第64話 ボクと過去と命の価値と決意 -06

    六



 その瞬間だった。


 ――しゃらん


 ドアも窓も何も開けていないはずなのに、突然カーテンが揺れ、オレンジ色の光が私に当てられた。


「……オレンジ?」


 そこで私は、はっと気が付く。その事象を確認すべく、慌ててテレビをつけると、スーツ姿の女性が一礼して、次のように告げていた。


「こんばんは。午後のニュースです」

「……はぁ?」


 私は唖然とした。

 テレビのアナウンサーは、確かに『午後』と言った。

 ということは、今は……


「午後の……五時……」


 私は開いた口が塞がらなかった。

 まさか、半日以上寝ていたなんて……


「あは……あははは……」


 馬鹿みたいだ。

 半日以上寝ていた自分も。

 そして今――ナイフを持っている自分を。

 さっき夕日を浴びて、我に返った私は、馬鹿という言葉でもう一つ、あることに気が付いた。

 自分は何て愚かなんだろう、と。

 私は、さっきから自分のことしか考えていなかった。

 今死んだら、私は比較的に幸せだ。

 じゃあ、他の人は?

 そう。

 他の人の幸せを考えていなかった。

 私が死ぬのは、他の人にとって幸せなのか?

 お母さんも真美も奈美も、突然私が自殺したらどう思うだろうか。

 少なくとも、お母さんの気持ちになって見ると、とんでもないことだということがよく分かった。

 治療法が見つかった娘が、それをする前に自殺。

 そんなことがあったら、私だったら発狂して死んでいる。

 危ないところだった。


 お母さんを――殺すところだった。


 でも。

 手術が失敗したら、それでも私はお母さんを……殺すことになる。


「なら……どうしたらいいんだよ……」


 手術を受けても受けなくても、お母さんを殺す可能性がある。

 手術を受けた方がお母さんも生きる可能性は高くなるのは判っている。

 だが、その選択肢を選ぶ前には、お金と、生きる目的が立ちはだかっていた。

 生きる目的なんかない。

 生きて、それからのことなんて考えもしなかった。

 生きて、私に何が出来るだろうか?

 生きて、私に意味があるのだろうか?

 生きて、その人生に三〇〇〇万もの価値があるのだろうか?

 私はどこかで、死ぬこと前提にして生きてきた。

 今まで、何故生きてきたのか分からない。


「あはははは……」


 私の今までの人生は、無駄だったのか?

 これからに、繋がらないのか?

 私は、弱い。

 手術は、失敗すると思っている。

 そんな気持ちじゃ、失敗するのは分かっている。

 でも、どうしても私に『生きたい』と強く感じさせるものがなかった。

 お母さん達と一緒にいたいと思う。

 だけど、そんなのは手術しなくても出来る。むしろ手術した方が一緒にいられる時間が短くなる可能性がある。

 だから、私は強く『生きよう』と思えない。

 元気になって、何をしようかとか考えても思いつかない。

 そんな目標がないものに、三〇〇〇万円も価値はない。

 でも、死んだらお母さんは――


「もう……どうしたらいいか分からないよ……」


 私は、ただ言葉を落とすしかなかった。

 さっきから、同じことを何度も何度も繰り返し問答している。

 私には、三〇〇〇万ものお金をかける必要があるのか?

 私は何のために手術を受けて生きようとするのか?

 要するにそれだった。

 答えが欲しかった。

 理由が欲しかった。

 だけど私は、私にそれらを与えることが出来なかった。

 見つけられなかった。


「私は……どうすればいいの……?」


 私は、見つけられない悔しさと腹立たしさから泣きそうになり、下を向いて唇を噛み締めて涙を堪えながら、ぎゅっと両手を握り締めた。

 ――その時。

 ガラッという扉が開く音ともに、お母さんの元気のよい声が飛び込んできた。


「やはーっ! やぁ佑香、ご機嫌いかが? 答えは決ま……」


 と、笑顔だったお母さんの表情が、みるみる変貌していく。


「……何をしているの……?」


 私は一瞬、何が何だか分からなかったが、お母さんの視線の先を追うと、一発で判った。

 私の右手。

 未だにナイフが握られていた。

 すっかり忘れていた。

 忘れる程、考えていた。

 気がついたなら、ナイフを放すべきだろう。

 しかし私はそのナイフを放さずに握ったまま、お母さんに向かって口を開いていた。


「ねぇ、お母さん。教えて」


 その声は、どうしようもなく震えていた。


「私……どうすればいいの?」

「っ!」


 お母さんは持っていた鞄を落とす音が、静かな病室に響いた。


「どうすればいいって……手術を受ければいいんだよ」


 お母さんは、にっこりと笑ってそう言う。だが、その額には汗が浮かんでいた。


「手術を受けてどうするの?」

「どうするって……生きるんだよ」


 その答えに、私は小さく息を吐く。


「それじゃあ、どうして生きるために手術を受けるの?」

「どうしてって……それは……」


 お母さんは言葉に詰まり、目を伏せた。


「やっぱり、お母さんでも説明出来ないんだ……」


 私は、肩を落とすと、お母さんは「でも」と顔を上げた。


「でも、世の中には手術を受けられない人もいるのに佑香は手術を受けられるんだから、手術を受けるべきだよ」

「莫大なお金が掛かるのに?」

「お金のことは心配しなくていい」


 お母さんはそうきっぱりと断言して、胸を張った。


「お父さんの保険金があるのに、何で私が働いていると思っているのさ」

「……」


 私は今の今まで、お父さんの保険金があったことなんか知らなかった。中学生の時にその可能性を考えてみたことがあるが、心臓病だから保険なんて入れるはずがないと結論付けていた。

 しかし、それでも……


「でも、お金があっても、私にそんな莫大なお金の価値はない。だから……」

「は?」


 お母さんは目を丸くすると、いきなり腹を抱えて大笑いをした。


「あんた、そんなこと悩んでいたの? 馬鹿だねぇ」

「……」


 だが、私は笑わなかった。

 笑えず、ぽかん、と呆けるだけだった。


「いいかい?」


 お母さんは人差し指を立てて、笑顔を向けた。


「あんたの価値は、貨幣じゃ表せられないよ。こんなにも可愛い娘にね」

「……」

「あなたが生きているだけで、それで十分」


 その言葉は普通に受け取れば、とても嬉しいものだろう。

 だがその時の私は、歪曲して受け取った。


「……ただ生きていればいいの?」

「そうだよ」

「それは本当に価値があるの?」


 私は苛立ちながらそう問いかけた。いや、問いかけたというよりも非難したと言うほうが正しかった。


「そんなただ生きるためだけの人生に、何の価値があるの? 私には生きる目的がないんだよ。生きて、どうするの?」

「それは……私と一緒に」

「お母さんと一緒にいるために生きているのは、今でもそうじゃない。私は怖いんだよ」


 そう。

 お母さんと一緒に、出来るだけ長く生きたい。

 だから、こう考えてしまう。


「手術を受けて失敗したら、そこでお母さんと一緒にいることが出来るのはおしまい。そうなったら、私は悔やむと思う。あの世で悔やむと思う。こんなことなら手術を受けなければ良かった。そうすれば少しでも長くお母さんと一緒にいられたのに、って……」


 さっきまでそんな気持ちまで忘れていたとは、本当に愚かだった。


「……でも、佑香」


 お母さんは反論した。


「手術を受けなければいずれ死んじゃうんだよ? 手術を受ければ、ずっと一緒にいることも出来るかもしれないんだよ?」

「でも、死んで無駄なお金を使うだけになるかもしれないでしょ?」

「お金のことはどうでもいいって言っているでしょ」

「よくないよ。お母さん」


 私は静かに否定した。


「私は死ぬとしても、お母さんに迷惑を掛けたくない。この場合の最悪は手術を受けて失敗して、ただお金を失うこと。それだけは絶対に避けたい」


 最悪なパターンの回避方法。

 それは簡単だ。

 だから手術を受けるかどうかを、私は迷っている。

 手術を受けなければお金は失わないし、今すぐに死ぬこともない。


「何を言っているの、佑香?」


 お母さんの声は、震えていた。


「私にとっての最悪は……『佑香が死ぬこと』だよ」

「……」

「その最悪を避けるために、手術を受けてほしい」


 ――その時。

 お母さんの目から一筋、光るものが流れ落ちた。

 私は驚愕した。

 今まで、見たことがなかった。

 そう、お父さんの葬式の時にすら、見た覚えがない。


 お母さんの涙は。


「……」


 夫が死んでも娘にすら涙を隠す強い女性が、手術を受けてくれと今、こうして涙を流して頼んでいる。

 私の心は、大きく動いた。

 手術を受けようと、考え始めた。


 しかし――決断は出来なかった。


 お母さんと一緒にいるために手術を受ける。

 その思いはあったが、それだけでは決断出来なかった。

 生きる理由。

 それが私の中で引っ掛かっていた。

 どうしても、という理由がなかった。

 お母さんと一緒にいるためという理由は、正直な話、今も一緒にいる状態なのでそんなに強くは思えなかった。

 でも、何か……

 何か、後押しをしてくれるようなものが欲し――


「「佑香。私達からもお願い」」


 そうちょうどいいタイミングで現れたのは、真美と奈美だった。いや、でも台詞から、タイミングを見計らっていたのだろう。


「……」


 でも――私は、未だにうんと言えなかった。

 黙って、三人を見つめていることしか出来なかった。

 沈黙。

 その静寂がしばらくの間続く。

 テレビの音が鮮明に聞こえる。

 アナウンサーが私の学校で暴力事件があったというニュースを読み上げていて――


「……って、え? 私の学校?」


 私はこれまでの流れを完璧に無視して、驚きの声を上げてしまった。その声にお母さんも「え?」と反応する。

 私はニュースに耳を傾けた。



「今日夕方、市立城北高校で男子生徒一人が女子生徒三人に怪我を負わせるという事件がありました。女子生徒三人の内一人は頬の骨を折るなどの重傷。男子生徒は犯行を認めており、警察は男子生徒を傷害の容疑で逮捕しました。では次のニュースです……」

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