第60話 ボクと過去と命の価値と決意 -02

   二



「……」


 ゆっくりと自動的に視界が開かれてきた。

 そこにあったのは、肌色の何か。

 それが天井だと判るのに数秒かかった。

 ここはどこだ?

 そう思い、眼だけを動かし周りを見渡すと、なるほど判った。

 ここは病室だった。ボクの眼に映るのは幼い頃に何度も見た風景だった。ただし昔は広いように感じたが、今は妙に狭く感じる。

 そしてボクの右側に、本を読んでいる人がいた。藍色のロングヘアーの、優しい表情をした女性。

 ボクのよく知っている女性だった。

 その女性のことを、ボクは思わず呼んでいた。


「おかあ……さん……」


 その瞬間、びっくりしたような表情でお母さんはボクを凝視した。ボクはその表情がおかしくて、笑った。


「……あはは。そんな目で見つめないで。照れちゃうよ」

「佑香……目を覚まし……覚まして……」

「何を言ってるのさ。無意識に喋るほど、器用じゃないよ」

「佑香っ!」


 お母さんは、ボクに抱きついてきた。

 その体温はとても温かく、とても優しかった。

 ボクは、実感した。


「あぁ、ボク、生きているんだね」

「そうだよ! あんたはまだバリバリの現役で生きているよ!」


 涙声のお母さんは、一層強くボクを抱き締めた。


「お母さん、いた……」


 そこまで口にして止めた。

 その言葉は幼い頃、お母さんを苦しめた言葉。

 だから……

 ボクは首を振り、言い直した。


「……痛くないよ。お母さん」

「佑香……佑香……」

「大丈夫」


 そう。

 大丈夫。

 ボクはまだ――『ボク』だ。

 だから、お母さん。


「ボクは大丈夫だよ……」



    ◆



 その後、お母さんはみんなに連絡すると言ったから、ボクは「真美と奈美だけでいいよ。どうせそれだけで十分伝わるし」と頼んだ。お母さんは「でも……」眉を潜めたので、ボクは「じゃないと、家にあるDVD全部焚き火にするよ」と脅し、従わせた。

 程なくして様々な検査が始まった。どれもこれも久しかった。何年ぶりだろうか。先生から聞いたところ、ボクは倒れた日も含めて五日も意識が戻らなかったらしい。成程。だからこんなにも体がだるいのか。


 その一応の検査も全て終わった翌日。

 真美と奈美だけが病室に来た。


 それを見てボクは絶望した。


 いや――親友二人がすぐに来てくれたのは嬉しかった。

 しかし、ボクはある賭けをしていた。

 昨日、お母さんに「真美と奈美だけでいい」と言ったのは、この二人だけに言えば、情報は確実に英時にも伝わるだろうと考えていたからだ。それで他人から伝えられて、それでもこの病室に来てくれたら、ボクの賭けは成功だった。もし英時に直接伝えたら、嫌でも無理矢理来なくちゃいけなくなるだろう。嫌でも。

 だが、ボクの賭けは失敗した。

 だから、ボクは確信した。

 英時が、堺さんに命じたか何かして、あんなことをやらせたのだ。

 英時が、全ての犯人だったのだ。

 だから、ボクの目の前に顔を出せない。

 ボクは英時以外の人間に、恨まれるようなことはしていない。

 英時は、ボクに振られた腹いせにあんなことをしたのだろう。


「……全く、残念だよ」


 思わず口に出してしまった。

 二人は一瞬驚いたように表情をぴくっと動かしたが、次の瞬間に無表情のままで「およよ……」と棒読みで倒れこんだ。


「来たのが私達なのがそんなに残念だったのね」

「マラドーナじゃなくて、残念だったのね」

「いや、ごめん、残念ってのは別のことで、二人が来てくれたのは嬉しいよ。ってか何でマラドーナ?」

「じゃあ、地味―シオじゃなくて良かったね」

「うん。良かった……って何でっ!」


 ノリツッコミをしてみた。そういえば久しぶりなツッコミだ。何か懐かしい気がする。

 そんなことを思っていると、いつの間にか二人はボクの真正面に来ており、そして肩を叩いた。


「うん。それでこそ佑香だ」

「大丈夫そうだね」


 うん、とほっとしたような表情で二人は頷いた。

 そこから判った。

 この二人は、本気で心配してくれていたんだ。

 あくまでも、赤の他人なのに……

 ボクは感謝の気持ちでいっぱいだった。


「……ありがとう。真美。奈美」

「いいってことよ。でもさ」

「後で十倍返しね。利子付けて」

「どうやって返すんだよ」


 ボクは二人に向かって――笑った。


 その後も、お母さんがいない時には二人が学校を休んでまでいてくれた。それはさすがに駄目だろうと言ったのだが、二人は「私達は、まだ北海道に行っていることにしている。だから大丈夫。文句があるなら、寝ている時のあられもない姿をネットにばら撒くぞ」と脅されたので仕方なく了承した。そしてたまに高見君も、学校帰りに顔を出してくれた。まぁ、真美と奈美にいじられるだけだけど。


 だけど――あの人は来なかった。

 翌日も。その翌日も。その翌々日も。

 あの人は、一度も来なかった。


 ……何を期待しているんだ、ボクは。

 あの時、吹っ切ったじゃないか。それに、あの人が顔を出せるわけがないじゃないか。

 全く、馬鹿らしい。

 いつまでグジグジ考えているわけにもいかない。

 もう、あの人のことは忘れよう。


 ――しかし。

 ボクが目覚めてから四日後のことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る