第58話 僕と懺悔と怒りと白い世界 -12
一二
程なくして僕は、教室の目の前まで来ていた。
ここまで数分。
自己ベストな気がする。まぁ、普段は走っていないけど……
とりあえず目的のものをさっさと持って帰って、早く佑香のところに行かなきゃ。いや、行きたいな。
そう思いながら教室の扉に手を掛けると、
「――あの子、入院してもう一週間が経つよね」
僕は思わず、手を止める。
あの声は――堺さんか。
その声の直後に聞こえる「そうだね」と新しく二つの声。言うまでもなく、二瀬さんと逆島さんだった。
何だ。佑香のことを心配してくれているんだなと嬉しく思い、感謝の言葉を述べようと手に力を入れようとした――その時だった。
思いもよらない言葉が、耳に飛び込んできた。
「まさか、水を掛けたくらいで病気になるなんてね」
……………………え?
今、何て言った?
水を掛けたくらいで?
……聞き間違いかもしれない。
まだ、断定するな。
静かに、聞き耳を立てる。
すると――笑い声が聞こえた。
「あのさぁ、早紀ちゃん。まずくなぁい?」
「何が? 公ちゃん」
「だってさ、私達が水を掛けてその場に倒れていたらしいんだよ」
「へぇ、偶然って怖いわねぇ」
けたけたという笑い声が聞こえた。
もう、間違いはなかった。
完璧にこの三人が――犯人だ。
「……っ!」
落ち着け。
落ち着け、僕。
佑香に言われたじゃないか。
犯人に復讐するな、と。
だから……落ち着け。
聞こえないように静かに大きく深呼吸した。
三人の笑い声は、まだ続いている。
「あれぇ? これ、なぁに?」
「どうしたの? 由宇ちゃん」
「早紀ちゃん。あの子の机の中に、こんなの見つけちゃった」
「なになに……あぁ、文化祭の写真の申し込み用紙ね」
「あはは。この時にはまだいたんだね」
「でも今いないじゃない。なら――いらないじゃん」
その言葉と共に、「ビリビリッ」という鈍い小さな音が聞こえた。
それは間違いなく――申し込み用紙を破る音だった。
続く、げらげらという笑い声。
「――っつ!」
僕は本気で切れそうになった。
拳は限りないまで握り締められて太ももに押し付けられ、歯は割れんばかりの勢いで噛み締め、頭にはおそらく血管が浮き上がっている程力を込めていた。
だが、我慢した。
佑香の言葉を、守るために。
……落ち着け。
考えろ。
もう、目的のものはなくなったのだから、これで帰ればいいじゃないか。帰ろう。さぁ、早くみんなの所へ戻ろう。あぁどうやって言い訳するかな。僕の申し込み用紙を渡すか。うん。それがいい。さぁ、戻ろう。戻ろう。もどろ――
「あの子さぁ。水掛けたくらいで倒れて大げさだよね」
「公ちゃんの言う通りだよ。また自分はか弱いですみたいなアピールしてんじゃない?」
「あはは。由宇ちゃんも言うねぇ。あーあ、あの子――
――死ねばいいのに」
「――――っつ!」
その瞬間。
僕の頭の中で何かが千切れる音がした。
まず、扉を蹴り壊したのは覚えている。
そして机を蹴り飛ばし……あぁ、違う。
すぐ近くにいた奴を吹っ飛ばしたんだった。名前何だっけ? えーっと……まぁ、いいや。こんな奴の名前なんか。
次に……あぁ、そうだ。もう一人ぶん殴ったんだった。壁に激突した音が妙に鈍かったなぁ。
そして――そうだ。こいつの名前だけは忘れないさ。明らかに主犯だもんな。
堺早紀。
お前だけは――許さない。
僕は右腕を振りあげるのを自覚した。
そこからは……よく判らない。
目の前が真っ白になった。
感覚もほとんどなかった。
ただ、僕は右腕と左腕が動いているのを感じた。
右、左、右、左。
テンポよく。一、二、三、と。
全力で。
あれ?
今、右拳でミシッと音がしたな。
あぁ、そうか。
右手が折れたのか。
まぁ、いいや。
痛みなんて、もう感じていなかった。
最初から、感じていたのはただ一つ。
怒りだけ。
右手で殴ると感触が変だ。
それでも、機械のように僕は動いた。
唐突に、僕は立つ。
何で立ったんだろう?
それ以前に座っていたのだろうか?
そんなのはどうでもいい。
とりあえず、次だ。
真っ白な世界でも、何故か次に行くべき場所は分かった。
僕は歩いた。
ゆっくりと、歩いた。
顔が徐々に見えてきた。
誰だ?
あぁ、逆島か。
こいつも――
「――やめろ英時っ!!!」
声が聞こえた。
やぁ、広人。
何でそんな顔をしているんだ?
お前もこっちに――
ガンッ
頭の中でそんな音が響いた。
気が付くと目の前は真っ白ではなく、椅子や机が散乱した教室内に変わっていた。
何故か、頭がくらくらする。眩暈とかそんなレベルじゃなかった。
僕は後ろを振り向く。
するとそこには、椅子を手に持ちこちらを睨む、堺がいた。
と――僕の頬を伝って、何か流れた。
触って見なくても判った。
血だった。
あぁ、大分流れているな。
まぁ、どうでもいいや。
それよりも……。
「……あんたっ! 何すんのよ! 私の顔……傷ついちゃったじゃな……い!」
堺はきんきんうるさい声で泣き叫んでいた。本当はもっともごもごとした発音だったが、言っていることは合っているだろう。
そして堺は――こう続けた。
「女の子は顔が命なのにっ!」
……あぁ、ありがとう。
今回、初めて君に感謝するよ。
頭の血を抜いてくれたおかげで、お前の腐ったその言葉を理解できたからな。
「ふざけるなあああああああああああッ!!」
僕は力の限り怒鳴った。
「女の子は顔が命? ふざけんな! 命って言葉を軽々しく使ってんじゃねぇ! 顔が命ならそんな顔になったお前は死んでいるのか? ほらどうなんだよ!」
頭がくらくらするのが激しくなってきた。もう、倒れそうだ。
でも、僕は踏ん張った。
「な……何なのよ……」
教室の端から、そうすすり泣く声が聞こえた。
「私達が何をしたっていうのよ……」
その言葉に、また血が昇りそうだったが、幸いなのかもう昇る分もないそうだ。一層立ち眩みが激しくなっただけだ。
僕は爪を立て、拳を握り締めて意識を保つ。
大丈夫。
「なぁ、お前ら。高齢のおばあさんがいきなり水を被ったら、どうなるでしょうか?」
「はぁ、何を……」
「いいから答えろ! 堺!」
僕の怒鳴り声に一瞬びくっと体を浮かした堺は、ふて腐れたように答えた。
「……そりゃ、死ぬでしょ」
「ほぅ。どうしてだ?」
「どうしてって……年なんだから、心臓が弱っているでしょ。そんなとこに突然水を掛けたら、一発で止まっちゃうよ」
「へぇ。じゃあ、最後の質問だ」
僕は堺を睨み付けて、大きな声で言葉を突きつけた。
「心臓が弱い人に突然水を掛けたらどうなるんだ!?」
「……っ!」
その言葉に、馬鹿な脳でも判ったらしい。
「お前達はやったのはそういうことだ! この殺人者!」
そう叫んだ、その時だった。
突然、僕は後ろから誰かに身体を掴まれた。
「っ!」
それに驚いて振り向くと、そこには一人の男性がいた。
知らない人だった。
だがその人の服装から、何故そこにその人がいたのかは判った。
「大人しくしなさい!」
その男は、見る限り警察官だった。こんな状況でコスプレする阿呆などいないだろうから、本物だ。何故こんなにも早くに学校に警察官がいるかは不明だが、いるのだからもう仕方がない。
僕は観念した様に深く息を吐く。
そんな僕に対し、その警察官は告げる。
「君を――傷害罪として現行犯逮捕する」
「分かりました」
僕は頷いた。
傷害をしたのは事実だ。
「でも、その前に少し……そうですね。五分だけ時間を下さい。逃げませんから」
意外なほど冷静に、僕はそう答えていた。
警察官は少し考える仕草を見せた後、首を縦に振った。
僕はゆっくりと、教室の外に出る。いつの間にか少々のギャラリーが出来ていた。その中に知っている顔を三つ見つけると、僕は笑いながら軽く声を掛けた。
「広人、真美、奈美。ごめんな」
「何やってんだよ!?」
「とりあえず……何か止血できるものをくれ」
「止血も何も……」
「遠山君、一滴も出ていないよ」
「へ……?」
真美と奈美にそう言われて頭に手をやったところ、コブが出来ているだけで、確かに血は出ていなかった。
「あはは。ちょっと混乱しているね」
「笑っている場合じゃないだろ……」
声が震えていると思ったら、広人は涙を流していた。
「どうして……」
「ごめんな、広人。でも僕、どうしても許せなかったんだ。
佑香のことを……『死ねばいいのに』ってやつだけは」
「……っ! あいつら、そんなこと言ったのか!」
「あぁ」
残り何分だろう。
頭が痛くて考えられない。
ちらりと真美と奈美を見ると、二人は物凄い形相で教室の中を睨んでいる。そんな二人に、僕は声を掛けた。
「二人とも。あいつらに報復はもうしないでくれ」
「何で?」
「あいつら、私も許せない」
「そうしたら、お前達も逮捕されるじゃん。そうしたら誰が佑香の傍にいるんだよ」
「「でも……」」
二人は俯いた。僕はふぅと一息ついた。
「もしさ、これでもあいつらが反省しないようだったら、その時は社会的に抹殺してくれ。だからその時のために、今は我慢してくれ」
「「……」」
二人はしばらく唸ったが、やがていつもの表情で一言、
「「分かった」」
とだけ僕に告げた。
その時。
「おい。そろそろ……」
警察官の声がした。
はぁ、と短く息を吐き、そして警察官の方へと歩き始めた。
「あ、そうだ。忘れていた」
と、僕は警察官の前まで行き両手を前に出した時、大切なことを忘れているのに気がつき、首だけ後ろを向けて、三人に言った。
「広人。真美。奈美。佑香にこう伝えといてくれ」
僕は、にかっと笑った。
「『ごめんな。セリヌンティウス』って」
ガシャンという無機質な金属の音が鳴ると、ひんやりとした感触を僕は手首に感じた。
一〇月××日
遠山英時
一八歳。
女子生徒三名への傷害罪で――逮捕。
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