第3話

「ねえペイタ、そろそろ茶番は止〈や〉めにして、冷静に行動しない? 今思い出したけど、今日は新江ノ島水族館に行くんだから、とっとと支度〈したく〉して出かけようよ」今までの騒ぎをすっかり悟ったかのように、パツコは落ち着いた調子で話す。


「へっ? そういえば、そうだった」ペイタの動きがぴたっと止まる。


「水族館が待っているんだからね、もうごみ箱にかかずらう暇はないよ。わたし、今勇気と知力に満ち溢れている、もちろん水族館のおかげだよ。ちゃっちゃっと黒いごみ箱を片づけてやるわ」パツコは大きな眼をひん剥〈む〉いて話す。


「でも、おまえ呪われているんだぜ?」ペイタはぼそっと言う(ヤッパリ変ダ)。


「呪われてない! 呪われない! そんなのペイタの思い込み! わたしはやすやす呪われるような女じゃない!」パツコの声に力がこもる。


「でもよ……」ペイタの顔が歪む。


「うるさい! ペイタさっきからうるさい! 呪われないったら呪われないのぉ! そもそも、ごみ箱に起きたことは見間違いだよ! 二人とも寝ぼけていたんだから、そうに決まってる。ペイタのおならのせいで幻覚を見たの! あんなの、冷静に考えればはっきりしたことじゃない。ごみ箱から煙が湧いたり、水蒸気を噴いたりするわけないよ、ましてや馬や犬がいるわけないじゃない。それに、いたところでかわいい動物よ! それがどうしたというの? それだけのことじゃない! 本当にいたらペイタが飼えばいいんだ!」パツコがくるくる舌を回して捲〈まく〉し立てる。


「おまえはやっぱり呪われている!」ペイタが引きつった顔で断定する。


「しつこい! ペイタしつこい! ほんとしつこい! わたしもペイタも呪われてない。いたって健康、健全、どこもおかしいところなんかありゃしないの! もうぉ、わかったでしょ、わたしたちは問題ないの、ないったらないの! あるとすればあのごみ箱だけ。それもわたしが今証明してあげる」 


 パツコはティッシュペーパーの鞠を手につかんだまま毅然〈きぜん〉と立ちあがる。


「おれは別として、やっぱり、おまえはどう見ても呪われている」ペイタはパツコを見上げておそるおそる言った(オレガ呪ワレテイル理由〈ワケ〉ナイジャン)。 


「ペイタうるさい! ぶつけるよ!」そう言ってペイタに向かって投げる真似をすると、「ひい!」裏返った声をペイタがあげる。それから一瞬間をおいて、パツコはごみ箱へ赤い塊を放り投げた。


 ペイタの血を吸って重みの増したティッシュの塊が、真っ直ぐにごみ箱に飛び込むと、そのまま勢いよく倒してカタンと音を立てた。ペイタは投げる前から慄いていたが、パツコはごみ箱にすっぽり入れて確かめるつもりで、倒そうなどと思うどころか考えもしていなかった。さすがこれには水族館から力をもらったパツコも、スローモーションを持って脳に響き、一連の流れがまるで悪夢のように二人の目に映った。


 ごみ箱は玄関へ向いて倒れてしまい、二人にはその中身が見えない。二人は息を呑〈の〉んで固まっている。赤い塊だけがごみ箱の口から出てきて、なに食わぬ顔でころころ玄関へ転がっていく。それ以外に動いている物はない。二人とも、突然ごみ箱から煙か水蒸気が噴出して、その勢いで飛んできたらどうしようと思った。二人とも身を固めたまま、奇妙にも同じことを考えていた。


 ところが何も起こらない。二人には普段の何倍にも時間が遅く感じている。それでもやはり何も起こらない。


 口を開けたまま微動だにしなかったパツコは、ある瞬間に勝利を直感したらしく、早足でごみ箱に近づくと、思いきり蹴っ飛ばした。「おほっ!」ペイタがなにやら変な声を出すと同時に、ごみ箱は中身を吐き出しながら玄関に飛んだ。細い通路にはティッシュの残骸やら、菓子の袋、カップラーメンの容器がだらしなく散乱した。


 再び二人は動きを止めた。ペイタは小さくも頼もしい妹の背中を凝視して(トンデモネエ)、玄関に飛んでいったごみ箱に対する反応を窺〈うかが〉い、パツコはそんな兄の存在を一切忘れて、ごみ箱の一挙手一投足を見逃さぬように獣の注意力を保っている。ごみ箱は哀れなほど静かに横たわっている。


 またもや突発的に動き出したパツコは、大胆にごみ箱を持ち上げると、口を真下に向けて上下に激しく揺らしはじめた。底に沈んでいた屑〈くず〉は土間に埃〈ほこり〉をあげて散らばる。ペイタはベッドに手をついたまま腰を浮かして、肥えたハイエナのごとく、ごみ箱と格闘するパツコを覗いていた(オイオイ、危ネエゾ)。


 しつこくごみ箱を揺さぶり、何も吐き出さないのを確かめると、パツコはごみ箱を右腕に抱えて、左手で玄関の鍵を手際よくあける。小さい体を叩きつけて扉を押し開くと、その場に屈〈かが〉みこみ、口を封じるようにごみ箱を地面に押しつけて、擦りながら玄関脇に動かした。


 パツコはほっと息を吐き、満面の笑みを浮かべて顔を上げると(ゲッ!)、ちょっとばかり離れたところに、隣の住人であろう背中の曲がった老人男性が、ビニール袋をぶら下げてパツコを見ている。奇態な人を見て驚いているようすはなく、騒がしく囀〈さえず〉る愛らしい小鳥でも眺めるように、妙に微笑ましい顔をしている。


 パツコは自分のはしたない姿と行動に首元まで真っ赤になり(ウワァ、見ラレテタ!)、ずるい笑いを浮かべて「おはようございます」元気よく挨拶すると、老人もぼそっとつぶやいて丁寧に会釈する。パツコもつられて会釈して、さっと玄関の扉を閉めて引っ込んだ。


 すると、ベッドの上には不安な面持ちのまま、肥えた兄がこちらを見ている(ヤベエ、戻ッテキタゾ)。「ペイタ! やっつけたよ!」パツコが飛びあがってペイタに向かって走ると、パツコの期待とは裏腹に、ペイタはより一層怯えた顔をする(コッチニ来ヤガル!)。パツコが構わず飛びつくと、外見に似合わない機敏な動きでペイタは避けてしまい、顔からベッドに突っ込んで倒れた(ウワッ!)。


 ペイタの数少ない取り柄である、長〈た〉けた包容力をあてにしていたパツコは面食らい、ベッドの上を笑い転げる。するとペイタが「おめえやっぱり呪われているんだ。外に出て何か細工してたんだろう」情けない顔つきで声を震わせる。


「そうね、もしかしたら呪われているのかもね」パツコはうれしそうに笑ったまま、逃げようとするペイタの背中に飛びついた。


 ペイタは衣服に火がついたごとく慌てふためき、「おお! おお! やめてくれ!」と叫ぶ。その声を聞いたパツコは、振り落とされまいとより必死にしがみつき、「わたしが呪われていてもいいじゃない! 楽しいんだからいいじゃない!」と破裂したように叫んで、ペイタの背の脂肪にあけっぴろげな笑顔を埋〈うず〉めた。


 パツコの快活な笑いが波紋したらしく、ペイタは急に気分が好くなり、「ああ、そうだそうだ、べつにおれが呪われたわけじゃねえ、呪われたのはおまえだもんな!」背に手を回して、へばりついているパツコを剥がそうと、キャミソールをつかんで力任せに引っ張る。キャミソールはガムみたいに伸びる。


「そうよ、呪われたのはわたしなんだからね! おかげで、楽しくてしかたがないの。ほら、呪いを解きに早く水族館へ行こうよ!」


 ペイタの背中を景気よく平手打ちしてから離れると、すぐにパツコは大窓に近づいた(空ハ晴レテイルカナ?)。まるで痛覚を持ち合わせていないように、ペイタは背中をぽりぽり掻〈か〉く。ごみ箱を見事に退治して意気揚々とするパツコは、水族館への気分を左右するであろう今日の運勢を知るべく、水色のカーテンを左右にわっと開いた。


 真夏の朝の空は雲一つない桃空であり、またレタス空だ。「ぎゃあぁ!」二人同時に同じ言葉を使い、短十四度離れた協和しない大きな叫び声をあげた。すると待っていたかのように、ベランダに留まっていた大きなカラスがとぼけた顔を部屋の中に向けて、「カアァ、カアァ」鳴きながら、黒い羽を広げて飛び立つ。またそれを合図にしたかのように、「どんっどんっ」強く壁を叩く音が二度した。パツコはびくっと震えてペイタに抱きつく。ペイタもパツコをしっかりと抱く。


 二人はベッドの上でわなわな震えたまま、大窓から覗ける空──桃色、あるいはレタス色──から目が離せない。


「わたし、ほんとうに呪われたんだ。空が鮮やかなレタス色に見えるもん」パツコがやけに落ち着いてつぶやくと、「レタス色だぁ? おまえほんとうに狂ったんだな。かわいそうに、どう目をこすっても桃色じゃねえか」ペイタが珍しく同情を示す。


「桃色? ペイタも呪われたね」パツコはくすくす笑う。


「さっきのでおれにも呪いが移ったんだ」ペイタが忌々しそうな目でパツコを見た。


 パツコは震えが治まると、「ちょっとまって、ねえペイタ、わたしたちがおかしいんじゃなくてさぁ、あの空がおかしいんじゃないの?」眼をくりくりさせてペイタに言う。「空もおかしいが、おまえもおかしいぜ」ペイタは空を見て言う。


「ねえ、テレビをつけてみようよ」


 パツコは部屋の中央に据〈す〉えられた小さな黒いテーブルに手を伸ばし、リモコンをベッドの斜交〈はすか〉いに置かれたデスクトップ型のパソコンに向けて、液晶画面にテレビ番組を映させた。


 すべてのチャンネルを調べるものの、空に関してのニュースは見あたらない。パツコがテーブル上のマウスを動かして、インターネットサイトを調べる。何も起きていない。空は変わらず違った色をしている。


「これではっきりしたね」パツコはにやにやした顔をペイタに向けて、「わたしとペイタがおかしいのよ!」なぜか勝ち誇った調子で話す。


「これは夢だ!」ペイタが頭を抱えて奇声をあげる。


「夢のわけないじゃん! ペイタが夢ならわたしはなんなのよ?」パツコは指先で自分を示す。


「知らねえよ、精神異常じゃねえの? そうだ精神異常者だ! ははは、おれは違う、おれは夢だ!」ペイタは腹の底から声を出す。


 すると「どんっどんっどんっ」先ほどよりも強く壁を叩く音がして、瞬間、「朝っぱらからわめくんじゃねえ! 次騒いだらぶっ殺すぞお!」横隔膜を破かんばかりに吐きだされた強烈な声が、薄い壁を越えて二人に突き刺さる。怒声は老人男性らしき声であり、叩かれた壁は、パツコが先ほど挨拶した老人の立っていた側だ。


 二人の動きはぴたっと止められてしまい、お互い伏し目がちに顔を見合わせる。二人ともこの朝一番に心臓が高鳴っている。ペイタが静かに首を傾げると(隣ノ爺〈ジジイ〉ハ天然ノ異常者ダ)、パツコも合わせて慎重に傾げる(ソウイエバ、マダ早朝ダネ)。


「さっきの音は、そういう意味だったんだ」パツコがふと妙な微笑みを浮かべる。


「ひでえ朝だ」ペイタは汗塗〈まみ〉れの弛〈たる〉んだ腹を撫でる。


 老人の怒声が二人に現実世界の水をかけたようで、ペイタとパツコは極〈きま〉りの悪い落ち着きを取り戻した。二人は不可思議な朝を迎えたが、隣人は平時と変わらぬ朝を迎えていると極端な怒声が証明している。パツコはどうしても微笑みが内から湧いてくる(アノ優シソウナオ爺サンガ、アンナヒステリーナ声ヲ出スナンテ、コレコソ、朝ノ出来事ノ中デ一番不可解ナコトダヨ)。


「ねえ、ペイタ、とっとと準備して水族館へ行かない? すぐに朝食の用意するから早く出かけようよ。じゃないと、隣のお爺さんに殺されそう」物騒な言葉の割にパツコはうれしそうに話しかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る