ペイタが思い切り腕を引く。
「もう流行〈はや〉らないから売ってない!」パツコの体はペイタに持っていかれる。
「家に戻ってセックスしようぜ!」パツコの股を鷲摑みする。
「きゃあああ!」パツコは容赦なく叫んだ。
それから二人の些細ないざこざは、信号機が四度変わって一段落をつけた。結局、コンタクトレンズを買う金を持たないペイタは、後日パツコと眼科を訪れて一緒に診察してもらうことに決まった。
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