比較

酒井小言

第1話

   一


「ぶっ」


 太陽が地平を昇りだしてから一刻経ち、ペイタは自〈みずか〉らの放屁の音に目を覚ました。凝縮された空気が風の通らない部屋に拡散されて、寝ぼけるよりも早く、強烈な臭いがペイタの鼻をくすぐる。


「なんて下劣な臭いだ!」


 景気の良い音は見せかけであって、屁は異常発酵した腸内の臭いを余すところなく伝えている。ニンニクや生姜〈しょうが〉、胡椒〈こしょう〉、ターメリック等、様々な調味料を綯〈な〉い交ぜにしてから、一晩置いて腐乱させたらしく、硫黄の広がる酢の強い臭いだ。


 眉間に皺〈しわ〉の寄ったペイタに、同じベッドに横たわる桜色のパンツが目についた。青白い血管の透く白い太腿の生える尻に、パンツは皮膚同様に張りつき、膨らんだ三角の中央に深い割れ目を浮かばせている。小振りで弛〈たる〉みのない立派な尻だと、大方の人は褒めるところだが、寝起きのペイタには自分が今嗅〈か〉がされている臭いの出口に見えて、感心するどころか憎たらしい。


「朝っぱらから、なんて生意気なけつだ!」


 咄嗟〈とっさ〉に三分の力を持って尻をぴしゃっと平手打ちした。尻は震え、パンツが割れ目にずり寄った。尻は鷹揚〈おうよう〉に動き出して声をあげる。


「なにすんの!」パツコは尻を摩〈さす〉っている。


「なにじゃねえ、おまえの不届きな寝っ屁に起こされて、朝一番にいかれた臭いを嗅がされた仕返しだ」ペイタが寝起きのパツコに声をぶつける。


「わっ、なにこの臭い」パツコは体を起こす。


「おまえのけつから出たずうずうしい空気だ」ペイタがさも知ったように言う。


「わたし、こんなおならしたことないよ」パツコは稜線〈りょうせん〉の美しい鼻をつまんでいる。


「いましたばかりじゃねえか!」ペイタが怒鳴る。


「若い女の子に、こんな臭いのおならは出せないよ。絶対ペイタのおならだって、だれに聞いてもそう言うはずだよ。わたしのせいにしないでよ」鼻にかかる声でパツコは言いきる。


「おまえのけつから出たのをはっきり聞いたんだぞ、おれはその音で目を覚ましたんだ」


 胡坐〈あぐら〉をかくパツコの尻を指して、ペイタは眉間に皺の寄ったままの顔を赤くさせている。パツコは鼻をつまんだまま溜息をつくと、汗の滲〈にじ〉む段々に重なったペイタの腹を見つめてから、檸檬〈れもん〉色のキャミソールの裾を捲〈ま〉くって自分の腹を見た。ペイタと違って余分な脂肪は無く、臍〈へそ〉は綺麗な縦に割れている(コノ腹カラ、アンナ臭イガ作ラレルワケナイジャン)。どうも腑〈ふ〉におちないが、朝から屁のことで言い合いするのも馬鹿々々しいので、パツコは口を黙らせたままいる。


「なんだおめえ、自分の腹なんか見て、ようやく自分のしたことを反省したのかぁ?」ペイタが語尾を延ばして話す。


「そうね」パツコは目を合わせずに澄〈す〉まして答える。


「おまえのけつに対してのお仕置きも納得できただろう? この醜悪〈しゅうあく〉な臭いを考えれば、まだお仕置きの足りないところほ、はっ、へ、へっくし」


 ペイタは自分の屁の臭いに鼻をくすぐられて、切れの悪いくしゃみをした。口からとんだ飛沫〈ひまつ〉がパツコの顔にふりかかる。屁の責任をとらされるばかりか、しぶきまでかけられてパツコはむっとしたが、何も言わずに枕元に手を伸ばし、ティッシュペーパーを数枚引き抜いた。続けざまにくしゃみするペイタに半分渡し、もう半分で自分の顔を拭く。


 八畳一間の部屋には、大窓を覆う水色のカーテンの隙間から強い光が射す。光はわずかにそれだけだ。熱帯夜を明かして、ペイタの肥えた体から発された蒸気と体臭、それに屁が混じり、部屋は異様な空気に満たされている。


 ペイタは体中から汗を流してくしゃみを続ける。くしゃみするたびに全身の肉はぶるっと揺れ、パツコの体に飛沫がかかる。パツコは持っているティッシュペーパーで体をさっと拭き、不器用なくしゃみを続けるペイタの姿をじっと眺めている。


 兄であるペイタの頭のてっぺんは禿〈は〉げかかり、ずんぐりした額と頬は吹出物に面積の三分の一を占めらている。背は低く、筋肉質のかけらさえない、黄色の汗をかく肥満体だ。


 一方、一回り年の離れる妹パツコは均整のとれた体つきをしており、面長〈おもなが〉の顔は眼と鼻が際立って美しい。背が低い割に手足は長く、小さい愛くるしさがある。二人の母親は後〈のち〉に生まれる妹を予期してなのか、優れた能力を兄にほとんど分け与えなかったようだ。親の持つ身体および精神の上等はすべて妹パツコに与えられ、ペイタという人間はわずかな残りかすで生存していた。


 高校卒業後ペイタはろくな定職につかず、人生への不満をぶら下げたままぼんやり毎日を過ごし、三十半〈なか〉ばに差し掛るという今でも、街頭でのティッシュ配りをして生計を立てていた。パツコは小さい頃にしかと将来の展望を描き、ほとんど道をそれることなく、目当てにしていた大手の広告会社に勤めている。


 パツコはペイタの散らかす湿った残骸を集め、未使用のティッシュに包んで一纏〈まと〉めにした。その横でペイタが薄い血混じりの鼻水を、次々とティッシュに包んでいく。


 くしゃみが治まる頃には、重みのあるティッシュの塊〈かたまり〉が二つ出来あがった。パツコはふと思いついて、こんなことを言い出した。


「ごみ箱に投げて、外〈はず〉したほうが朝食の用意をすることにしない?」パツコは左右の手に乗った塊をペイタに近づける。


「ええっ、やだよ、おまえが用意しろよ」ペイタは首を振って流しへ行けと指図する。


「なんでぇ、いいじゃない」パツコが唇を尖らせる。


「めんどくせえ」ペイタは下目にパツコを見る。


「わたしもめんどうくさい」パツコが抑揚〈よくよう〉なく話す。


「おれのほうがめんどくせえ」ペイタは声を強くする。


「せっかくティッシュをまとめたのに、これどうするの?」塊を揺らしてパツコは言う。


「おまえの平たい胸の中に入れて、女らしく補強しろよ」


 ペイタは関心の素振りも見せずに言う。瞬間的に左右の手がぴくっと動き、パツコは塊をぶよぶよの腹へぶつけようとしたが、実際に動きださなかった。


「じゃあこうしよう、二人とも入ったらわたしが用意するからさぁ、同時にこの玉を投げようよ。どうせペイタは外さないんだから、用意することないでしょ?」パツコが塊の一つをペイタの腹に押しつける。


「まあな、しかたないからつきあってやるか」自分の体液が染み込んだ塊をペイタはつかんだ。


 流しの傍にあるプラスチックの黒いごみ箱目掛けて、二人は一斉にティッシュの塊を放ると、緩やかな二つの放物線は外れることなく飛び込んだ。するとごみ箱はわずかに揺れ、灰色の煙が濛々〈もうもう〉とあがり、漆黒の細長い馬の脚がにゅっと煙の中にそそり立つ。一方、ごみ箱はかすかに揺れて、間欠泉のごとく水蒸気を吹き上げると、暗灰色の犬の尻尾がぴょこんと突き出る。


「うおぉ!」ペイタは全身を震わせて野太い声で叫ぶ。


「きゃぁ!」パツコは両手で口を覆い甲〈かん〉高い声で叫ぶ。


 馬の脚がさっと引っ込むと、煙は空気に溶けて跡形もなくなる。一方、犬の尻尾がすっと下がると、水蒸気はぴたっとおさまる。わずか五秒ばかりの出来事だった。


 二人は計っていたかのように顔を見合わせると、抱きつこうと動き出すパツコより早く、太いペイタの体が細いパツコの体にわっとしがみつき、そのままの勢いでベッドに押し倒した。「きゃっ!」パツコがか細い声を出すと、ペイタは脂〈あぶら〉の浮く顔をパツコの胸に押しつけて、肉をぶるぶる震わせて慄〈おおの〉く。予定の行動を反対に取られてしまったパツコは、汗でじっとりするペイタの横腹をぺしぺし叩き、「ペイタ、苦しい! どいてぇ!」もぞもぞ体を動かして抜け出ようとする。


「なんだよあれ! なんだよあれ!」ペイタはパツコの声が聞こえない。


「ちょっと、ペイタどいてよ! 苦しい!」パツコは力を込めてペイタの横腹を叩くものの、肉厚のある鈍感な腹の芯に届かず、表皮を撫〈な〉でるだけだ。


「おい! なんだよあれ! なんだよあれ!」ペイタにはパツコの張り手が一向に感じない。


「ねえ! ペイタ、どいてよぉ! つぶれそう!」


 パツコの振る腕が疲れてきて、その動きは鈍くなる。どうやら酸素が体に行き届かないようだ。ごみ箱の異変を忘れて目の前の危機に必死なパツコは、ペイタの横腹を抓〈つね〉ることを思いつく。直〈ただ〉ちに左右の手で肉をつかもうとすると、過剰に発汗する脂汗にすべってしまい(ヒドイ肉厚!)、つかむこともままならない(コノママジャ、圧死シチャウ!)。パツコは手に神経を集中させ(死ンジャウ!)、指を立ててなんとか肉をつかむことに成功した。


「パツコあれ見たか? なんだよあれ?」ペイタはそんな妹のことなどまるで気にかけない。


 朦朧〈もうろう〉としはじめる頭の中(アア、苦シイ!)、パツコは手首を捻〈ひね〉って肉を抓りあげる。しかしペイタに効き目はない。パツコは爪を思いきり立て肉に食い込ませる。やはり効果はない。今度は爪を立てたまま手を引いて、肉を削ろうと試みる(ナンデ気ガツカナイノ! デブゥ!)。肉どころか、脂の染みた垢〈あか〉が爪に詰まるだけだ。


「おれはなんか悪いことをしたのか? なんだよあれ!」ペイタは変わらない。


 苦しんでいるのも知らずに呑気〈のんき〉なことを喚〈わめ〉くペイタに、パツコは無性に怒りを覚えた(ペイタノデブ! 死ンダラ呪ッテヤル!)。捩〈ね〉じ曲がった性格の兄だが性根は悪くないと信じているパツコも、このまま自分が死んだら、髪の毛の先っちょほどは恨んでやると思っていると、「いてぇな! なにするんだ!」ペイタは押しつけていた面〈つら〉をあげて、後頭部をさすっている。


 急に意識のはっきりしたパツコは、顔をしかめるペイタをきょとんと見ていたが(横腹ヲツネッタノガ、今サラ効イタノカナ?)、後頭部をさすっているのはおかしい。気がつくと自分の両拳〈こぶし〉は硬く握られており(アレ?)、甲がじんじん痛む。無意識にペイタの後頭部を何度も打ちつけていたようだ。


 するとペイタが「ぺっ」勢いよく唾〈つば〉を吐きつける。唾はパツコの頬に広がってへばりついた。パツコの腕は反射的にペイタの顔指して向かい、握られたままの拳でこめかみを殴りつけた。「ごっ」鈍い音がする。家畜の脂肪を蓄えているペイタの顔も、こめかみ近辺の防御は手薄らしく、手で押さえて「ああぁ! ああぁ!」非常に痛がっている。


 パツコが手をさすっているところ(アッ! ヤリスギタカナ?)、「かあぁっ」と咽喉〈いんごう〉から耳を引っ掻〈か〉く音を起て、ペイタは直〈す〉ぐさまパツコの顔目掛けて巨大な痰〈たん〉を吐き出す。


 痰を集める音を聞いてペイタの行動を予期したパツコは(マタダ!)、首を横に曲げてかわすと、拳をペイタの鼻柱に真っ直ぐ叩き込んだ。「ぎゃあ!」体を後ろに反らして、ペイタはそのままベッドに重い背中をつけて倒れた。ペイタの尻の下敷きになっていた膝を抜き、パツコはどうにか鈍重〈どんじゅう〉な肉から解放された。

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