第75話 僕とボク -05

    五



「えい……じ……?」

「佑香……」

「えいじ、だぁ……」


 その声を聞くのは、何日ぶりだろう。

 とても懐かしい気がする。

 思わず、身体を完全に内へと向けてしまう。すると、佑香が二、三度瞬きをして、不思議そうにふわふわとした声で訊ねてくる。


「でも英時……何でここにいるの?」

「えっと……」


 その質問に僕は狼狽した。僕はここに本来はいない人間だ。それに、僕がここにいると思われてしまうと、小説の三分の一を破り捨てた意味がない。


「……夢だよ。夢」


 咄嗟に出た言い訳としては上出来だ。というかベターだ。

 佑香は、ぼーっとした声を出す。


「夢……なの……?」

「うん、そうだよ。だって当たり前じゃん。少年院に入っている奴が、こんなアメリカまで来れないっての」


 僕は笑ってそう言った。しかし、


「そう、だよね……」


 佑香は哀しそうにそう呟いた。

 思わず、夢じゃないと伝えたかった。

 だけど、我慢した。

 これが、佑香の幸せのためなのだから。

 僕は唇を噛み締めて、耐えた。

 耐えて――笑顔を見せた。


「……えへへ」


 突然、佑香が嬉しそうに笑った。その様子はとても可愛らしかった。だから僕は……いや、一応男子高校生だから、そういう欲求もあるわけで……

 ……違う意味でも、我慢しなくてはいけなくなった。

 佑香は笑顔のまま「よっ」とベッドの横に足を投げ出して、僕に向かって手を拱く。


「隣に来て」

「……分かった」


 僕は少し戸惑いながら、言われるがままに座る。


「んん! 違うって! もうちょっとこっちに!」

「いや、そこまで行くと近すぎ……」

「いいの!」

「うわ! 触れてるって! 腕が僕の腕に!」

「触れてんのよ!」

「だからそうだって言っているじゃん!」


 結局、僕は今までで一番佑香の近くにいた。というより、もうくっ付いていた。佑香は僕に寄り掛かっているのだから。


「うーん……夢っていいねえ」

「……」


 これって本当は僕の夢じゃないのか、と疑いたくなった。佑香の手前、頬をつねるわけにもいかなかったが、つねらなくても痛みを時折感じていたので、これが現実だと判っていた。

 目線を泳がせていた僕の目に、空に浮かんだ月が入ってくる。

 二人で見る月は、アメリカでも日本と同じように丸かった。


「きょ、今日は満月だね?」

「何故に疑問系なの?」

「いや、緊張しているんだよ」


 本音を言ってしまった。


「夢なのに?」

「チキンなんだよ」

「あはは。普段はチキンじゃないのにね」


 佑香は、笑った。

 その顔を見ているだけで、救われた気がした。

 受け止めてもらえる気がした。

 僕の全てを。


「……」


 と、佑香がゆっくりと身体を起こし、僕の方を向いた。

 僕も、彼女を見た。

 僕達は、向かい合った。

 月明かりに照らされる佑香の顔はとても可愛くて、

 とても綺麗だった。


「英時……」


 僕の名前に唇が動く。僕も返す。


「何、佑香?」

「あのさ、私、明日手術を受けるの」

「……え?」

「移植手術だよ」


 佑香はにっこりと微笑む。


「だからね、こうして夢でも会えて嬉しいよ」


 佑香はうふふと笑った。

 だが、その声が震えているのに、僕は気が付いていた。


「だってね……」


 佑香は僕の眼を真っ直ぐに見る。


「もう私は、夢を見られないかもしれないんだ。最後の夢かもしれないんだ。だからこんな幸せな夢で……良かった、ん、だよ……」


 佑香は笑顔のまま――涙を流した。

 僕は感じたことなかった。

 涙ってこんなに綺麗なんだな、と。

 佑香は、僕の胸に泣きついた。


「だからせめて……せめて、こんな幸せなこの夢の中だけにするから……弱い『私』でいさせて……お願い……」

「……分かった」


 僕は佑香の頭を、優しく撫でた。

 僕の中の欲なんか、とっくに吹き飛んでいた。

 佑香は、泣いていた。僕の胸に顔を押し付けて、嗚咽を漏らしながら。

 怖いのだろう。

 当事者でない僕には分からないが、相当なのだろう。

 たが、今は、彼女に笑ってほしい。

 その思いの方が強かった。


「あのさ。その『私』って佑香が言うと、結構萌えだよ。これからずっとそれにしたら?」

「……馬鹿。いつもじゃ萌えにならないでしょ」


 そう言いながら、佑香は笑顔で顔を上げる。

 僕らは――見つめ合った。

 どれくらいそうしていただろう。

 お互い口を開かず、ただ微笑んでいた。

 その時間は永遠のように思えた。


「……ねえ、英時?」


 先に口を開いたのは、佑香だった。


「夢だから言えることってあるよね?」

「うん。そうだね」

「だからね、私、一つだけ伝えたいことがあるの……」

「……何?」


 彼女は下を向く。

 遺言かと思って、僕は真剣な表情で身構えた。

 しかし――それは、違った。


「……あのね!」


 顔を上げた佑香の表情は――とびっきりの笑顔だった。



「鈴原佑香は、遠山英時のことが……大好きです!」

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