第2話

 顔についた唾をティッシュで拭く間、ペイタは鼻を押さえて頻〈しき〉りに呻〈うめ〉いている。左手の甲がやけに痛むので(思ッタヨリモ、強ク殴ッタノカモ)、ペイタにいざり近づいて顔を覗〈のぞ〉くと、鼻周りに血が溢れている(ウワッ、血ガ出テル!)。パツコは急いでティッシュを貪〈むさぼ〉りつかんだ(酷〈ヒド〉イコトシチャッタ!)。


「ごめんなさい」パツコはそう言ってペイタの顔に近づく。


「鼻が折れた! 鼻が折れた! 鼻が折れた!」


 鼻を打ったから必然と涙が浮かんだのか、それともただ痛いから泣いているのか、ペイタは眼に涙を湛〈たた〉えて幾度も同じ言葉を叫ぶ。三十半ばを過ぎる頭の禿げかかった肥満の男が、仰向〈あおむ〉けになって泣きながら鼻血を流すのは、なんとみっともない姿だろう。ところがパツコは、そんな兄にたまらない同情と愛らしさを覚えてしまう。


 パツコは鼻を押さえるペイタの手をそっとつまみ(折レテイタラドウシヨウ)、持ち上げて鼻周りの血を丁寧に拭〈ぬぐ〉うと、「おまえのせいだぞ! おまえのせいでこうなったんだぞ! 責任とれよ!」ペイタは得意になって非難を浴びせる。「ごめんなさい」パツコがしおらしく謝り、鼻についた血を慎重に拭きかかると、ペイタは眼を瞑〈つむ〉って黙った(フンッ!)。


 鼻が折れたなら紫色に腫れあがるだろうに、鼻は平時と変わらず蟹〈かに〉みたく薄っぺらだ。低いくせに横着にも幅だけは立派にある。うっかり余計なことを言いそうになるのを堪〈こら〉えて(コンナ低インジャ、折レヨウガナイッテ)、パツコは黙々と作業を続ける(アア、折レテイナクテ良カッタ)。


 ペイタの手についた血を拭ってから、ティッシュの端を指で丸めて、幅広い鼻の穴に合わせた堰〈せき〉を拵〈こしら〉える。左穴にあてがうと思うより小さいようだ(アララ、大キメニ作ッタノニ)。もう二回りほど増補してはめ込む。ぴったりだ。パツコは奥に入り過ぎないように気をつけて挿し込む。同じ要領で右の穴も塞〈ふさ〉いだ。


「骨は折れているだろ?」ペイタの声は詰まって間抜けに聞こえる。


「ちょっと、素人目じゃわからないよ」パツコの声はすこしばかり明るい(折レテイルワケナイジャン。折レテイタラ、ジットシテイラレルワケナイヨ)。


「今日は土曜日だから病院は休みのはずだ。どうしよう、救急車でも呼ぶか」ペイタは仰向けのまま天井を見つめる。


「そんな早急に決めずに、もうすこしようすを見たら?」パツコは落ち着いた調子で言う(マッタク、男ノクセニ大袈裟〈オオゲサ〉ナンダカラ)。


「なにいいかげんなことを、おめえのせいだぞ!」ペイタはパツコをきっと睨〈にら〉んだ。


「ごめんなさい」パツコは静かに項垂〈うなだ〉れたまま(ハアア……)、血のこびりついたティッシュを集めると、きれいなのを一枚取りだして包んで丸める。赤く透ける塊が出来あがり、パツコはごみ箱に生じた先ほどの奇怪な出来事を思い出した。


「ねえ! ペイタ、さっきのあれはなんだったの?」ペイタの腕に手を添えてパツコは訊ねる。


「おおぉ、そうだそうだ、あれはいったいなんなんだ?」


 ペイタが重そうに体を起こすと、二人同時にごみ箱へ目を向けた。なんの変わりもない黒いごみ箱が、揺れることなくちょこんとたたずんでいる。パツコの顔はかすかに青くなり、ペイタの腕に手を回して体を近づける。ペイタは鼻血が止まらず顔が熱い。穴に栓〈せん〉されて行き場を失った血は、口内に流れて溜まり、ペイタは思わずごくんと飲みこんだ。カラスのとぼけた鳴き声がどこからか四度聞こえた。


「あの中に今もいるのかな?」改めて思い出すと、潜んでいる物が今にも飛び出してきそうなので、パツコは警戒してぼそっとつぶやく。


「物理的に考えると、馬があの小さなごみ箱に収まるはずがねえ。あの大きさの脚から推定すると、立派な大人の馬だ。大人の馬があんなごみ箱にいるわけがねえ」


 ごみ箱から目をそらさず、自分に聞かせるようにペイタはつぶやく(馬ナンカ、イルハズガネエ)。先ほど行われた滑稽〈こっけい〉なやりとりが有り得ないことのように、今では二人とも全身に緊張を走らせて、わずかに動くことさえ憚〈はばか〉っている。


「馬? 馬ってなに?」パツコもごみ箱から目を離せない。


「おまえは阿呆か? 馬は馬に決まっているだろ? そんなのも知らねえのか。なんだ、頭でもおかしくなったのか?」ペイタはごみ箱に話しかけて、じっと注意している(コイツ、何オカシナコト言ッテルンダ)。


「馬ぐらい知ってるよ! そんなの幼稚園児でもわかるよ。わたしが言いたいのはね、なんで馬が、今この場で話に出るってことよ」パツコの口調はやや強くなる。


「なんでかって、おまえ、あのごみ箱から出た馬の脚を見なかったのか? おめえ、頭だいじょうぶか?」ペイタは静かな声で訊ねる(コイツ、ヤッパリオカシイゾ)。


「何言ってるの、おかしいのはペイタでしょ! 馬の脚なんてどこにも見あたらなかったじゃない。出てきたのは犬の尻尾でしょ?」ペイタに呆〈あき〉れてしまい(ナンデ、馬ノ脚ニ見エルノカナ)、目線を動かさずにパツコはさらに口調を強める。


「犬の尻尾だぁ? おまえこそ何言ってるんだ?」ペイタはぞっとして(コイツ、言ッテルコトガ、完全ニオカシイゾ)、声はどことなく震えている。


「見なかったのぉ? 水蒸気と一緒に灰色の犬の尻尾が出てきたでしょ? こんな時にとぼけないでよ」ペイタに顔を向けてパツコはぷりぷりして言う(スットボケテ、人ヲカラカッテイルンダ)。


「こいつは気が狂ったか!」そう叫ぶと同時にパツコの腕を振り払い、ペイタは体を仰〈の〉け反らせて怪訝〈けげん〉そうにパツコの顔を見た。「さっきのことで呪われたんだ!」わさわさ後〈あと〉ずさりしながら叫ぶと、声と一緒に鼻の栓が飛んでペイタの股間に落ち、うっすら黄ばむ白いブリーフに粘っこい赤い液をこびりつけた。開いた鼻の穴からは再び血が滴〈したた〉り落ちて、ペイタの膨れた腹を染める。


 それを見たパツコはティッシュ箱をつかみ(アアァ、取レチャッタ)、ペイタに近づくと、「ちかよるなぁ!」ペイタがひょんな大声で叫ぶ。パツコの体はびくっと震えたが(狂ッタノハペイタジャン!)、構わずペイタに近づいて「ちょっとじっとしてて!」叩きつけるような声を出し、股間にへばりついたグロテスクな汚物を指でつまむと、ティッシュを取り出して包んだ。さらにティッシュを数枚取り出すと、箱の中は空っぽになってしまった(アッ、無クナッチャッタ!)。


 パツコはティッシュ二枚を端によけて残し、先ほど丸めた赤い塊を取ってペイタの腹に転がした。ペイタは血の流れぬように鼻をつまむのではなく、太い指を突っ込んで無理に塞ぎ止めたまま、鼻血の処理が終わるのを待っている(コイツ狂ッタクセニ、鼻血ノ処理ハ覚エテヤガル)。


 塊に腹の上の血を吸い取らせてから、未使用のティッシュが残らず拭き取る。それから端によけたティッシュを一枚使い、新たな栓を作りはじめる。パツコはさすがに要領を得ている。ペイタはそれを不審そうにじっと見ている(鼻ガ塞ガルマデ、変ナ行動ヲ取ラナケレバイイケド……)。


 すると、「犬だろうが馬だろうが、どっちでもいいじゃない」手を動かしながらパツコは諭〈さと〉すように優しく言う。それから手を止めて、ペイタの細い目の奥を見つめると、「ペイタもわたしも、おかしな物を見たことには変わらないんだから、同じことでしょ? ねえ?」我意を押し通す怪しげな顔で笑いかける(犬ヲ見タ、馬ヲ見タデ争ウナンテ、馬鹿々々シイ)。


 ペイタは何も言わずに(オイオイ、犬ト馬ジャエライ違イダゾ!)、ゆっくり首を傾〈かし〉げる(ヤッパリ狂ッテヤガル)。  


 鼻の栓が出来あがり指を引き抜いて穴にはめると、指を突っ込んでいたせいか、鼻の穴が広がって隙間なくはまらない。パツコは鼻息で飛ばないよう大きめに作ったつもりだったので、思いがけずベッドに笑い転げてしまった。ペイタは顔を上に向けたまま、なぜか自信ありあり胸を突き出している。


 ようやくペイタの鼻の穴を塞ぎ終えると、パツコは再びティッシュの残骸を集め、端によけておいた最後のティッシュに覆い包み、不細工な赤い鞠〈まり〉を作りあげた。二人は視線を再び黒いごみ箱に留め、それぞれが見た不可解な出来事を説明し合った。


「馬の脚の代わりに犬の尻尾で、煙じゃなくて水蒸気とはな……、どちらかが嘘をついているとしか思えねえな。もちろんおれは嘘をつくような男じゃないから、どう考えても嘘っぱちが得意なおまえだろうな。一度口にしたからといって、意地張って嘘をつき通すのは特にかわいいことじゃないんだぜ? ほら、おまえ勘違いしているだろぉ? 素直に間違っていたと認めるほうがずっとかわいいんだぜ?」


 ペイタは鼻にかかる間抜けな声でたらたら話すと、「それにしても暑い! おい、ちょっとごみ箱見張ってろよ」ベッドの脇にある水色のタオルを取って、顔を拭き、体を洗うように腋〈わき〉の下を擦〈こす〉った。


「こんなことで嘘ついてどうするの! 嘘ついて何か得することがあるの? わたし嘘なんかついてない!」言われたことを守り、パツコはごみ箱に向かって身の潔白を訴える。


「そんなのおれの知ったことか、正直言えよ!」ペイタは腹周りの汗を拭いている。


「正直って、なによ、さっきから正直に言ってるよ!」パツコがごみ箱に怒鳴る。


「おまえの正直はわかったからさぁ、早く本当のこと言えよ」そう言ってペイタはタオルを鼻に近づけて臭いを嗅ごうとしたが、嗅覚が機能していないことに気づく。


「もういい! 嘘でもなんでもいいわよ!」パツコはそれでもごみ箱から視線をそらさない。


「そうきたか。女はずるいずるい、そうやってごまかすんだもんな、まあいいや、かわいい妹の女らしさぐらい許してやるさ、おい、そんなにふてくされるなって、兄ちゃんが涙を拭いてやるから……」


 ペイタは言葉を言いきらない間に、眉間に皺を寄せたパツコの顔にタオルを近づける。強烈な臭いがパツコの鼻につき(臭ッ!)、さっとタオルに顔を向けると、肉を弛〈たる〉ませて微笑〈ほほえ〉むペイタの顔が奥に見えた。


 パツコは素早くタオルをひったくり、ペイタが声を出す間もないうちに、タオルを荒らかに丸めてごみ箱目掛けて放り投げた。タオルはごみ箱を飛び越えて流しの角にぶつかった。一瞬の出来事にペイタは度肝を抜かれ、パツコを責め立てようとした(ゴミ箱ニブツカッタラドウスル!)。


「馬鹿みたい! なにが、嘘だ、本当だ、正直に言えだ! わたしさっきから正直に言ってるもん! それに、わたし、ペイタが嘘をついていると思ってない! お互い違う物が見えただけじゃない、馬鹿にしないでよ!」


 タオルを握ったばかりの両手を忌々〈いまいま〉しくベッドに擦〈こす〉りつけながら、パツコは耳を突き刺す声をあげた。ペイタは両目を瞬〈またた〉かせて、「おお、そうだそうだ、お互い違うもんが見えたんだよな、しかたねえよな」適当なことを言うが(先ヲ越サレチマッタ!)、火のあがるほど激しく擦り続けるパツコの耳には入らない。


 ペイタは腫れ物に触〈さわ〉らないように、呆然とパツコの姿を眺めていると(コイツ、本当ニ狂ッテイルンジャナイカ? ゴミ箱カラ飛ビ出シタ物ガ、本当ハコイツニ取リ憑イテ、操ッテイルンジャネエカ? ソレナラオカシナ言動モ説明ガツクゾ。ソレニシテモ何時〈イツ〉ノ間ニ……)、一分程でパツコはけろりと元に戻った。手の平は赤々と熱を持ち、シーツは無残なほどよれよれになっている。パツコは近くに転がっている赤いティッシュの鞠をつかむと、顔をうつむかせ、恥ずかしそうに、また余所々々〈よそよそ〉しい態度で手の平に転がした。


「まだ、ごみ箱の中にいるのかなぁ?」パツコは誤魔化しきれない羞恥〈しゅうち〉を苦笑いに変えて、ペイタを上目に見る。


「どうかな、これだけ騒いで何もねえからな、うん、いないのかも、いや、もしかしたら……」ペイタが細い目をさらに縮めて、やけに冷静な面持ちでパツコを見返す。


「えっ? なに?」パツコはぞくっとした。


「おまえに取り憑りついたんだ!」ペイタは大声でそう叫ぶと、わっと体を仰け反らす。「きゃっ!」パツコはつられて叫ぶ。


「やっぱりそうだ、あれからやつは姿を現さないし、おまえも異常な行動をとる。そうだ、そうにちがいない!」ペイタは慌ててパツコから離れようとするが、大きな脂肪がもぞもぞ動くだけだ。


「ほんと? ほんとに? わたし、やつに取り憑かれたのかな?」そう言いながらも、パツコは微笑みながら(ソンナ理由〈ワケ〉ナイジャナイ! モウ、ペイタハスグニワタシヲ狂人ニ仕立テルンダカラ、ソレニヤツッテ誰ヨ?)ペイタにゆっくり近づく。「くるな! くるな!」ペイタは顔を歪〈ゆが〉めたまま手を振り振り、締まりのない肉を揺らす。パツコは突然何か思い出したらしく、動きを止めて一呼吸入れた。

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