第63話 ボクと過去と命の価値と決意 -05
五
正直、驚いていた。
HLAってには、移植手術にとっての最大の障害。
それが私にはなかった。
ボクの心臓のドナーが、見つかったのだ。
お父さんの時に見つからなかった、ドナーが。
これは、喜ぶべきなんだろうか?
いや、喜ぶべきなんだろう。
だけど、素直に喜べなかった。
お母さんはその話を聞くなり「早速、手術の準備を!」と、先生に猛進したが、そこでボクが待ったをかけた。
「ごめんなさい。でも……少しだけ考えさせてください」
お母さんは即座に異を唱えたが、先生に「手術を受ける本人なんですから、考えることもあるでしょう。だから、少し時間を上げましょう」と説得され、渋々了承してくれた。
そこで先生から言い渡された期限は、明後日の朝まで。今は夜だから、つまり明日いっぱいが与えられた時間だということだ。
短かったが、それぐらいの方がいいのかもしれない。
「……とりあえず、今日はもう寝よう。考えるのは起きてからにしよう。今日は色々とありすぎてつか……れ……」
◆
――泣き声がする。
誰?
泣いているのは、誰?
その声は徐々に大きくなり、やがてうっすらとその姿が見えてきた。
あなたは誰?
何故、泣いているの?
その時、泣き声の中に単語が混じっているのが聞こえた。
同じ単語の繰り返し。
何て言っているの?
何を言っているの?
「……佑香」
え?
何で、私の名を……
ねぇ?
何で泣いているの?
お母さん。
「佑香……何で……何で失敗したんだよ……っ」
何が失敗したの?
泣かないでお母さん。
お母さんのすすり泣く声は、さらに大きくなった。
「こんな紙切れしか……」
その瞬間に、お母さんの周りに紙が降ってきた。
それは、借用書だった。
そこで、やっと判った。
私は、死んだのだ。
手術に失敗して。
だから、お母さんは泣いているんだ。
残ったのは、多額の借金。
と。
突然、お母さんの泣き声が止む。
次の私の眼に映ったのは、椅子の上に立つお母さん。
さらにその目の前には、輪が作られたロープ。
そしてお母さんは首に輪の中に入れ――
◆
「やめてっ!」
そう叫んだ瞬間、目の前にいたお母さんはいなくなっていて、代わりにいつもの光景が目に入った。
いつもの病室。
「……夢、だったのか」
どうやら電気を付けたまま、いつの間にか寝てしまったようだ。
私は息を切らしていた。大きく息をすると、汗で濡れた服が肌に触れる。その感触はとても気持ち悪かったが、それは私に現実感を強く抱かせた。
私は、生きている。
生きているから、この感触がある。
「良かった……」
私は、ほっと胸を撫で下ろす。
本当に、夢で良かった。
――だけど。
だけどあれも、可能性がある一つの未来。
手術が失敗してボクが死ぬ未来。
十二分に有り得る。
だから、その後のお母さんの行動も……有り得る。
心臓移植には、お金がたくさんかかる。少なくとも三〇〇〇万は掛かると認識している。もしかしてそれ以上かもしれない。そしてそれは、手術が失敗しても払わなくてはいけない。
手術が成功する確率は、決して低くはない。
だけど、リスクは相当高い。
だから手術は、大きなギャンブルと言っても過言ではない。
私は思う。
そのギャンブルをする程の価値が、私にはあるのだろうか?
お母さんは、無理にでも三〇〇〇万を払うだろう。
しかし……私には、三〇〇〇万円もの価値なんかないんじゃないか。
手術が成功しても、適合率がほぼ一〇〇パーセントだとしても、ボクに未来を望むのは難しい。
それに私には……生きる理由がない。
確かに生きていれば、お母さんと会える。
親友とも会える。
だがそれは、手術を受ける理由にはなるが、生きる理由にはならない。
むしろ……この今の状態で死んだ方がいいんじゃないか?
そう私は思っていた。
何故なら、このままだったら、お母さんは三〇〇〇万も払わなくて済む。そして親友に、そしてお母さんに想われたまま、逝ける。
多分私は、長く生きられない。
手術を受けて何の目的もないままだらだらと過ごして、死んでいく。
そんなものに、三〇〇〇万も価値はないだろう。
だから今死ぬのが、一番の幸せなんじゃないか?
誰にとっても。
私の考えがそこに辿り着いた――その時。
私の目に、机の上に置いてあるキラリと光るものが映った。
昨日、早めに帰したからだろう。
奈美の忘れ物の――果物ナイフ。
ナイフ。
「……はは」
神様ってやつは、とことん用意がいい。
思いついた途端、手段が出てくるなんて。
時計を見ると、短針は四と五の間を指している。
こんな時間に誰も来やしない。
カーテンも閉まっている。
邪魔は入らない。
簡単なことだ。
そのナイフで首でも切れば、一発だ。
「……」
私はゆっくりと立ち上がり、ナイフを手に取った。
とても――とても重かった。
ずしりとした確かな触感。
それは確かにそこに存在した。
今度は、夢なんかじゃない。
そのナイフを首元に当てる。
冷やりとした感触。
あとは、一突きすれば――死ねる。
先生。
ごめんなさい。
色々頑張ってくれたけど。
真美、奈美。
ごめんなさい。
私のこと、大好きだって言ってくれたけど。
お母さん。
ごめんなさい。
今まで、ありがとう。
「私は……幸せでした」
そう言って私は、ナイフを持つ手に力を込めた――
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