第4話

 すぐさま行動を開始した。パツコは窓を全開にすると、食パンを二枚オーブントースターに入れてつまみを回し、部屋に散乱しているごみ屑を片づけはじめた。小さい体を栗鼠〈りす〉さながらに動かして、パンが焼きあがる前にきれいに片づけてしまう。ペイタは血が止まっているか確認してから鼻の栓をはずし、ちょこまかと動くパツコを鬱陶〈うっとう〉しそうにちらちら見つつ(暑苦シイ動キシヤガッテ、ホント邪魔ダナ)、足を伸ばしてテレビを眺めている。


 パツコがテーブルに並ぶビールの空き缶を次々とビニール袋に入れて、手際よくテーブルを拭いているところ、ペイタの手が小さい尻を無遠慮に鷲掴〈わしづか〉む。ペイタの手が弾かれると、食パンは元気良く跳ねた。


「今日も四十度近い真夏日だってよ、どうりで朝から暑いわけだぜ。なあパツコ、水族館はやめにして、部屋でごろごろしようぜ。こんな空模様だしよ、外に出ねえほうがいいって。こんな日に外に出てもいいことねえよ」


 ペイタはわざとらしく暑苦しい顔を浮かべて、流しに立つパツコに声をかける。パツコは無言のまま冷蔵庫の中扉を開けて(マタボヤキガ始マッタ)、バターと野菜ジュースを取り出し、食パンに塗る(ナンデ前向キニ考エナイノカナァ)。


「おいパツコ! 見ろよ、江ノ島が映っているぞ! 青いぞ! 青い空が広がっているぞ! なんだ? 新宿の空がピンクなだけで、あっちは青いのか?」ペイタは全身の肉を震わせて両手を天井へ突き上げる。


「えっ? ほんと?」パツコは皿に食パンを載せ、野菜ジュースを細いグラスに注ぎ(ヤッタ! 江ノ島ハ青インダ!)、両手に持ってテーブルへと運んだ。パソコン画面に目を向けると、ぽつぽつ人の点在する江ノ島海岸には、清々〈すがすが〉しい群青〈ぐんじょう〉の空が広がっている。二人はふいと窓に目を向けた。空の色に変わりはない。


「まったく、なんて空だ」ペイタは腕をだらりと下ろして食パンをつかむ。


「若苗色も悪くないけど、見慣れないから気味悪い。やっぱり空は青がいいね」パツコはテレビに目を戻す。


「なんだ若苗色って?」ペイタはそう言って食パンに噛みついた。


「さっき言ったでしょ? レタス色よ」パツコは立ち上がる。


「悲惨な色だな」ペイタはさらに食パンの半分を噛み千切〈ちぎ〉った。


 パツコは流しに戻り、オーブントースターに次の食パンを突っ込んで、冷蔵庫からレタスを取り出そうと下の扉を開けた。パツコは苦笑いを浮かべた(モウッ、馬鹿ニシテルネェ)。レタスがフラミンゴ色だ。それどころかピーマンは橙色、太い茄子〈なす〉は深青緑色、半分残った人参はあやめ色、ラップに包まれたスイートコーンは赤紫色に変わり果てている。日本酒の瓶は変わらない色である。それ以外に物は入っていない。


 面倒なのでパツコは素早く扉を閉めて(ハアア)、卵を取ろうと中扉を開ける。プラスチック容器に透けるプリンとキムチ、袋に包まれた色の濃いウインナー、どれも変わらない色だ。ただ卵も白いことは白いのだが、下手な嘘をついて澄ましているようで、どこかしら違ったように見える。


 パツコは訝〈いぶか〉しげに卵を一つ取り出し(ドコカ変ダゾ)、ガスコンロのつまみを回してフライパンに火をかける。その間に卵を顔に近づけて目を凝らす(ウン、ヤッパリドコカ変ダ)。ペイタに目をやると、外見通りの家畜に似た食欲を満たすべく、低い唸〈うな〉り声を洩らして二枚目の食パンを貪っている。


 フライパンが温まり、植物油を敷いて卵の中身を落とす(ナルホド! ソウキタノネ!)。音を立てて焼ける卵の黄身が、藤色から薄紫色に変色していく。パツコが興味深く観察していると(絵ノ具ヲ混ゼテイクミタイ)、半熟に焼くつもりがすっかり黄身は固まってしまった。ちらっとペイタに目をやると、白ばんだ厚い舌を出して口の周りを掃除している(体ダダケジャナクテ、チョットシタ仕草モ動物ミタイ)。


 パツコは異様な目玉焼きを皿に載せると、焼きあがったパンと一緒にテーブルへ運んだ。「おまちどうさまでございました」給仕振ってとぼけた声を出し、そ知らぬ顔のままパンが載った皿を先にテーブルに近づけると、置かれるのを待たずにペイタの太い手がパンをひったくり、そのまま大きく開いた口へと運んだ。


 その隙にパツコは目玉焼きをテーブルに置いて、速〈すみ〉やかに流しへ戻り、子供らしくにやける口を両手で隠しながらペイタの反応を待ち構えた。するとペイタは乱暴な食欲に任せているせいか、眼に神経が行き届いていないらしく、皿を口元に近づけると直〈す〉ぐ、目玉焼きの端を指でつまんで丸ごと口の中へ放ってしまう。これにはパツコも驚いた(ウワア! マルゴト食ベチャッタ!)。失敗したのやら成功したのやらわからず、ペイタに背を向けて冷蔵庫を開けたまま、必死に噴き出さんばかりの笑いを堪える(フフフフフフ)。


「おいパツコ! 黄身がぱさぱさしてるじゃねえか、もう一度目玉焼きを作りなおせ。次はまちがっても固くするな、絶対に半熟で焼けよ」ペイタは不満げな顔つきで言うと、口を激しくもごもごさせる(クソッ、ヘタクソナ焼キ方ノセイデ、喉ニヘバリツク)。


「ああご主人様、申しわけございません。ただちに作りなおします。どうか堪忍してくださいまし」やけに上擦〈うわず〉った声で返事をすると、笑いが落ち着くのを見計らってパツコは卵を二個手に持った(フフフ、ペイタノオ馬鹿サン、全然気ヅイテナイゾ!)。


 再びフライパンに火をあてて、卵を割った(フフフ、マタダ)。やはりどちらの卵も黄身は藤色だ。パツコは卵同士がくっつき過ぎないよう広げて焼いて(一口デ入リキラナイ大キサニシナイトネ)、身の揺れる状態でフライパンから引きあげた。


 先程同様、焼けた食パンと一緒に目玉焼きを運び(コレナラ気ヅクハズ)、「おまちどうさまでございました」引きつった声を出して、今度は目玉焼きを先にテーブルに置く(フフフフフフ)。


「なんだこの目玉焼きは! 黄身の色が変じゃねえか!」ペイタは湿ったパン屑をテーブルに噴き出した。両目の半熟の目玉焼きは小さな丸い藍白色が二つ、ふっくらと白身に載っかり、また白緑色が二つ載っていた。


「ねえペイタ、この黄身何色に見える?」パツコが目を大きく開いてペイタの顔を窺う。


「空の次は卵の黄身かよ」ペイタは細目を鋭く黄身を睨んでいる。


「ねえねえ、何色なの?」パツコはペイタの手を握って揺らそうとするが、重くて動かない。


「こんな色の名前知らねえよ!」ペイタがパン屑交じりの飛沫を飛ばす。


 パツコは急にパソコンの傍にいざり寄ると、置いてある鞄〈かばん〉から一冊の本を取り出して、あるページをペイタに突きつけた。小さな正方形の色彩サンプルが縦横に埋め尽くされていて、色には名前がわかりやすく記されている。


「なんだこれ? おまえなんでこんなもん持っているんだ?」ペイタは妹の突然の行動に感心した。


「仕事で使うの、ねえどの色?」


 ペイタは眼に鈍い神経を集中させてページ上を探〈さぐ〉る。外見上にはまったく変化が表われず、真剣に探しているようには見えない。


「これだ、この色が一番近い。なんだ、ペール・オパールっていうのか?」ペイタは問いかけるようにパツコの眼を見る。


 パツコが色を確認すると、「きゃはは! 変な目玉焼き! やったねペイタ!」うれしそうにペイタの肩をぱしぱし叩く。


「おめえは何色だよ? どうせ犬のうんこ色だろ!」


 何を思ったのか、ペイタは力を込めてベッドに本を叩きつけると、ベッドに強く弾ねかえされて、縮れ毛の散らばるフローリングの床に落ちた。中開きになった本は自らの重みに弓なりに曲げられ、表紙カバーはすっかりめくれてしまい、股裂きのごとく痛々しそうな三角の姿勢を保っている。


 パツコは仕事の補助役である憐〈あわ〉れな本を助け(ヒドイ!)、胸に抱えると、「わたしはペール・ミストよ!」鋭い口調で言い切った。するとペイタが、「へっへっへっ、ずいぶんいかれた目玉焼きだなぁ?」見下げた口調で話す。パツコは返事することなく本を大事そうに撫〈な〉でてから(コンナデブニ、見セルンジャナカッタ)、温かいパンに手を伸ばした。ペイタも残りのパンに手をかける(チッ、忌々シイ雌ダ)。


 パツコはベージュ色の箸〈はし〉を手に持ち、「半分ずつ食べよう」ペイタに声をかける。先程は大胆不敵に丸呑みしたペイタが、目玉焼きの存在を無視している。「おまえが全部食えよ」ペイタは目玉焼きと目も合わさない。


「半熟だよ」パツコは箸先を使って目玉焼きを挟み、二等分に切った。


「それ以前の問題だ」ペイタの腹は砂をふりかけたように、汗を吸ったパン屑にざらついている。


「どういう問題よ」パツコが片方の目玉をつつくと、色が溢れて広がる。


「見た目の問題だ」ペイタは眉間にたっぷり皺を寄せる。


「なんかカクテルでもかけたようで、意外とおいしそうだよ」箸は目玉の一欠片〈かけら〉を挟む。


「こんな色した料理見たことねえよ」ペイタは箸の動きに注意している。


「そうね、ペール・オパールじゃね、でも淡い清潔感があるんじゃない?」そう言ってパツコは箸を口に運び、「ひょうし抜けするほど変わらない卵の味ね」パツコは真面目な顔して口を動かす。


「げてもの食いだ」ペイタはさらに眉間の肉を盛りあげる。


「ペイタ食べないの?」パツコは不思議な者を見ているかのようにさらっと言う。


「はあぁ? こんなもん食えるか!」ペイタは軽蔑した面でパツコを見返した。


「そう、ならわたし食べる」パツコは皿を自分に寄せて、「さっきは平然と食べたのにね」目玉焼きに話しかける。


「さっきってなんだ?」ペイタはぞんざいな声を出す。


「完熟の目玉焼きよ」パツコはそっけなく答える。


「いつもと変わりない色だったぞ」ペイタは自分を疑う様子をまるで見せない。「へえぇ、そうなの」パツコは目玉焼きをさらに口へ運んだ。


 目玉焼きに目もくれず、ペイタが何やらパソコンを操作すると、成人した複数の男女の性交に耽〈ふけ〉る動画が流れる。ペイタはベッドに横たわり、指で口をいじりながら堂々と眺めた(セックスシテエナ)。パツコは画面に見向きもせず、聴こうともせず、黙々と空を眺めて朝食を続ける(朝カラエッチ動画ヲ見ルナンテ、最低!)。画面の中では、浅黒い肌の男が中途半端に膨らんだ男性器を片手に持ち、平目面〈づら〉の女性の顔に何度も打ちつけている。


 食事を終えてパツコは食器をてきぱきと洗う(アアァ、気持チ悪イ)。ペイタがブリーフのうえから盛りあがった股間を摩〈さす〉っている(オレモ女ノ顔ヲ叩キテエナ)。部屋には食器を洗う音と水の流れる音、それと競って喘〈あえ〉ぐ女達の声が響く。


 食器を洗い終えると、パツコは冷蔵庫から様変わりした野菜を取り出して、盆に載せてテーブルへ運んだ。「こりゃひでえ」ペイタは驚くどころか、むしろ呆れた態度で盆の野菜を一瞥〈いちべつ〉すると、すぐに画面へと目を移した。


「ペイタ、何色に見える?」パツコは先程痛めつけられた本を手に取る。


「いかれた色に見えるぜ」ペイタは画面から眼を動かさない。


「じゃなくて、何色ってことよ」


 パツコは両手でしっかり本の端を持ち、多くの色彩が載るページをペイタに向けた。ペイタは体を起こして腕を伸ばし、本に手をかけると見せてパツコの胸を鷲掴む(グウェヘヘヘ)。「きゃあああ!」パツコは激しく体を揺らして本を落とし、ペイタの手を反射的に撥〈は〉ね除〈の〉けて、「勝手にさわらないでよ!」朝一番の大声を叫ぶ。


「しっ! しっ! 隣の爺に殺されるぞ」ペイタが慌ててパツコの口を塞ごうとすると、大袈裟に後ずさりして逃げてしまう。はっとして、パツコは黙りこんで身を止める(大声出シチャッタ)。ペイタも壁の奥に注意をあてる。女を罵倒〈ばとう〉する醜悪な男達の声と、喜んでいるのか嫌がっているのかはっきりしない、下劣な女達の声が目立って聴こえた。


 壁からの反応はない。三十秒ほど経ってから二人は動きを再開した。パツコは再び同じページを開き、警戒しつつペイタに見せる。本に載る色と各野菜の色を見比べて、ペイタが指で示して伝える。レタスが水色、ピーマンが青紫色、茄子はたばこ色、人参は緑青色、そしてスイートコーンは青緑色である。


 パツコの見える色を伝えると、「もうわけがわかんねえ」ペイタはぷいと画面へ向いてしまう(黒ズンデ、キタネエ乳首ダナ)。口元を緩ませたまま、パツコは本のページを覗いて目を離さない(同ジニ見エル色ガナイノモ、不思議ダナ)。するとなにか興が高じたらしく、鞄からメモ帳を取り出して書き記す(モシカシタラ、何カ決マリデモアルノカナ)。


「ペイタ、今日は冒険だよ! 早く水族館に行かなきゃ」パツコはすっくと立ち上がり、無邪気な顔してペイタに話しかける。


「ええやだよ、こんな日に外出たら死んじまう。それよりも今日は一日中セックスしようぜ?」ペイタはぶ厚い顔を持ちあげてパツコを見上げる。


 パツコは巨大なペイタの尻を小気味好く蹴っ飛ばし、「早く用意して! 二十分後には出るよ!」そう言い捨てて風呂場に駆ける。


「おれはもう用意できているんだよぉ!」ペイタは微動だにせず股間をもぞもぞ触りながら、家畜らしい気の抜けた野太い声をあげた。


 十五分後にはパツコはすべての用意を済ませてしまい、それからペイタを煽〈あお〉り立てることに必死に働いて、四十分を過ぎて漸〈ようよ〉う二人は外に出かけた。

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